「行くなよ、俺のこと好きなんだろ」
背中にかけられた声にビクリと肩が跳ねる。まるで熱した腕輪でもしているように、彼に掴まれた手首がジンジンと脈を打った。
「どこで覚えたの。そんな言葉」
絞るように声を出せば背中越しに笑い声が聞こえてくる。その声を聞くだけで爽やかな風が吹く草原に連れてこられた気になってしまう。
彼とわたしの二人だけの世界で手と手を取り合ってステップを踏む。彼が足を踏み出すたびにその足跡から花が咲いて、わたしたちの軌跡が美しく彩られていって——。
はっと我に返る。目の前にはグレーの扉。薄暗い部屋の中、彼に握られた手首は未だ熱く、わたしのなかの何かを溶かしている。
「誰かに教わったわけじゃないさ。あなたを見ていたら、ふっと生まれてきたんだ。まるで蕾から花がひらくみたいにね」
ほら、という声に振り向いてみれば彼の手にはカリンの花が咲いていた。薄桃色をした愛らしい花だ。わたしの想いを養分に彼の手の中央から、にょききょきと枝が伸び、葉がつくと次々に花が咲いていく。
カリンの花言葉は、唯一の恋。
「なあ、一緒にいようよ」
つい、目を合わせれば彼の黒い瞳が次第にカリンと同じ薄桃色へ夜明けを迎えたように色を変えていった。薄桃色に染まった瞳からはもう目が離せない。それに瞳だけじゃない。甘い香りが鼻をついて快感が脳を刺激する。
ああ、ダメだ……。
そう思った途端、指先が花粉のように小さな粒子となってカリンに吸い込まれていく。
カシャン、と互いの手首にかけられた手錠が音を立てた。
「このっ、くそ野郎が……!」
そう吐き捨てて連続殺人犯を睨みあげる。彼を化け物、と呼べない時点で負けていた。
「桃井刑事、こわい顔しないで。だいじょうぶ。みんなと一緒。やさしくするよ」
カリンの瞳に真っ白な肌。天窓から注ぐ月の光が彼を照らすとその白さが一層際立ち不気味さを増長させる。だけれど、ほんのり色づいた艷やかな唇が少しひらいて見目麗しく表情を緩めると、その姿は言葉をなくすほどに美しい。
恋で貶め人を喰う化け物は惜しかったねと微笑む。その表情を最後に意識が途切れた。
捜査は難航するだろう。
カリンの化け物は「ごちそうさまでした」と悦な仕草で手のひらを舐めた。