↓テキスト版(内容は同じです)
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現代では、ガルグ=マク大修道院およびその門前町をあわせて、セイロス市と呼んでいる。
そんなセイロス市にあるガルグ=マク大修道院付属学校は名門私立学校だ。その起源はおよそ千年前からガルグ=マク大修道院に併設されていた士官学校にまで遡る。現在ではガルグ=マク大修道院付属学校は、幼稚舎から大学までを抱えている。
フェルディナントとヒューベルトが、ガルグ=マク大修道院付属大学の法学部に入学したのが、二年前。二人はアドラステア帝国にいたときから顔見知りであったが、当初の二人の仲は険悪の代名詞とでも呼ぶべき代物だった。
だが二人は徐々に仲良くなった。少なくとも予定がない日に、二人でカフェでテフや紅茶を嗜むようになるくらいには。
孤月の節の十五日。ヒューベルトはセイロス市駅前のカフェで、フェルディナントと落ち合う約束をした。この時期の大学生は、長い春休みのまっさなかだ。
暦の上ではもう春だ。だが吹き抜ける風はまだ冷たい。それでも日差しがぽかぽかと温かく、この場にリンハルトがいれば思う存分昼寝を始めたことだろう。道ばたに設置された花壇で、クロッカスが青紫に色づいている。
澄み渡った青空を、雲が脳天気な速度で流れている。
ヒューベルトがセイロス市駅前のカフェに到着したころには、フェルディナントはテラス席で紙にボールペンを走らせていた。ヒューベルトは戯れに気配を殺して、フェルディナントの背後に近寄る。
フェルディナントの紙カップから、南方の果実茶の薫りが漂っていた。ヒューベルトはフェルディナントの手元を覗き込む。
「……このSNSが発達した時代に、手紙とはまた……古風な趣味ですな」
「おおう! ヒューベルト!」
フェルディナントが仰け反った拍子に、フェルディナントが大学に入ってから伸ばし始めた髪が揺れる。
「ヒューベルト! 気配を殺して話しかけないでくれたまえ!」
「くくく……これは失敬……」
「隠し立てするような内容でないからよかったものの……」
フェルディナントが開き直ったように、書きかけの手紙を机に広げる。ヒューベルトはテラス席に腰掛けた。
「その様子では恋文などではなさそうですな」
「そんなわけがあるまい。ペンフレンドへの返信だよ」
「おや、文通ですか。相手はどなたです」
「どなた、と訊かれると困るな。私は『先生』と呼んでいる」
「……随分と曖昧な情報ですな」
「文通を始めたきっかけが、匿名の往復書簡でね。もう十年前になるが、アンヴァルのある雑誌編集者が面白い企画を立ち上げたのだ。アドラステア帝国に住む誰かがペンネームで書いた手紙を雑誌編集部に送ると、雑誌編集部が仲立ちとなって、アドラステア帝国のどこかに住む誰かへ手紙を送ってくれる、という仕組みだった」
「なるほど、相手のペンネームが『先生』だったと。十年間ずっと出版社が仲立ちを?」
「最初だけさ。実は途中で先生は外国へ引っ越すことになってね。住所と名字だけを教えあって、後は自分で切手代を出して文通を続けているのさ」
フェルディナントは誇らしげに笑った。
「……先生はこの春からセイロス市で新社会人になるらしい。しばらく国際郵便を使うことはないだろうね」
ヒューベルトは、フェルディナントが机に広げた手紙を眺める。
フェルディナントは良くも悪くも明朗だ。フェルディナントは相手に抱く好感度すら、その態度に表してしまう。文面においても言わずもがな。
―――二人称が、貴方。
なんとまあ、分かりやすいことだ。フェルディナントは『先生』のことを心から敬愛しているらしい。
○
孤月の節十五日
拝啓。
お手紙拝読した。元気そうでなにより。
先生の就職先が、この春からセイロス市の学校になるという一報には驚かされた。貴方と書簡のやりとりを始めてから、かれこれ十年。あだ名として使っていた「先生」という名称が、現実になると知って心から喜ばしい限りだ。
貴方が進路を教師にするか、傭兵にするか悩んでいた時期のことを思い出すよ。貴方は本気で傭兵になるところだったね。手紙を受け取っていた私までもがひやひやして、軍属になるにしてもせめて正規軍に所属してくれ……と思ったものさ。
実家の伝手を頼って、貴方にアドラステア帝国の軍務職を紹介してやろうかとすら思っていた。
その必要がなくなって、少しばかりほっとしている。傭兵になられてしまったら、きっと先生はその凄腕でもってフォドラ中を飛び回ることになるだろう。そうなれば貴方と往復書簡を続けるのが難しくなるところだった。危ない、危ない。
とにかくおめでとう、先生。
知っての通り、私は二年前からセイロス市にある大学へ通っている。言わずもがな、学生寮もセイロス市にある。つまり私は先生がこれから住むことになる街の先住民というわけだ。
貴方は国をまたぐような引っ越しの多い人だったから、これほど近所に住むことになるのは往復書簡を始めて以来、初めてではないだろうか。知らず知らずのうちに、街で貴方とすれ違うこともあるかもしれないね。
この書簡が貴方のもとに届くころには、先生はセイロス市への引っ越しの準備を始めていることだろう。
セイロス市は盆地だ。夏は暑く、冬は寒い。
夏はとにかく熱帯夜が続く。新居はエアコンが付いた部屋を選びたまえよ。さもなくば熱中症で倒れかねない。
冬場の雪は少ないが、とにかく底冷えする。防寒具を実家から持ってくるなら、ウインドブレーカーよりもセーターをお勧めする。
せっかくセイロス市に住むのだから、街を散策してみても良いかもしれないね。
私のお勧めの観光地はガルグ=マク国立博物館だ。
……ガルグ=マク大修道院ではないのか、と思ったかもしれない。実のところ、私がガルグ=マク国立博物館を勧めるのには理由がある。
この春、ガルグ=マク国立博物館で「フォドラの武具展」が開催されるのだ。前々から手紙に書いていたが、私の趣味は武具の収集でね。武具にはそれなりに詳しいつもりだ。
そんな私が敢えて書こう。この「フォドラの武具展」で展示される武具は、並々ならぬ価値を持つ、と。詳しく書けば紙面が足りなくなる。ともかく先生も見に行きたまえ。私も行くつもりだ。
色々と書き連ねてみたが、実際に住んでみることで分かることも多いだろう。先生の新生活が実り豊かなものになることを、心から祈っているよ。
新住所が決まったら、教えてくれたまえ。返信を待つ。
敬具
セイロス市先住民の私より
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「次はセイロス市駅、セイロス市駅―――」
列車内にアナウンスが流れる。ベレスは慌てて読み終えた手紙を封筒に戻し、リュックサックに入れる。ベレスは高速鉄道の荷物棚からキャリーバッグを下ろし、キャリーバッグを引きながら小走りで高速鉄道の出入り口に向かう。出入り口前には高速鉄道の乗客が集まっている。
ベレスは人混みでもみくちゃになりながら駅のホームへ下りる。ベレスの背後で高速鉄道のドアがぷしー、と空気のような音を鳴らしながら閉まった。
セイロス市駅のホームにはビジネスマンや親子連れ、キャリーバッグを引く観光客で溢れている。ベレスはホーム上の比較的人の少ない場所に移動すると、ようやっと息を零した。
ベレスはリュックサックから地図を出して、地図を片手に駅の改札へ向かう。携帯電話の類いは持っていない。ベレスの父であるジェラルトは流れの傭兵で、フォドラ中を引っ越しすることが多かった。しょっちゅう国をまたぐ引っ越しをするのだ。携帯電話の契約も、解約も、手間がかかることこのうえない。だからいちいち携帯電話の契約なんて、やってられなかったのだ。
改札を抜けて、駅の外に出る。ベレスは駅の周辺を見回した。セイロス市は数千年続く古都と聴いていたが、駅の周辺は現代的だ。
セイロス市の政策で、建物には高さ制限が敷かれている。だからアンヴァルやフェルディアやデアドラと比べれば、ビル群の高さは低い。だが見所はいくらでもある。例えばセイロス市駅の北側に、セイロスタワーがある。
セイロスタワーは高さ制限が敷かれる前に建てられたから、ビル群を突き抜ける高さがある。このセイロスタワーがセイロス市で最も高い建築物になる。建物の高さに換算すると、三十階くらいの高さに相当するらしい。
セイロス市駅の北側にはビル群とともに、バスターミナルが広がっている。とにもかくにもバス停の数が多い。
ベレスは注意深く地図を読み込んで、ようやっとガルグ=マク大修道院付属高校行きの循環バスが止まるバス停を見付ける。バスが次に発車するまで、残り五分。余裕があるといえばあるが、慣れない土地を移動する割にはぎりぎりだ。
ベレスは足早に、バス停へ向かう。ベレスが引くキャリーバッグのタイヤが、がらごろと音を立てながら、石畳の地面を滑っていく。
バス停には大勢の観光客や地元住民らしき人々が行列をなしていた。今の時期、学生は春休みだ。来節からこの行列に学生が加わる。バスはどのくらい混み合うのだろうか。
ベレスが考えているうちに、バスが来た。セイロス市を走るバスは、そのほとんどがセイロス市が運営しているセイロス市バスだ。バスはミントグリーン色に塗装されている。バスの淡い緑の色味は、なんとなく古都の持つ雰囲気と混ざり合い、古都らしさを引き立てている。
バスはまだ空いていた。セイロス市駅発のバスだからだ。
ベレスは空いた座席に腰掛けると、リュックサックから手紙を取り出した。読み終えた手紙を改めて読み返す。
―――匿名の往復書簡を始めてから、十年。そんな事実に、ベレスは改めてはっとさせられる。
ベレスは十年前のある時期、アドラステア帝国に住んでいた。
当時ベレスは無表情で、感情の発露が少なかった。そんなベレスを心配して、ジェラルトはある雑誌の企画を見付けてきた。
匿名の往復書簡。
雑誌の編集部が仲立ちとなり、アドラステア帝国に住むどこかの誰かが書いた匿名の手紙を交換する……そんな企画だった。
ジェラルトは
「他人とコミュニケーションを取る訓練になるだろ」
と豪快に笑っていた。ベレスは
「たしかにね」
と無表情で頷き、さくっと手紙を書いて、アンヴァルにある雑誌の編集社へ手紙を送った。手紙の返信が返ってきたのは、それから二週間後のことだった。
手紙を彩っていたのは、幼い筆跡だった。
手紙を書いていたのは「わたし」という一人称の誰かだった。
手紙の文面を大きな文字が飾っていた。ベレスこと、「先生」へ、手紙を送ってくれた感謝や、手紙を受け取った感動、それから次の返信を待ち望む期待が書き連ねられていた。―――手紙を書いた誰かの明るい感情が真っ直ぐに、ベレスの心を貫いた。ベレスの凪いだ水面のような心に、太陽が力強く差し込んだ……そう実感させられた。
ベレスは何度も、何度も、その手紙を読み返した。太陽が文字を書いた、そんな風に思えた。ベレスがそんな詩的な感傷を抱いたのは、生まれて初めてのことだった。ベレスの心の奥底から、泉のように疑問が湧き出してくる。
―――どんな人が、太ようのような手紙を書いているのだろう? 「わたし」というくらいだから、女の子だろうか? それとも男の子?
なにがすきなんだろう? すきな食べものは? なにをしてあそぶのがすき?
かおも、なまえも知らない、きっと年下の子。太ようのように明るくて、ぴかぴかしただれかさん。
―――この人のことを知りたいと思った。
ベレスは思わず頬をほころばせながら、手紙の返信を書いた。やがてその手紙の返信が「わたし」から届き、また手紙の返事を出す。
たまに郵便が長らく届かないことがあるから、そんなときはベレスから追加の手紙を送る。「彼」から手紙の返信がまとめて返ってくる。
そんなやりとりが十年続いている。
いつの間にかベレスに届く手紙の筆跡から幼さが抜けた。手紙を彩るのは、美しくて、それでいて勢いのある筆跡だ。
今のベレスは文通相手について、いろいろなことを知っている。
一人称は「私」だけど、れっきとした男性であること。紅茶を飲むのが好きなこと。武具の収集が趣味であること。努力家で、とびっきりの自信家であること。それでいて、けなげなところもあること。
ベレスが何度外国へ引っ越しても、律儀に手紙の返信をくれる人であること。
この春、セイロス市内の大学の二回生に進級すること。大学の学部は法学部で、民法の期末試験が難関であること。
名字はエーギル。……アドラステア帝国南東部の地名だ。「彼」の実家もアドラステア帝国のエーギル地方にあるらしい。
バスのアナウンスが、ガルグ=マク大修道院付属高校の最寄りバス停に到着したと告げる。
ベレスは手紙をリュックサックにしまって、キャリーバッグを引きながらバスを降りる。春風がベレスの髪を巻き上げた。街路樹として桜が植えられているが、まだ花は咲いていない。街路樹の桜の枝では蕾がふっくらとふくらんでいる。もう少し温かくなれば、満面の桜が道路を飾るだろう。
ベレスは地図を手に、街並みを進む。セイロス市駅周辺と比べると、街並みの高さは控えめだ。
低めの建物の奥に、ガルグ=マク大修道院が見える。数千年の古都の象徴が、セイロス市の中心部にそびえている。
大通りから脇に逸れて、住宅街をしばらく進む。教員寮が見えてくる。
教員寮はマンションだった。白い壁面がまばゆく輝いている。この建物の一階の角部屋がベレスの新しい住まいだ。
管理人室から部屋の鍵を貰い受け、ベレスは自室の鍵を開ける。広いワンルームには、白を基調としたエレガントなデザインのカーペットが敷かれている。カーペットの上に棚と机と椅子、それから大きなベッドが置かれていた。
壁にエアコンが付いていて、ちょっと嬉しくなる。
ベレスの引っ越しの荷物はキャリーバッグと、リュックサックだけだ。引っ越しの後片付けはあっという間に終わってしまった。
ベレスは腕時計を眺める。時間は午前十一時。
ベレスはふと、バスで読んでいた手紙を思い出した。ガルグ=マク国立博物館で開催されるという「フォドラの武具展」……。
ガルグ=マク国立博物館なら、地下鉄やバスを乗り継げば二十分ほどで着く。手紙のネタになるし、ついでに昼ご飯を外食して帰れる。一石二鳥だ。
ベレスは財布と部屋の鍵だけをボトムスのポケットに入れて、軽やかに部屋を出た。
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博物館は静謐だ。平日の昼間ならなおのこと。博物館の人入りはまばらだった。
展示室には、展示物を少しでも痛めないよう、最小限の明りだけが点されている。誰もが会話すら控える。人のまばらな足音と、呼吸の音すら聞こえてくるようだ。
分厚いガラスケースの奥に、フォドラ中から集められた武具が展示されている。
―――「彼」が好きそうだな、と思う。
ベレスと手紙を交わす「彼」は武具の収集が趣味だ。
武具の性能なども興味深く思っているようだ。だが「彼」が真に惹かれているのは、武具から覗く文化や、交易の気配だ。
「彼」曰く、どんな武具にもその武具が作られた地域の気候、地形、外交関係の影響が見られるのだという。どんな武具も、人が係わっている。
歴史に名を残すかどうかに係わりなく、武具の細部に、誰かが成すべきを成した気配が残っている。そんな事実を「彼」は愛している。
「フォドラの武具展」はまさに「彼」が好きそうな武具が揃っている。
フォドラ各地の交易の影響を受けて、形を変えていった武具。そんな武具が歴史の解説文とともに展示されている。
ベレスは一つ目の展示室を見終えると、昏い通路を抜けて、二つ目の展示室に入る。
二つ目の展示室には、アドラステア帝国の武具が展示されているようだった。入り口近くにアドラステア帝国の歴史を解説したパネルが置かれている。
パネルの隣に設置されたガラスケースで剣が展示されている。鍔の白い、握りが鮮烈な赤色の剣。
背の高い男性が、独りで剣の展示を眺めていた。エアコンで温度管理がなされているのか、博物館の展示室はほのかに肌寒い。ほの寒い空気がベレスの足を撫で上げた気がした。鳥肌が立つ。ベレスの世界から音が消える。
―――目を奪われた。武具にではなく、ひとに。
ぴん、と張られた背筋。鍛えているのだろうか。背中が広い。香水の薫り―――温かみのある甘さの奥に、柔らかな美しさを感じる薫り。彫りの深い顔立ち。意志の強さを感じる眉。太陽色の瞳が剣をまっすぐに見据えている。その人の内から湧き出す自信が、目の奥で凜と輝いている。少し長い太陽色の髪が、肩に掛かっている。
―――「彼」だ。ベレスの直感が叫び上げる。……違う、ベレスは「彼」がどんな見た目をしているか知らない。ベレスの理性が、叫び上げる直感をなだめる。ベレスの感情が胸の奥で、ぐちゃぐちゃに混ざり合う。
―――激情、やっと会えたという直感。……沈痛、「彼」と偶然出会えるわけがないという理性。
ベレスは立ち尽くし、浅い呼吸だけを繰り返す。それでもベレスの瞳は、展示室に立つ男性の姿を、熱く見つめていた。
男性が展示されていた剣から目を離す。ベレスに気がつく。男性が怪訝そうに眼を細めた。男性の視線がベレスをまっすぐに貫いた。
「……私に何か?」
男性の声はよく通る。
ベレスの耳に足音や、すれ違う人が呼吸する気配が戻ってくる。ベレスは頬を赤らめながら、なんとか言葉を絞り出す。
「すまない。知り合いに似ていたから」
「人違いだろう」
「……そうだね。失礼した」
ベレスは胸元で手をきゅっと握りしめた。―――知り合いに似ていた、なんてへんてこな言い訳だ。ベレスは「彼」を見たことがない。声も知らない。
男性はそれきりベレスへの興味を失ったようだ。男性はその場を離れ、次の展示物へと歩み去ってしまう。
ベレスはしばらく、その場に立ち尽くしていた。
ベレスの顔と、胸の奥がやけに熱くて仕方なかった。ベレスの手のひらに汗が滲む。脳の奥底でさっき男性が放った言霊が乱反響している。
―――嗚呼、一人称が「私」の男のひとだった。
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孤月の節二十五日
拝復。お元気だろうか。
そんなことより、今日のわたしは大混乱している。混乱のあまり、頭がバクハツしてしまいそうだ。いや、そこまででもないかもしれない。分からない、こんなに自分のことがよくわからないのは、生まれて初めてだ。
とにかく心がどったんばったん、頭もまとめてぎったんばったんのありさまだ。
そんなときはとりあえず、きみに手紙を書くと頭が整理される……はずだ。そんなわけだから、きみに手紙を書いている。
字が普段よりも汚くなっている気がするけど、十年来の文通友達であるきみなら気合いと根性で読めると信じている。ファイト!
とはいえ、何から書けばいいんだろう? 結論?
結論から書くと、先生は生まれて初めて男のひとに恋をしたかもしれない。付け加えると、連絡先どころか、どこの誰かすら知らないひとだ。
いや、結論だけ書いてもきみに伝わらないな。順序立てて書こう。そうしよう。そのほうが、わたしの頭も整理されるかも知れない。
先生は今日、アドラステア帝国のルミール村から、はるばるセイロス市に引っ越してきたんだ。
ルミール村からマルティンまで電車に乗って、マルティンからセイロス市まで高速鉄道に乗った。
高速鉄道に一人で乗るなんて、初めてのことだからちょっと緊張したよ。引っ越し前にきみから手紙が届いていたから、高速鉄道できみの手紙を読んだ。
わたしの進路で、きみに随分と心配を掛けたみたいだね。心配してくれてありがとう!
そういえばきみは大学に進学してから、ずっとセイロス市で暮らしていたよね。冬にはセーターを着たほうがいいとか、夏の熱帯夜対策でエアコンを部屋に付けたほうがいいというアドバイスは助かった。
新居にはエアコンが付いているし、箪笥にはセーターがちゃんと入っているよ。それ以外の必要なものは、今後買いそろえていこうと思う。
新居へは昼前に着いた。時間に余裕があるし、どうしようかな? と思ったわたしは、きみの手紙に書かれていた「フォドラの武具展」を思い出したんだ。新居からガルグ=マク国立博物館はそれなりに近い。せっかくだしきみへの手紙を書くネタにしようと思って、「フォドラの武具展」を見に行ったんだ。
先生が一目惚れした男のひとに出会ったのが、まさに「フォドラの武器展」だったんだ。
すごくかっこいい男の人が博物館の展示物を見ていた。
びっくりして、そのひとのことを見つめているうちに、そのひとは立ち去ってしまった。当たり前だね、博物館の展示を見に来ているんだから。
……その男のひとが立ち去ってしまってから、なんとか家に帰りついたけど……心のなかがぐるぐるしていて、落ち着かない。まぶたを閉じてみると、博物館で見かけたあの男のひとの姿が、ぼんやりと浮かび上がってくる。重傷だ。これは夢にも出るぞ、きっと。
これが恋?
わたしとしたことが、思わずその場に立ち尽くしちゃって、その男のひとの連絡先どころか、名前すら訊くのを失念していた。
すごくしょんぼりだ……。セイロス市は広いから、きっと二度と会うことはできないだろうね……。
書いているうちに、ちょっと落ち着いてきた気がするな。
とはいえ読み返すのが恥ずかしい。だからこのままこの手紙は封筒に入れて、ポストへ投函してしまおうと思う。
わたしの大混乱っぷりを大目に見てほしい。新居の住所は封筒に書いておくから、確認よろしくね。
敬具
混乱する先生より
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新学期早々、フェルディナントの様子がおかしかった。
講義にはきっちりと出てくる。予習、復習を行ったうえで、講義メモも取っている。だが講義中に時折、ボールペンを取り落としたり、鞄に視線をちらちらと向けたりする。
挙げ句、授業が終わったあと、道路沿いに植えられた桜が真っ白に咲き誇るのを見て、呆然とため息を吐いている。
一般の学生ならこのくらいはあり得るだろう。
だがフェルディナントに限っては、かなりの異常事態だ。何事にも全力投球がフェルディナントの信条だ。ヒューベルトはフェルディナントが良くも悪くも全力で生きている男だと知っている。
チャイムが鳴って、二限の刑法の授業が終わる。講義室からは学生が勢いよく流れ出していく。昼休みの食堂は混むからだ。
フェルディナントはまだ、ぼうとしているようだ。筆記具や教科書を片付けるのが普段よりも遅い。
「風邪でも引いたかのような緩慢さですな。フェルディナント殿」
「内科には行ったのだが……何も異常はないと言われたな」
「そうですか。……リンハルト殿やカスパル殿と、一緒に昼食を取ることになっていましたが、どうしますか。貴殿だけ欠席しますか」
「行く」
フェルディナントが鞄に筆記具や教科書を入れる。フェルディナントの鞄に白い封筒が入っているのが見えた。封筒の紙がすこしばかりへたっていた。何度も中に入っている手紙を取り出したのだろうか。
フェルディナントは白い封筒を一瞥してから、鞄のチャックを閉めた。
講義室を抜けて、食堂へ向かう。春先の温かい光が地面に差し込んでいた。
昼時の食堂は既に学生が詰めかけて、ごった返していた。食堂の周辺は集まった学生が雑踏となり、騒がしかった。
食堂のテラス席に座っていたカスパルとリンハルトが手を軽く振った。テラス席のテーブルにはリンハルトとカスパルの昼食が置かれている。
「遅かったね」
「先に食べてるぞ!」
「……席を取っておいてくれたのかね。助かるよ」
「フェルディナント、珍しく元気ないじゃねえか」
カスパルが昼食のカツサンドを頬張る。
「フェルディナント殿、直球に訊きますが『先生』絡みで何かがあったのでしょう?」
「ヒューベルト! なぜそれを!」
「貴殿が明朗すぎて、赤子でもこの程度読み取れるでしょうな」
ヒューベルトはテラス席に腰掛ける。フェルディナントが視線をわずかに泳がせながら、空いたテラス席に着いた。
リンハルトが眠そうに
「『先生』って?」
と訊くと、ヒューベルトが
「フェルディナント殿が十年来、匿名の文通を交わしている相手です」
と解説する。カスパルが
「ふうん。で、何があったんだ?」
とカツサンドを食べ進めながら問いかける。フェルディナントが視線をわずかに逸らしつつ
「いや……大したことではないのだがね……」
と言葉を濁らせる。
「大したことないなら、言えばいいじゃねえか」
「そうそう」
「貴殿がそのような有様だと調子が狂います。何があったのか、さっさと白状していただきたい」
級友一同からやいやいと言葉の雨嵐が降ってくる。フェルディナントが観念したように、固い表情で口を開いた。
「……私が十年来文通を続けている『先生』が、生まれて初めて恋をしたらしいのだが……」
「いいことじゃない」
「私も喜ばしいことだと思うべきだとは……分かっているのだ。……分かってはいるのだが……」
「だが?」
「『私のほうが先に先生と知り合っていたのに』と、思ってしまって……。……十年来の友人の恋路を応援できないなど……貴族にあるまじき振る舞いだ……」
フェルディナントが通夜のような雰囲気を纏いながら、沈み込む。落ち込むことにすら全力であるのがフェルディナントらしい。
ヒューベルトは静かにリンハルト、カスパルと目を見合わせた。各々の目に呆れや、面白がるそぶりが滲んでいる。
「フェルディナント。それ、恋」
「恋? 誰が誰に?」
「貴殿から『先生』に決まっているでしょう。くくく……、どれだけ初心をこじらせているのですか」
「私が? 『先生』に恋を?」
「お前以外に誰がいるってんだ」
フェルディナントの纏っていた空気が深海から引き上げられる。フェルディナントはしばらく呆然としていたが、やがて顔を赤らめながら頭を抱えた。
蒼い春風が吹き抜けた。
○
ガルグ=マク大修道院付属高校は、セイロス市の北辺にある。煉瓦造りの校舎は温かな暖色で、煉瓦には石らしい光沢が宿っている。広い校庭からはセイロス市北部の山々を仰ぎ見ることができる。春の山々は桜などの植物で彩られ、白や薄緑色に染まっていた。
春休み明け初日ということもあり、今日の授業は半日だけだ。高校の校庭に差し込む春の昼間の陽気はほがらかで、過ごしやすい。
「センセイも大変だったわね。新社会人になって早々、担任になるなんて……」
「そういうものじゃないの?」
「違うわよ。普通はある程度、先輩の先生に見守られながら授業をするの」
「慣らし運転ってことか」
「そういうこと。……大司教様から圧力が掛けられた……なんて噂があるけど、どこまで本当なんだか」
マヌエラは妖艶に腕を組んだ。マヌエラの仕草は色っぽくて、同性であるベレスですらどきりとさせられてしまう。マヌエラがベレスを流し見た。
「センセ、困ったことがあったら頼ってちょうだいね。同じ教師として、あたくしは助力を惜しまないつもりよ」
「……そうだなあ。……担任になった以上、全力で頑張りたいし……わたしが担当する科目の知識をもっと増やしたいかな……」
「素晴らしいわ、センセイ! それならガルグ=マク大修道院付属大学の図書館を紹介するわ」
「大学? 入っていいの?」
「付属学校の教員は立ち入りが許可されているの。ガルグ=マク大修道院付属大学は教育学部なんかもあるから、きっとセンセイが読みたい本が揃っているわ!」
「すごい! ありがとう、マヌエラ!」
「センセ、時間があるなら今から行ってみる? ついでにご飯をご一緒しましょ?」
「ご飯を食べるのは大好きだよ」
「あら、そうなの? ふふ、さっそくセンセイの好きなものを知れちゃったわね」
マヌエラが黒いヒールを鳴らしながら、颯爽と歩き始める。ベレスがマヌエラに近寄ると、甘くてそれでいて華やかな香水が薫った。
ガルグ=マク大修道院附属高校から付属大学のキャンパスまで、私鉄で三十分ほど離れていた。マヌエラがベレスを先導するように歩いた。道路はアスファルトで舗装されている道が多いが、石畳になっている場所も少なくない。なのに、マヌエラは黒いヒールで道を鮮やかに歩いて行く。
マヌエラが歩くたびに、ヒールが楽しげに鳴る。
「センセ、連絡先を交換しましょ」
「実はまだ携帯電話を持っていないんだ」
「本当に?」
「うん。父の海外転勤が多くて……契約する機会がなかったんだ」
「そうだったの。給料が出たら、買った方がいいわよ。センセ」
「やっぱりいるかなあ」
「いるわよ。やけ酒をして朝起きられないときとか、学校に休みの連絡をいれなくっちゃ」
「それもそうだね」
「センセイは大樹の節からの勤務だから……給料が出るのは来節の二十日ね」
「それまで風邪を引かないよう気をつけなきゃ。休みの連絡を入れるのすら、一苦労しそうだ」
「そうね、センセ。……あら、喋っているうちに着いたわね」
「大きな図書館だね」
「地上四階建て、地下もあるのよ」
図書館は煉瓦造りの荘厳な建物だった。外壁の装飾は少ないが、それ故に質実剛健な美しさを感じさせる。
マヌエラの後ろについて、ベレスは図書館の自動ドアを潜る。古びた紙が放つ独特のかび臭さが感じられない。換気が徹底されているらしい。図書館のホールは賑やかとまでは行かないが、学生の話し声などがそれなりに響いていた。ホールは図書館一階にある各部屋や、階段や、エレベーターホールと繋がっている。
「図書館にあるセミナールームは学生でも、教師でも借りられるの。防音もしっかりしている……はずなんだけど……」
「若干、音漏れしているね……」
「よほど大声を張り上げているのかしら? まあいいわ、行きましょう。センセ」
「そうだね」
ベレスは小首を傾げた。セミナールームから漏れ聞こえる声に、聞き覚えがある気がした。
○
リンハルトはあくびをしながら、思う。
未だかつて、このようなしょうもない理由で、図書館のセミナールームを借りた学生がいるのだろうか。
リンハルトはカスパルとともに、部屋の前方を眺めた。
セミナールームの前方には大きな白板が設置され、白板の前には机と椅子がそれぞれ二十個ずつ設置されている。白板にはホワイトボードマーカーで文字が書き連ねられている。赤字はフェルディナント、黒字はヒューベルトが書いたものだ。白板では文字が無秩序に飛び交っていて、何を目的に書いた文字なのか読み解くのは困難だ。
リンハルトとカスパルが早々に議論から抜けたため、舌戦はフェルディナントとヒューベルトの一騎打ちとなっていた。フェルディナントとヒューベルトがホワイトボードマーカーを手に、向き合っている。
「待ちたまえ! 私が先生に恋をしていると結論づけるのは早計だろう!」
「往生際が悪いですな」
「十年、十年だぞ! 十年文通を続けて、唐突に恋へ落ちるはずがあるまい!」
「恋の始まりは理屈ではないでしょう」
「君からそんな薄ら寒い台詞を聴く日が来ようとはな!」
「くくく……散々な言いようですな。先生と知り合って十年経つというのに、横からかっさらわれかけている男は言うことが違う」
「事実誤認が過ぎる。博物館で男を見かけただけだろう!」
「貴殿は先生の顔すら知らぬわけですが」
「……名字は知っている」
「アイスナーなど、それなりにいる名字ではありませんか」
「ぐっ、確かにそうだが……!」
フェルディナントは興奮すると声量が上がる。ただでさえよく通る声の持ち主だ。ひょっとしなくともフェルディナントの声は、セミナールームの防音機能を突き抜けているのではないだろうか。
一方のヒューベルトは、気合いが入れば入るほど、慇懃無礼さに磨きが掛かっていく。ヒューベルトのアンニュイな瞳が、心なしか月のように輝いている気がする。
エーデルガルトに害が及ばない範囲において、ヒューベルトは学生生活を楽しんでいる。
友人の恋路も言わずもがな、エーデルガルトには何の迷惑も掛からない。つまり存分に面白がれる。
「……ねえ、カスパル。ちょっとひらめいたんだけどさ」
「どうした、リンハルト」
「前にフェルディナントの部屋へ遊びに行ったときのこと覚えてる?」
「お前ほどじゃねえけど散らかってたな。集めている武具で」
「……机の上にも工具が置かれていたよね」
「置かれていた。……ってことはフェルディナントはどこで手紙を書いてるんだ?」
「多分、外だ。喫茶店とか、食堂とか」
「とすると、鞄に切手と便箋を入れている?」
「先生の住所も持ち歩いていると思う。外で書く癖があるなら、そのままポストに投函できるようにするだろうから」
「……何から書く?」
「ひとまず電話番号」
「了解」
リンハルトとカスパルは、フェルディナントとヒューベルトの舌戦を眺める。フェルディナントの鞄は、フェルディナントの近くにある空いた座席に置かれている。
「こっそりいけるか? リンハルト」
「流石に勘付かれる。フェルディナントを取り押さえてくれる? 僕が動く。多分僕らが動けば、ヒューベルトも手伝ってくれる」
「よっしゃ、行くぜ!」
カスパルが走り込む。カスパルはセミナールームに置かれた椅子や机を華麗によけたり、蹴り飛ばしながら、フェルディナントへタックルした。フェルディナントが不意打ちに崩れ落ちる。
「ぐっ……!」
フェルディナントが呻きながら、起き上がろうとする。上背ならカスパルよりフェルディナントのほうがある。フェルディナントが長い腕で、カスパルを押しのけようとする。
「くくく……! やりますなぁ!」
ヒューベルトが加勢する。この面々で、ヒューベルトの背が最も高い。ヒューベルトは武芸こそ嗜んでいないが、それでも一人の男性である。フェルディナントほどではないとはいえ、力はそれなりにある。
騒ぎの渦中で、リンハルトがフェルディナントの鞄を手に入れる。鞄のチャックを開いて、少しくたびれた白い封筒を取り出す。住所を確認する。
「あっ! リンハルト、何をするつもりだね!」
「白紙の便箋と封筒と切手はどこだ……? 一カ所にまとめてそうだけど……」
「リンハルト殿、ミッテルフランク歌劇団のクリアファイルを」
「あった。ありがとう、ヒューベルト」
「ちょっ、待ちたまえ!」
リンハルトはフェルディナントの筆箱を開けて、ボールペンを取り出す。うす橙の便箋にボールペンを踊らせる。便箋にフェルディナントの電話番号が刻まれる。封筒に便箋を入れる。封筒に「先生」の住所とフェルディナントの住所、名字を書く。切手シートから切手を一枚剥がす。封筒に切手を貼り付ける。
「走れ、リンハルト!」
「最寄りのポストは正門前です」
「了解」
リンハルトがセミナールームの扉を開ける。リンハルトが図書館に飛び出る。自己流混じりだが、滑らかな走り方。
フェルディナントがカスパルとヒューベルトを振り払った。フェルディナントが全力で走り始める。武芸と日々の走り込みで鍛え抜かれた力強い走り方。
図書館の自動扉に、リンハルト、フェルディナントの順に飛び込む。白いタイルが敷かれた道を、リンハルトとフェルディナントが足音を轟かせながら、走っていく。
「止まりたまえ、リンハルト!」
フェルディナントの叫びが大学のキャンパスに反響する。猛然と走る二人組に、大学のキャンパスを歩いていた人々が驚いて道を空ける。まばらな人の花道を男が二人、走り抜けた。
正門前のポストが見える。フェルディナントがスピードを上げて、腕をリンハルトに伸ばす。
リンハルトが急停止した。
「なっ! リンハルト!」
フェルディナントがリンハルトの横を通り抜ける。フェルディナントがたたらを踏んで急ブレーキを掛ける。その隙にリンハルトがポストへ封筒を投函した。
「ふぅ! 良いことしたなあ!」
リンハルトは額から流れ落ちる汗を袖で拭った。フェルディナントが片手で頭を抱えた。フェルディナントは良識のある男だから、ポストになにか細工をして郵便物を取り出そうとは決してしない。
「リンハルト、何を書いたんだね!?」
「君の電話番号」
「早計に過ぎるだろう!」
「展開が早いにこしたことないでしょ」
「『先生』とは今まで文通しかしてこなかったんだぞ!」
「これから君はその『先生』の心を射止めなきゃならないんだから」
「……いや、それはその……」
「どこぞの馬の骨に『先生』を取られてもいいの?」
「良くない」
「断言したね。じゃあ頑張ろう」
図書館からヒューベルトとカスパルが歩いてくる。カスパルの肩には、カスパル自身の荷物だけでなく、リンハルトとフェルディナントの鞄も掛かっている。
「お疲れ、リンハルト! やったな!」
「ありがとう、カスパル。荷物も持ってきてくれたのか」
「おう!」
「ヒューベルト、セミナールームは?」
「くくく……片付けておきましたよ。雑務は得意でしてね」
「さすがだ」
リンハルトはヒューベルトおよびカスパルとハイタッチをした。爽快な達成感がリンハルト、ヒューベルト、カスパルを包み込んでいた。
○
ガルグ=マク大修道院附属高校は広い。担当科目を教えるために、複数の教室を動いて回る。その合間に次の授業の準備をして、授業中に行った小テストの採点をする。職員室で昼食を取りながら職員会議に参加して、放課後には部活動の顧問を務める。ベレスは剣道部の顧問を担当することになった。
ベレスの新生活はめまぐるしく過ぎていた。やっと仕事が片付いて家に帰るころには、あたりは真っ暗になっていた。
ベレスは教員寮に設置された郵便ポストを開ける。
ベレスはぎょっとした。「彼」から手紙が二通届いている。
一通目の封筒の上部には朱色で線が引かれ、封筒の表面にはでかでかと「速達」と書かれた判子が押してある。文通を初めてから、かれこれ十年経つ。「彼」から速達郵便が届いたのは初めてだ。
そしてベレスの手元には、封筒がもう一通ある。送り主の欄には「彼」の住所と名字が書かれている。だが筆跡がおかしい。「彼」の筆跡と比べて、なんだか殴り書きしたような文字だ。「彼」の文字なら、急いでいても止め、はね、はらいがはっきりとしているはずだ。
ベレスは郵便を手に、自宅の鍵を開ける。電気を点けて、机の引き出しから鋏を取り出す。ベレスはひとまず速達郵便の封を鋏でちょきちょきと切る。封筒から手紙を取り出す。手紙の枚数は普段と比べて少ない。
○
■速達■
大樹の節七日。
前略。
この手紙を書いている目的は、弁解だ。
先生へこれから奇妙な郵便物が届く。あるいはもう届いているかもしれない。
……私が今書いているこの手紙が、その郵便物よりも早く届くことを願ってならない。
宛名は先生で、送り主は私だと記載されているかもしれない。間違いではない。間違いではないが、事実を全面的に記載しているわけでもないのだ。
これから、あるいは既に先生の元へ届いた手紙は、私の友人が書いたものでね。私が先生と文通をしていると知った友人による悪ふざけだ。
友人によれば、手紙には私の電話番号を記載したのだという。
曖昧な表現が多くてすまないね。私自身、友人がいったい何を書いてポストに投函したのか、まったく確認出来ていないのだ。友人は悪い男ではないのだけれど、時折常識を飛び越えた発想と行動をすることがある。今回、先生の元に届く手紙もその一つだ。
そんな友人だから先生に無礼な文面を送りつけていないか、少し心配している。
先生はおおらかな人だから、私の友人の悪ふざけ一つで文通を終わらせたりはしないだろうが、何事にも万が一ということがある。
どうか私のことを、強引に関係を深めようとするような男だと思わないでほしい。私が言いたいことは、これに尽きる。
十年も文通を続けている貴方なら、私のことを誤解することはないだろうがね。
ひとまず弁解はこのあたりで締める。また、改めてゆっくりと手紙を書いて送るよ。
敬具
暴れる悪友に困惑する私より
ベレスは小首を傾げた。
「彼」が速達郵便を送ってきた理由は分かった。それはともかく、何がどうなれば「彼」の友人がベレス宛てに「彼」の電話番号を送る事態になるのだろう。
一つだけ分かることがあるとすれば、きっとその友人は「彼」ととても仲が良いのだろうということだ。少なくとも「彼」が悪ふざけを許容するくらいには、仲が良い。「彼」は大学生活で良い友人に恵まれているようだ。
―――そう思うベレスの心に、温かいぽやぽやとした感情と、雨雲のようにもやもやとした感情が立ち上ってくる。
ベレスはぴた、と動きを止めて、己の胸に手を当てる。
何で今、少しだけ心がもやっとしたのだろう。「彼」に仲が良い相手がいるのは、いいことじゃないか。
ベレスは困惑に沈みながら、残っていたもう一通の封を鋏で切る。
969-5158-6576
便箋と封筒の無駄使い、なんて思えるほどに簡潔な内容だった。どうやら携帯電話の電話番号のようだ。
ベレスは手紙に書かれた電話番号をじぃっと見つめる。ベレスは自然と頬をほころばせた。
「彼」はこんなに簡潔な文面の弁解をするために、わざわざ速達郵便を送ってくれたのか。そんな愉快さもあったが、この電話番号の奥に「彼」がいるという事実がなんだか嬉しかった。
ベレスは「彼」のことをたくさん知っている。「彼」の悩み事や、趣味や、好きな紅茶の銘柄、性格……。だがベレスは「彼」がどんな見た目をしているか知らない。「彼」がどんな声をしているのか知らない。だから、まるでやまびこと文通を交わし続けているかのような、おぼつかなさがある。
だけれど「彼」の電話番号には現実味が宿っていた。彼が現実に存在し、どこかで生活をしているのだ……そんな当たり前の事実が、ベレスの胸を満たした。
ベレスは仕事用の鞄から手帳を取り出すと、手帳に「彼」の電話番号を書き付けた。
ベレスがスマホを買う理由が一つ増えた。
○
大樹の節八日
拝啓。
きみから速達郵便が届いたのは、十年の文通生活で初めてのことだね。たいへん驚かされた。
思えばわたしは外国に引っ越すことが多かった。外国に郵便を送ろうとすれば、数週間かかるのが当たり前だ。だから速達なんて使う機会がなかったね。きみとわたしが同じセイロス市に住み始めたから、速達郵便を使えたというわけだ。
なんとなくきみを近くに感じられて、嬉しい限りだ。この街のどこかで、きみも生活をしているのだね。それが無性に嬉しい。
きみが速達郵便を送った理由である、きみのご友人が書いたという手紙も受け取ったよ。電話番号だけが書いてあった。
ここでわたしはきみに伝えなければならないことがある。わたしは、まだ携帯電話を持っていない、ということだ。固定電話もない。
きみも知っての通り、わたしは国境をまたぐ引っ越しが多かった。携帯電話の契約や、解約なんていちいちやるのも大変だ。そんなわけでこれまで携帯電話を契約する機会がなかった。
同僚にも言われたよ。
「給料が出たら、スマホを買ったほうがいいわよ。センセ」
って。
きみと電話をするためにも、携帯電話を買ってみようと思う。とはいえ、初任給が出るのはまだ先なんだ。きみと直接言葉を交わす日は、まだ先だね。
それにしても不思議なものだ。わたしはきみのことをたくさん知っているけれど、きみがどんな見た目をしているのか知らない。きみがどんな声をしているのかも知らない。
声といえば……きみが声変わりした、と手紙で報告を受けたときの衝撃が忘れられない。もう五年も前になるだろうか……。その報告を受け取るまで、わたしはきみが男の子か、女の子か悩みながら、手紙の返信を書いていたんだ。きみは「私」という一人称を使うからね。武芸を好む女の子なのか、あるいは男の子なのか、わたしには確信が持てなかった。
五年も性別があやふやだった相手から、声変わりしたと報告が来たんだ。
「男の子だったのか!」
わたしはびっくりした。驚きのあまり、きみから届いた手紙を掲げて父に突撃したよ。裁判に勝ったときのようにね。
「男の子だった! 文通相手が男の子だった!」
わたしが叫んだら、父はにんまりと微笑んで
「やっと気づいたのか」
なんて言っていた。きみが男の子だと知らなかったのは、わたしだけらしい。なんてこった。
そんなきみも、もう大学生だ。男の子というよりは、男のひとになっているのかもしれないね。
きみはどんな大人になったのだろう。いつかきみの隣に、恋人が歩いたりする日も来るのだろうか。考えてみたら、なんだか寂しくなっちゃった。今日はこのあたりで締めるね。返信を待っているよ。
敬具
先生より
○
ガルグ=マク大修道院を下ると川が流れている。この川に沿うように南へ歩き進めると、花街に出る。
ガルグ=マクを訪れる人々を釘付けにした……そんな歴史を持つこの花街は、現代では飲み屋街や隠れ家的なレストランが密集している地域だ。
細い路地は入り組んでいて、それでいて薄暗い。細道を取り囲むように、歴史を感じさせる石造りの家屋が建ち並ぶ。家屋のほとんどは飲み屋や、飲食店で、入り口には渋い色合いののれんがかかっている。
ベレスが花街に到着したときには、春先の太陽はオグマ山脈の奥に沈んでいた。建物の壁面に点けられたランプの明りと看板の明りが、薄暗い路地と店頭を照らしている。まるで宵の花街がベレスを引き込んでくるように思えて、ベレスは少しだけ緊張する。
ベレスは深呼吸を一度だけすると、地図を片手に花街へ飛び込んだ。ベレスの履いたブーツのヒールが、花街に敷かれた石畳を鳴らす。道に面する飲み屋からは酒の甘い匂いが漂っていた。
花街の一角にマヌエラが立っていた。マヌエラが立っているというだけなのに、マヌエラの周囲に広がる街並みがひときわ華やいでいるように見える。ベレスはマヌエラに手を振った。
「マヌエラ!」
「あら、センセイ!」
マヌエラがベレスに笑いかける。マヌエラのそんな仕草一つですら色っぽく見えてしまう。マヌエラが努力して美しさを磨き上げてきたという証拠が、マヌエラの所作の一つ一つに宿っている。
ベレスはマヌエラに駆け寄った。
「合流できて良かったわ、センセ。センセイはスマホを持っていないから」
「心配をかけさせてごめんね」
「いいのよ、センセ」
ベレスを飲みに誘ってくれたのはマヌエラだった。マヌエラは酒を飲むのが好きなのだという。
センセイの歓迎会も兼ねて、どう? 飲みに行かない? なんてマヌエラからの飲み会の誘いに、ベレスは飛びついた。
飲み会は良いものだ。美味しいお酒と美味しいご飯が食べられる。しかも職場で頼りにしているマヌエラからの誘いだ!
学校でマヌエラと飲み会に行くと言うと
「マヌエラ先生は酒癖が悪い」
と反応した同僚がいたが、ベレスは意にも介さなかった。人の噂話よりも、自分で見聞きした情報のほうが大切だ。なにより楽しげな飲み会を、噂話を理由に流してしまうのはもったいない。
ベレスは美味しいお酒も、ステキな料理も大好きだ! そんなわけで、ベレスはマヌエラと二人で仕事終わりに花街へやってきている。
「センセイは行きたいお店とかある?」
「残念ながら、花街の辺りに来るのは初めてなんだ。店には詳しくない」
「ならあたくしが決めちゃうわね。センセ、嫌いなものはある?」
「ないよ。基本的になんでも好きだ」
「そうなの? ならあたくしの好きな料理の店にしようかしら」
マヌエラがヒールを鳴らしながら、楽しげに歩く。マヌエラが歩くたびに、マヌエラの開かれた胸元が揺れる。何がとは言わないが、たわわだ。
マヌエラが肉料理を扱う居酒屋の前で立ち止まる。
「この店なんてどうかしら?」
「いいね。お肉料理は大好きだよ」
マヌエラが店ののれんを潜る。店内は明りが抑えられていて、落ち着いた雰囲気をたたえている。流れているジャズがオシャレだ。
マヌエラが慣れた様子で、席の空きを確認する。個室が空いているらしい。店員に先導されて、マヌエラとベレスは個室に案内された。
マヌエラが卓上にメニューを広げる。
「飲み放題付きでいいかしら?」
「いいよ」
ベレスはメニューをめくって、マヌエラと分けられそうな料理を何品か選ぶ。その間にマヌエラは最初の一杯を何にするかを熟考していた。
「あたくしはビールにしようかしら。センセイは?」
「はちみつサワーにしようかな」
「じゃあ、頼んじゃうわね」
マヌエラが
「店員さん!」
と声を上げた。マヌエラのよく通る声が店に響いた。歌い上げるかのように華やかな声だ。
店員が注文を聴く。しばらくして一杯目の酒が運ばれてくる。居酒屋の薄暗い明りの下で、ビールとはちみつサワーの黄金色が輝く。
ベレスとマヌエラがグラスの端を
「乾杯!」
の一声とともに小さく打ち鳴らす。グラスとグラスが打ち鳴らされると、高く澄んだ音が響いた。
ベレスとマヌエラはグラスに口づけて、酒を飲む。
ベレスの舌に、はちみつサワーの甘酸っぱさが広がる。それからベレスの舌で炭酸の刺激が弾ける。よく冷やされたはちみつサワーは、ベレスの喉をなめらかに滑り落ちる。
「美味しい!」
「仕事終わりの身体にアルコールが染み渡るわね。……男とのデート以外で飲み会なんて久しぶりよ」
「マヌエラ、彼氏さんがいるの?」
「別れたわ」
「……そ、それはすまなかった。込み入ったことを訊いてしまった」
「いいのよ。むしろ聴いてちょうだい、センセ! 最後に別れた男ときたら、器の小さいのなんのって! 別れてせいせいしたわ!」
「そうだったのか。たいへんだったんだね」
「ここのところそんな男ばかりなのよ。あたくしと付き合う男は! ……そういえばセンセイは? 彼氏はいるの?」
「彼氏はいないね。……先日、生まれて初めての初恋を経験したくらいで……」
「初恋を! どんな相手なの?」
「さっぱり分からないんだ。博物館に『フォドラの武具展』を見に行ったときにその人を見かけて、一目惚れしたんだ。だけどわたしはびっくりしてそのひとの連絡先を訊けなくて……それっきり」
「あら、そうだったの……。どんなひとだったの?」
「……凜としたひとだった。視線がどこまでも真っ直ぐで、清々しいくらいだった。こころに溢れる自信が立ち振る舞いにも現われていて……このひととなら、どこまでだって歩いて行ける……そう思わせてくれるかのようだった」
「ふふ、センセ。惚れ込んでしまったのね、その男に……」
マヌエラは微笑ましいものを見るように、柔らかく目を細めた。マヌエラがビール入りのグラスを呷る。マヌエラがグラスを机に置くと、グラスが繊細に響いた。
「センセ。その男のことを詳しく教えてちょうだい」
「いいけれど、どうしたの」
「あたくし、人脈は広いほうなの。探してみましょう!」
「いいの?」
「もちろんよ! 何もせずに諦めてしまうのは悲しいわ。やれるだけのことをやってみましょう!」
「ありがとう、マヌエラ!」
ベレスは満面の笑みを浮かべて、マヌエラと握手した。マヌエラは力強く笑う。
「ともかく今日は飲みましょう! 探すのはその後!」
「そうだね、そうしよう!」
ベレスとマヌエラが話している間に、店員が料理を運んでくる。マヌエラが二杯目の酒を頼む。ベレスは料理を取り分けて、はちみつサワーを飲みながら、料理を摘まんだ。
かくして飲み会の前半は穏やかに進んだ。厳密に言えば、飲み会の前半だけは穏やかに進んだ。
ベレスが見初めた男の特徴を訊いたマヌエラは、手早くスマホを操作し、誰かにその男の特徴を送信したらしい。それからマヌエラは酒を飲む。
一杯、一杯、また一杯。
マヌエラが飲み干す酒が増えるにつれ、話題はマヌエラの交際歴になった。これまでマヌエラが交際した男の数は、ベレスがびっくりしてしまうほど多かった。だが、どの男もマヌエラの酒癖の悪さや、部屋の汚さを理由にマヌエラから去ってしまうのだという。
かくしてマヌエラは、未だに独身であるらしかった。
今宵のベレスもまた、マヌエラの酒癖の悪さを体感した一人となった。マヌエラの酒癖の悪さについては筆舌に尽くしがたい。筆舌に尽くしがたいので、ここで書くことはできない。
ただ、ベレスは一つ学んだ。人の噂はときどき信憑性が高い。
ベレスは会計を済ませて、店を離れた。ベレスの背中には完全に酔い潰れたマヌエラが背負われている。川沿いを北上すると、大通りに出る。ベレスは傭兵になったときのために幼少期から身体を鍛えていたが、まさか怪我人以外を背負って街を闊歩する日が来るとは思わなかった。身体を鍛えておいて良かった。
夜更けではあったが、さすがセイロス市。大通りには時折タクシーが走っていた。
ベレスの給料日前の財布は、二人分の勘定を支払ったために悲鳴を上げている。だが今のマヌエラがタクシー代を支払えるとは思えない。ベレスが払うほかない。
「マヌエラ、家の住所はどこ?」
「う……うう……」
マヌエラは呻きながら、スマホを操作しようとする。ロックを解除したあたりで、マヌエラの手からスマホが滑り落ちる。地面に落ちたスマホをベレスはその場にしゃがみこみながら拾った。背負っているマヌエラを落とさないようにしゃがみこむのは難しい。
ベレスはマヌエラをいったん地面に置いて、マヌエラのスマホを手に取った。
「マヌエラ、なんとか住所を表示できないか? わたしはスマホを使ったことがないんだ」
マヌエラがスマホの液晶に表示されたボタンを、震える手で押す。誰かに電話を掛けているらしい。電話が繋がる。ベレスは慌てて、マヌエラのスマホを手に取った。
「もしもし、マヌエラのお知り合いでしょうか?」
「……どちら様?」
「マヌエラの同僚のベレス=アイスナーです。いっしょに飲んでいたんだけれど、マヌエラが酷く酔っていて……タクシーに乗せようにも住所がわからない」
「えぇ! またですか、マヌエラ先輩!」
「またなのか……」
「マヌエラ先輩がご迷惑をおかけしました。マヌエラ先輩の住所をお伝えしますから、タクシーで送ってもらえますか? 私もマヌエラ先輩の家に向かいますから」
「助かります」
電話口に出た女性からマヌエラの住所を訊いて、ベレスは電話を切った。ベレスは片手を振り上げ、タクシーを止める。ベレスはマヌエラを抱えて、マヌエラと一緒にタクシーへ乗り込んだ。タクシーの運転手にマヌエラの住所を伝える。
「うう……気持ち悪い」
「吐かないでね、マヌエラ。……耐えてほしい……」
ルームミラー越しに、マヌエラの様子を見た運転手が眉を寄せるのが見えた。申し訳ない。申し訳ないが、マヌエラの家まではそれなりに距離があって、歩いて行ける距離ではない。
マヌエラの家に着くまでの二十分、ベレスはマヌエラの背をさすりながら身を縮こまらせていた。
マヌエラの家はマンションの一室だった。タクシーが止まると、ベレスは急いで会計を済ませた。ベレスはタクシー代をちゃんと払えたことに安堵する。
「マヌエラ、着いたぞ」
ベレスは酔い潰れたマヌエラを支えながら、タクシーを降りる。マヌエラの住むマンションの前から、女性が一人走り出してきた。赤を基調としたワンピースと、アンバーの髪がよく似合っている。可愛らしい女性だった。
「マヌエラ先輩! 大丈夫ですか?」
「……なんとか……」
「同席しているのが女性で良かったですよ、マヌエラ先輩!……とにかく部屋に帰りましょう」
アンバーの髪の女性がベレスに視線を移す。
「……ええと、アイスナーさんですよね? マヌエラ先輩を送ってくださってありがとうございます」
「マヌエラのお知り合いのかたか。さっきは電話に出てくれて助かりました」
「ドロテア=アールノルト。マヌエラ先輩の後輩なんです」
「ドロテアさんか」
「ドロテアで良いですよ。マヌエラ先輩の同僚なら、私よりも年上でしょうし敬語も大丈夫です」
「そう?」
ベレスはマヌエラを背負って、マヌエラの部屋へ歩く。ドロテアが先行してマンションの廊下を進み、マヌエラの部屋の鍵を開けた。どうやらドロテアはマヌエラから合鍵を預かっているらしい。
「運んでもらってありがとうございます。あとは私がマヌエラ先輩のお世話をします」
「助かるよ、ドロテア」
「……ちなみになんですけど、マヌエラ先輩が探している男って、アイスナーさんに関係があったりします?」
「わたしが一目惚れした男のひとを、マヌエラと一緒に探す約束をしたんだ。ドロテアにもマヌエラが連絡してくれたんだね」
「そうみたいですね! ……じつは私、心当たりがあるかも」
「本当!?」
「大学の同級生に、マヌエラ先輩が教えてくれた男性の特徴と一致する人物がいるんです」
「そうなのか!」
「……とはいえセイロス市は広いから、本当にアイスナーさんが探している人なのかは分かりませんよ? 同じような見た目の他人かも」
「それでもいい! 二度と会えないと思っていた人を探すヒントになるかも!」
「なんだかお役に立てそうで嬉しいです。……また会って詳しい話を訊かせてくれませんか?」
「そうだね。マヌエラが復活したら、三人で会う予定を合わせようよ」
「そうしましょう。アイスナーさん、連絡先を交換しませんか?」
「申し訳ない。まだスマホを契約していないんだ」
「スマホを持っていないんですか!?」
「国をまたぐ引っ越しが多くてね……」
「そうでしたか。なら、マヌエラ先輩経由で予定を合わせましょうか」
「そうしてもらえると、とても助かるよ!」
「それじゃあ、また会いましょう!」
「そうだね、ドロテア!」
ベレスは背負っていたマヌエラをドロテアに渡す。ドロテアは少々よろけながら、マヌエラを支えてマヌエラの部屋に入っていく。ベレスはその様子を見届けてから、マヌエラの住むマンションを後にした。
ベレスはマンションが見えなくなってから、鞄に入れた財布の中身を確認する。財布の中身は瀕死の重体だった。
ベレスは春先の星空を眺めてため息を吐いた。給料日が恋しい。そしてもう夜更けだから、コンビニのATMくらいでしか金を引き出せない。だがコンビニのATMの夜間手数料は馬鹿にならない。積み重なればそれなりの金額になる。
ベレスは仕方なく、家に向かって歩き始めた。家に辿り着くまで、一時間半かかった。
これほど翌日が休みで良かったと思ったことはない。
○
大樹の節二十日
拝啓。元気にしてる? わたしは元気だ。
セイロス市のあちこちに植えられた桜がまだ咲き誇っているね。桜は道路脇に特に多く植えられているから、街を散歩すると桜の白色をたくさん眺められてステキな気持ちになれる。
今日の先生は、同僚との飲み会でお酒を飲んだ後、不可抗力の出費をたくさんして財布がすっからかんになった。財布は致命傷を負って、しょんぼりのしょんぼりだ。もし財布が傭兵だったなら、もう廃業だよ。そのくらい財布がすっからかんだ。
きみも法律上はお酒を飲める年齢だよね。お酒には飲まれてはいけないよ。本当に飲まれてはいけない……先生は今日、そう実感した。
出先から家まで歩いて帰るのに、一時間半かかったよ。歩いて帰られる距離で良かった。わたしは歩きながら街を眺め、それから夜空を眺めた。セイロス市は高さ制限が敷かれているから、都会の割には空が広いね。それでも街が明るいから、あまり星は見えなかった。春先とはいえ、夜は冷えるね。
だけどこの空をきみも見ているかもしれない……と考えたら、なんだか元気が出てくるよ。先生はがんばるぞ。
おっと、忘れるところだった。きみの返信が来る前にこちらから手紙を書いているのには理由があるんだ。きみに伝えたいことがあってね。
前節、きみに伝えた先生の初恋の話を覚えているだろうか。先生がガルグ=マク国立博物館で、男のひとに一目惚れしたという話だ。
朗報だ! この男のひとの手がかりを見付けたかもしれないんだ!
先生の同僚の後輩の同級生かもしれないんだって! まだそのひとが先生が一目惚れした男のひとかどうか、確認は取れていない。でも二度と会えないと思っていたひとかもしれないひとを見付けられたなんて、なんだか運命じみたものを感じてしまうね。
こんなことを書いていると、きみに呆れられてしまうだろうか。あるいは「歌劇の主役にでもなったようだ!」と喜んでくれるだろうか。ともかく嬉しくてたまらないんだ。この喜びを、まっさきにきみへ伝えたかったんだ!
また進展があったらきみに手紙を書いて送るね。
草々
恋に恋する先生より
追伸
きみの誕生日は大樹の節の三十日だから、この手紙が届くころには誕生日を迎えているかもしれないね。今年できみは二十歳になるんだったっけ?
誕生日おめでとう!
○
セイロス市に植えられた桜は次第に散り、葉桜に変わりつつあった。春の空気は次第に暑さをおび始める。初夏の空気に近づいていく。
そんな穏やかな春の陽気とは対象的に、図書館のセミナールームの空気は、張り詰めていた。
ホワイトボード前にヒューベルト、フェルディナント、カスパル、リンハルトが集まっていた。
「凶報です。フェルディナント殿にとっては、最悪の誕生日プレゼントとなりましたな」
ヒューベルトがホワイトボードに黒字で文字を書く。
現状:『先生』が一目惚れした男の情報を入手した。
ヒューベルトが眉間に皺を寄せながら、口を開く。
「これまでの我々は『先生』が見初めた男と、『先生』が接触することは二度とない……そんな前提に基づいておりましたが……甘かった」
リンハルトがあくびをかみ殺しながら
「博物館で見かけただけの男を見付けられるなんて思わないでしょ」
と所見を述べる。カスパルが
「手紙を読んだ感じだと、まだ一目惚れした相手を見付けたかどうかは確定していないみたいだな」
と感想を述べる。
ヒューベルトはフェルディナントに視線を向けた。フェルディナントが纏う空気が普段よりも張り詰めている。
「フェルディナント殿、貴殿の感想は?」
「……私とて『先生』に『おめでとう!』と伝えたかったさ。……『二度と会えるはずのない相手を見付けられるなんて、運命に違いない! 歌劇の主人公のようだ!』という言葉を添えてね。……だが無理だ」
「ではどうされる」
「『先生』がこの男との恋を成就させたなら、私は身を引く。『先生』を不義の恋に引きずり込むのは、貴族のすることではないからね。……だがそれまでは粘る、力一杯に粘ってみせる」
フェルディナントは半ば睨み付けるように、白板を見つめている。
「認めよう。私は日和っていた。十年続いた『先生』との関係を壊したくない……とね。……だがもはや躊躇せんぞ、私は」
「くくく……! その意気や佳し」
ヒューベルトは邪悪に笑いながら、フェルディナントの背中を叩いた。
「ですがフェルディナント殿、焦りは禁物です。特に貴殿は決断するとアクセルを一気に踏み込む癖がある。……貴殿が惚れた相手に無理やり近寄ろうとして、ストーカー規制法などに引っかかっては困るのですよ。貴殿には大学卒業後、アドラステア帝国のために粉骨砕身して貰わなければなりませんからな」
「……忠告、感謝するよ。ヒューベルト」
「確かにこっちからがんがん行きすぎて、ストーカーだと思われても困るよなあ。リンハルト、何かいい案ねえ?」
「そうだな、とりあえずこちらが知っている『先生』の情報は、住所があるよね。一度みんなで行ってみる?」
「待ちたまえ。家に行くなど、それこそストーカー扱いされかねないだろう」
「だからみんなで行くんだ。さすがに四人組で行動して、ストーカーとして通報はされないでしょ」
「くくく……。空き巣の下見、と思われるかもしれませんな」
「長居しなきゃ大丈夫だろ!」
ヒューベルトが白板の文字を消す。各々が自分の荷物を手に取り始める。
「ではフェルディナント殿。行きますよ」
「……私よりも君達のほうが、アクセルを踏み込んでいる気がするのだがね……」
フェルディナントは困惑しつつも、鞄を手にセミナールームから歩み出た。
「先生」の住所はガルグ=マク大修道院付属大学のキャンパスから、徒歩三十分程南下した場所にあった。ガルグ=マク大修道院が建つ丘のちょうどふもとにあたる住宅街に、マンションは建てられていた。川がマンションの南側と、西側に流れている。
生活音とともに川のせせらぎが聞こえる立地だ。男子大学生四人がマンションの前で立ち止まる。
「ひょっとしてここ……ガルグ=マク大修道院付属学校の職員寮じゃない?」
「『先生』は新任教師だって話だったよな? 勤め先はガルグ=マク大修道院付属学校ってことか」
「ガルグ=マク大修道院付属学校は、幼稚舎から大学院まで併設しています。職員の数も多い……ともあれセイロス市のどこかから探し出すよりは、よほどましでしょうな」
フェルディナントがぼう、とマンションの外観を眺める。
「……なんだか感慨深いものがあるな。先生が実在している……という実感が湧いてくるようだ」
「くくく……。フェルディナント殿、何を当たり前のことを。十年もの間、霞を相手に文通をしていたわけではないでしょう」
「霞と文通とは言い得て妙だな。そんな気分だったさ。……私が知る先生は文字ばかり。霞のように漂う文字を読み取り、また文字を返す。その繰り返しだったからね」
フェルディナントが噛み締めるように笑みを零す。
「……そうか、本当に先生はこの街で暮らしているのだな……。感動してしまうよ!」
「くくく。感受性が豊かなようで結構ですが、何の変哲もないマンションの前で感動する人間など、職質をしてくれと言っているようなものです」
「あんまり長居するのもまずいか。そろそろ引き上げようぜ!」
「最後に『先生』の部屋の外側だけでも見ておく? 部屋番号から考えて、たぶん一階の角部屋でしょ?」
「敷地内に入るのは、さすがにまずかろう!」
「外から見るだけだって」
リンハルトが先導して、マンションの塀越しに一階の角部屋を眺める。
「ん? ……誰か角部屋に向かっていくね」
「『先生』か?」
マンションの一階廊下を、女性が一人、優雅な足取りで歩いて行く。女性は肌面積の広い艶やかな白いドレスを身に纏っている。栗色の髪と女性のたわわな胸元が歩くたびに揺れる。女性の黒いハイヒールが、軽やかに足音を立てている。
なんの変哲もないマンションだというのに、その女性の周囲だけがやけに華やいで見える。まるでスポットライトが、その女性の周辺を照らしているかのようだ。
フェルディナントが身体を硬直させた。見る間にフェルディナントの頬が桃色に染まっていく。
「マヌエラ様……! 歌姫、マヌエラ様ではないか!」
「ちょ、フェルディナント! 声が大きい!」
カスパルが大慌てでフェルディナントの口を押さえる。
マンションの一階廊下で、女性が振り返った。女性が怪訝そうに、マンション前にたむろする男子大学生たちを見る。
「見られましたな……。退散しますよ」
呆然とするフェルディナントを半ば引きずるように、男子大学生四人がマンションから足早に離れる。
大通りに近寄るにつれて、川のせせらぎが遠ざかる。車の走る音や、生活音が存在感を増す。
カスパルはようやっとフェルディナントの口から手を離した。
「フェルディナント、マヌエラ様ってのは?」
「マヌエラ様を知らないのかね? ミッテルフランク歌劇団の歌姫―――マヌエラ=ガザグランダ様だ」
フェルディナントは普段より早口になっている。上気したフェルディナントの頬が赤い。
「……風の噂で、ミッテルフランク歌劇団を退団後、教師になったらしいと聴いたことはあったが、まさかこのようなところでお目にかかれるとは……! 大ファンなんだ、私は……! マヌエラ様が出演した劇を、これまで何度観てきたことか……!」
「ああ……そういえば貴殿は、幼少期からミッテルフランク歌劇団に通い詰めたと言っていましたな」
「そうだとも。マヌエラ様の公演は欠かさず観劇したさ! 未だに私の部屋には、マヌエラ様が出演した舞台のパンフレットが全て保管されているのだよ!」
「そんなものを保管しているから、貴殿の部屋は散らかるのでは?」
「そんなものとは何だね! 君の部屋と比べられては困る。君の部屋は物が少なすぎて、人が生活しているとは信じがたい有様だからね!」
「……盛り上がっているところ悪いけど、状況はかなりややこしいことになってない?」
「だよな。『先生』の部屋に、そのマヌエラ様とやらが向かってたんだろ?」
「……単純に考えれば、フェルディナントと文通していた相手は、ミッテルフランク歌劇団元歌姫のマヌエラさん……ってことになるけど」
「……マヌエラ様が『先生』……? 信じがたいが……」
「くくく……。作戦を立て直す必要がありそうですな」
ヒューベルトの目が細められる。ヒューベルトは明らかに面白がっていた。
○
大樹の節二五日
拝復。
貴方からの手紙は二通とも受け取ったよ。まとめて返信することになってすまないね。私の友人の悪ふざけが原因で、私も手紙を二通まとめて送ったわけだから、ここはひとつお互い様ということにしてほしい。
ここ一週間で桜が散って、葉桜になってきたね。
知っているだろうか。セイロス市駅の周辺には花壇が設置されている。この花壇には季節ごとの花が植えられていてね。いつの間にか植えられた花の種類が変わっていた。少し前まではクロッカスが植えられていたと思うが、昨日にはシャクヤクに変わっていたよ。
セイロス市に雇われた業者が植え替えでもしたようだね。空気が暖かくなってきた。初夏の気配が近づいて来ているのを感じる。
貴方も私と同じくセイロス市で暮らしているわけだから、この季節の移ろいを私と同じように感じているのではないだろうか。
貴方との距離が近い、それだけの事実が私の心をくすぐる。まるで春風が私の心の奥底にまで、吹き抜けているようだ。むず痒いようで、それでいて心地よいものだ。嬉しいよ。
これからセイロス市は暑くなるからね。体調を崩さないよう、気をつけたまえよ。
それから誕生日を祝ってくれて、ありがとう。今年で私は二十歳になる。年齢の十の位が一つ繰り上がるというのは、なんとなく喜ばしい気になれるものだね。
とはいえアドラステア帝国の法でも、セイロス市の法でも、成人は十八歳だ。酒などはとうに飲める年齢だし、何かの節目という気はあまりしない。
安心したまえ。酒は嗜む程度だ。酒に飲まれるような飲み方はしないよ。酒は飲んでも飲まれるな。良い言葉だ。
貴方からの手紙を読んでいて、少し心配になる文面があった。財布がすっからかんになったというのは何事だ。先生は浪費家ではないから、きっと何かあったのだろう。ひょっとして酒に関して、何かトラブルでもあったのかね?
先生の文面はご機嫌なようだから、大事にはなっていないのだろうと思う。だが、もし先生の身になんらかの苦難が降りかかっているなら、遠慮なく私を頼ってくれたまえ。
私は全力で、貴方のために動く。約束しよう。
先生の想い人の件、把握した。先生、焦りすぎてはいけないよ。私の友人から私に言われた言葉を、金言として記載しておこう。
「貴殿が惚れた相手に無理やり近寄ろうとして、ストーカー規制法などに引っかかっては困るのですよ」
人生のアクセルは適切に踏もう。ほどよくブレーキを踏み、道路標識を守る。それが善い人生を過ごすコツだろう。先生から
「きみはそんな生き方を実践できているのか?」
と訊かれたら、
「いいえ」
と答える他無い。
私は全力で生きる主義だ。アクセルも全力で踏み込むとも。とはいえ道路標識からの指示は適切に守っていくつもりさ。
また手紙を書くよ。それまでどうか、お元気で。
敬具
まもなく誕生日を迎える私より
○
ガルグ=マク大修道院付属大学のキャンパスの一角には、芝生が植えられた中庭がある。冬場でも芝生はそれなりに青く茂っていたように思えるが、ここのところ芝生の青さが強くなってきたようだ。気温が暖かくなってきて、芝生が元気になってきたのだろうか。大学のキャンパスという都会のど真ん中で、芝生が地面に根を伸ばし、栄養を吸収してその葉を青々と茂らせている。
ガルグ=マク大修道院付属大学の現役学生は数千人になる。キャンパスは複数に分かれているとはいえ、数千人の学生が昼時にまとめて動くのだ。食堂も生協の購買も人で溢れかえる。
芝生の植えられた中庭は、昼時の食堂から弾き出された学生が昼食を取る穴場スポットとなっていた。
中庭からは校舎の影に切り取られた空が見える。今日の空はほどよく曇り空だ。空の青色と雲の白色が混ざっている。大きな雲がふわふわと空を流れていく。
フェルディナントは購買で買ったサンドイッチを片手に、芝生の生えた中庭を訪れていた。
ここ数日雨が降っていないから、芝生は乾いている。フェルディナントは日光の当たる場所を選んで、芝生に座った。芝生は柔らかい。
フェルディナントは購買で貰った無料のお手拭きで、手を優雅に拭く。それからサンドイッチの包装に指を掛ける。サンドイッチを包むフィルムがぱり、と軽やかな音を立てながら切れる。
「あら、フェルくんじゃない」
フェルディナントは視線を上げる。中庭に面する道から、ドロテアが手を振っていた。ドロテアがフェルディナントに歩み寄ってくる。
「ドロテアか。こんなところで会うとは奇遇だな」
「そうね。フェルくんが一人なんて、珍しいわね」
「ヒューベルトは三限までエーデルガルトの供回り、リンハルトとカスパルは自主休講して旅行に行ったよ」
「ローレンツくんは?」
「クロードとヒルダに呼ばれていった」
「そうなの。なら……私がフェルくんとお昼をご一緒しても?」
「構わないよ」
ドロテアはフェルディナントの隣に腰掛けると、鞄から弁当箱を取り出した。弁当箱の色合いはオレンジ色と白色が組み合わされている。上品なようで、可愛らしさを感じるデザインの弁当箱だった。
弁当箱の蓋の内側には、小さなフォークをしまえるようになっている。ドロテアは弁当箱の蓋を開ける。
半分に切られたゆで卵や、肉巻き、たこさんウインナー、それから小さくて丸っこいおにぎり。色とりどりで美味しそうな料理の数々。
料理そのものは美味しそうだが、弁当への詰め方が混沌としている。ちぐはぐだ。だけれどドロテアは幸せそうに笑いながら、弁当にフォークを伸ばす。ゆで卵にフォークが刺さり、黄身がほろほろとわずかに崩れる。ドロテアが口を小さく開けて、ゆで卵を食べる。ドロテアが頬をほころばせた。
フェルディナントは購買で買ったサンドイッチを口にした。焼かれていない食パンの滑らかな口触り。それからサンドイッチに挟まれたハムとレタスとスクランブルエッグの塩気や水気がまとめて口に広がる。フェルディナントが咀嚼すると、レタスのしゃきしゃきとした食感とスクランブルエッグのとろり、とした質感が混ざって溶けていく。飲み込む。
ドロテアがフェルディナントを見つめている。フェルディナントはドロテアの瞳をまっすぐに見返した。
「どうした、ドロテア? 私の弱みを探ろうとでも?」
「……そうだと言ったら?」
「良かろう。好きに見たまえ!」
「フェルくんは隠し事がなさ過ぎて、探ろうっていう気が削がれちゃうわ。せっかく先輩からミッションを預かったというのに!」
ドロテアがつまらなさそうに、弁当にフォークを伸ばす。ドロテアの傍らで、フェルディナントもサンドイッチを口に運ぶ。
「隠す気もなくなっちゃったから、正直に言うわね。私が昔からお世話になっている先輩がいるんだけどね。この先輩の同僚さんがフェルくんを街で見かけて、一目惚れしたかも……ということなの」
「私に?」
「そう、フェルくんに。それで先輩からフェルくんに恋人がいるか探ってきて、ってミッションを預かったの」
「……交際している人はいない、のだが……」
「だが?」
「これから口説き落としたい、と思っている人はいる」
「あら、片思い中?」
「……そうなるな」
フェルディナントは自分の鞄を、ちらりと見た。フェルディナントの鞄には、いつも「先生」から届いた郵便が一通入っている。「先生」から届いた最新の手紙には、「先生」が思い人を見付けたかもしれないという喜びが、力一杯に綴られていた。
フェルディナントの知らない、「先生」の思い人。浮れ上がった「先生」からの手紙の文面。
―――「先生」の顔も声も名前も、「先生」が恋する男のことも、フェルディナントは知らない。
フェルディナントの胸がぎゅっと締め付けられたように錯覚する。フェルディナントは表情を意識して引き締めた。
「ともかくそういうわけだ。ドロテアの知人の思いに応えることはできない」
「……そうね。フェルくん、二股とかできるタイプじゃないだろうし……」
「無論だとも!」
「……うーん、先輩には私から上手く伝えておきます。先輩の同僚さんを、傷つけたくはないですから」
「すまないが、よろしく頼むよ」
「頼まれました」
ドロテアが空になった弁当の蓋を閉じる。ドロテアは鞄に弁当をしまう。ドロテアは優雅に立ち上がった。
「それじゃ、フェルくん。そろそろ行くわ」
フェルディナントがドロテアに手を振ると、ドロテアも笑いながら手を振りかえしてくれた。
○
竪琴の節一日
拝啓。元気そうだね。
きみからのお手紙が思っていたよりも冷静でびっくりしちゃった。どうやらわたし一人、浮れ上がって空回りしてしまっていたようだ。反省、反省。
きみのご友人からの金言には、はっとさせられた。危ないところだったかも。わたしは自分がストーカーになるなんて、まるっきり考えたことがなかった。
きみを心配させるような事態にはなっていないよ。
先生は失恋をしたよ。先生の同僚の後輩さんから、先生が一目惚れしたひとには、既に思い人がいるのだと教えてもらったんだ。……先生が博物館で見かけたひとと同一人物なのか……確証はないのだけれどね。でも、これで良かったのかもしれない。
踏み込みすぎるのは迷惑になる。わたしはそのひとの迷惑になりたいわけではないんだ。もしなれるのなら、そのひとの隣に立てるひとになりたかった。そのひとが走り抜けていく道のりを、隣で一緒に走ることのできるひとになりたかった。
何を書いているんだろうね。わたしはそのひとのことを、見た目しか知らない。どんな生き方をしているひとかなんて、分からないのにね。
……強いて言えば、香水は知っているかも。撤回。やっぱりよく知らない。わたしは香水の銘柄や種類を知らない。あのひとが付けていた香水は、どこのどんなブランドのものだったのだろう。華やかなようで、それでいて深みのある薫りだった。そんなステキな香水だったということしか、わたしには分からないんだ。
出逢った瞬間こそ、あんなに鮮烈に覚えていたというのに、いまとなってはあの香水の薫りが記憶から薄れていく。忘れられないと思っていたはずだったのに。
……ああ、なんて寂しい。
わたしがわたしに刻み込んだ記憶が、消えてしまう。戦いに敗れた城のように、記憶が灰と埃と砂の奥に沈んでいってしまう。
嫌だよ、忘れたくないよ。
記憶をたぐり寄せようとして、頭の中を掘り起こそうとする。だけど、さらさらとした砂を掴むように、手の隙間から記憶が零れていくんだ。彼がどんな香水をしていたか、分からなくなる。彼はどんな声をしていただろう。彼はどんな髪型をしていただろう。彼はどんな服を着ていた? 彼の顔は?
彼の姿が逆光に包み込まれてしまう。ぼんやりとした影法師。顔の見えない影法師。
そして気づく。わたしの記憶がこんなにも薄れてしまったことに。出逢ったその日こそ、わたしのまぶたの裏に焼き付いていた彼の姿が、こんなにもあやふやになっている。
こんなにも、こんなにも彼に逢いたいのに!
……こんなことを書けるのは、きみが相手だからだよ。きみならわたしのぐちゃぐちゃになった感情も、感傷も、まっすぐに受け止めてくれるだろうから。傷ついて崩れ落ちたわたしのこころに肩を貸して、もう一度歩み始めるきっかけをくれそうだから。
ごめんね、なんだか自分のことばっかり書き連ねている。
そういえばきみのご友人からの金言を読み返していて気づいたのだけれど……きみ、好きな人ができたの? 教えてくれたら良かったのに。
きみなら……好きな人ができたなら、すぐにわたしへ知らせてくれそうなものなのに。変なの。……きみがわたしに隠し事をする必要が、どこにあるというの。
……なんだか今日のわたしはへんてこだ。きみがわたしを置いて、どこかに走り去ってしまったように感じるんだ。
いまのわたしは砂漠でひとりぼっちになって、オアシスを探し回っているような気持ちだ。
夜の砂漠は凍えるるらしい。実際に行ったことはないけどね。
敬具
感情がまとまらない、そんな先生より
○
週末のセイロス市駅周辺は人で混み合う。平日以上に観光客が増える。買い物や遊びに出かけるセイロス市民が雑踏になる。
空を流れる雲が灰色に濁っている。夕方から一雨降るかもしれない。空を覆う雲の灰色に対して、街路樹の葉の緑色がやけに映えていた。
フェルディナントは人波の流れに乗って、セイロス市駅から繋がる地下道に潜る。目的地はデパートの地下階だ。セイロス市駅からデパートの地下階までは、地下道で繋がっている。
地下道はトンネルに似ている。白いタイルとコンクリートで覆われた地下道はほのかに暗い。そんな地下道の暗さを、人工照明が一生懸命に照らしている。地下道の壁に掲示された広告の周辺ばかりが、やけに明るい。
フェルディナントはデパート地下階の入り口に辿り着くと、辺りをきょろきょろと見回した。
ヒューベルトは背が高いから、人混みの中でも見付けやすい。フェルディナントがヒューベルトに手を振りながら近寄ると、ヒューベルトが視線で応える。
「おはよう、ヒューベルト」
「おはようございます」
フェルディナントはヒューベルトと、セイロス市で話題になっているカフェに出向く約束をしていた。その前にデパートに寄って、買い物をしたいと言ったのはフェルディナントだった。
「フェルディナント殿、何を買うおつもりで?」
「香水がそろそろ切れそうなんだ。……あとは『先生』への贈り物をね」
フェルディナントは肩から掛けた鞄に視線を向ける。鞄には昨日『先生』から届いたばかりの封筒が入っている。
「……心配だよ、私は。昨日『先生』から届いた手紙は、ところどころ文字が滲んでいた。……『先生』は泣きながら手紙を書いていたのではなかろうか」
「何事があったのですか」
「振られたそうだ。例の初恋相手の男から」
「……その知らせを聴いて、喜ばないところは貴殿の美点でありましょうな」
「そうだろうとも。……まったく、惚れた相手が泣いているというのに、涙一つ拭えないのがふがいないばかりだ」
フェルディナントは神妙にため息を零した。
「私にできるのは『先生』の気持ちが上向くような、贈り物を探すくらいだ」
デパートの地下一階には、惣菜屋や、青果店、それから洋菓子の店が並んでいる。フェルディナントは迷わず、洋菓子店が並ぶエリアに歩みを進める。ヒューベルトが一歩遅れて、フェルディナントに着いてくる。
デパートの地下一階の洋菓子店は、煌びやかだ。シックな色合いの展示台の上には、透き通ったショーウインドウが設置されている。ショーウインドウの奥に、彩り豊かな洋菓子が並んでいる。
「菓子を贈るのですか」
「ああ。『先生』は健啖家だからね」
「『先生』の好みは?」
「なんでも好きだそうだ。アレルギーもないらしい」
「くくく……物を贈る相手としては、一番厄介なタイプですな」
「たしかに。だからこそ選びがいがあるというものだ」
フェルディナントは目を細めて、寂しさを滲ませて笑った。
「……私の選んだ菓子が『先生』の傷ついた心の慰めになれば良いのだが」
「……そうですな」
フェルディナントはあれこれと迷った末、葉っぱの形をしたパイを選んだ。三十枚入りの箱を郵送で送る手配をする。店員からフェルディナントに渡された伝票に、フェルディナントは「先生」の住所、名字、それからフェルディナントの住所と名字を記入していく。
フェルディナントの文字は美しくて、それでいて止め、はね、はらいに勢いがある。伝票の宛名である「アイスナー」の文字の端に、小さなインク溜まりができていた。
フェルディナントは店員に伝票を渡し、会計を済ませる。フェルディナントが書いた伝票が、店の奥に消えていく。
「次は香水でしたか」
「二階だな」
エスカレーターは人の流れを上階に向かって運んでいく。
デパートの二階には化粧品やフレグランスの店が建ち並んでいる。柱や壁が落ち着いた黒色を中心に装飾されていて、高級感を漂わせている。磨き上げられた床が天井から差し込む明りを白く反射させている。
化粧品の匂いと香水やアロマの薫りが混ざり合っている。
フェルディナントは慣れた様子で、フロアを闊歩する。化粧品コーナーを離れ、女性物のフレグランス売り場に入ると、店の装いが白に切り替わる。店頭に香水の小瓶が展示されている。小瓶の色はさまざまだが、どの小瓶も天井から差し込む光を飲み込み、光を乱反射させている。小瓶の側に影と光が色とりどりに落ちている。
フェルディナントは店内を見回すと、躊躇わずに一つの小瓶を手に取った。透明なボトルにオレンジ色の香水が詰められている。
アドラステア帝国アンヴァルに本店を構える服飾店が手がける香水だ。
「悩まんのですな」
「今使っている香りを気に入っていてね。しばらくはこの香りでいこうかと思っているんだ」
「左様ですか」
「君はどうなんだ、ヒューベルト。君も大学生なら、香水の一つくらい覚えてはどうかね」
「結構です。自分の身体からこれほど強い香りがするなど、想像するだに不愉快です」
「そうか? 慣れればそれほど気にならないがね」
フェルディナントは無駄話をしながら、会計を進める。黒色のカードが切られた。会計を担当した店員が、香水の入った紙袋を手に、フェルディナントとヒューベルトを店先まで見送る。
フェルディナントは紙袋を店員から受け取った後、店先を振り返らない。
デパートとセイロス市駅は連絡通路で繋がっている。セイロス市駅は休日ということもあって、普段以上に人が多い。周辺諸国から訪れた観光客が、大きなキャリーバッグを引きながら駅を闊歩している。中央改札の正面に小ぶりな時計塔が設置されていて、その小さな時計塔の周囲にはベンチが設置されている。小さな時計塔周辺に設置されたベンチでは、週末にもかかわらず出勤しているビジネスマンや、誰かと待ち合わせをしているらしき若者や、あるいは散歩中の老人にいたるまで、老若男女が集まっている。
待ち合わせのスポットだからだろうか。小さな時計塔の周辺に集まる人々は、それなりに笑顔に溢れている。小さな幸福が、時計塔の辺りに集まっている。
セイロス市駅の長い構内を抜けて、エスカレーターに乗って二階から一階まで下ると、セイロス市駅の正面にあるバスターミナルが見えてくる。セイロス市駅構内に設置された電光パネルに、バスの運行状況と時刻表が表示されている。
セイロス市駅前のバスターミナルは、バス停の数が多く、常にどこかのバス停からバスが発着している。きっと初見の人間なら、どのバス停を利用すれば良いのかわからず、セイロス市駅周辺をさまよい歩くことになるだろう。
とはいえフェルディナントもヒューベルトも、セイロス市で暮らし始めてから二年になるのだ。それなりに場慣れもする。
先に目当てのバス停を見付けたのは、ヒューベルトだった。バス停前の列に並んで、バスが来るのを待つ。ミント色に塗装されたバスが来る。バスは乗り口をバス停前の柵の隙間にぴたりと合わせて、滑らかに止まった。バスの扉が開くと、人波がバスの中へ流れていく。
バスで八分ほど揺られれば、目当ての喫茶店の最寄りバス停に到着する。
喫茶店は住宅街に店を構えていた。店の外観は色あせた煉瓦造りになっていて、レトロな魅力をたたえている。店先には小さなブラックボードが設置されていて、白いチョークで書かれた文字で、本日のおすすめ商品が紹介されていた。本日のおすすめは、堅焼きのプリンであるらしい。メニューの文字の側に添えられたプリンのイラストが可愛らしい。
セイロス市内でも有名な、老舗喫茶店だ。店内の席はすでに埋まりきっていたが、なんとかテラス席を一つ確保できた。
店員にフェルディナントはセイロスティー、ヒューベルトはブラックテフを注文する。
注文した飲み物が届くまでの時間は、空白だ。気が乗ればフェルディナントとヒューベルトは雑談にふけることがある。一方で、互いに言葉をたいして交わさず、各々のやりたいことをやって時間を過ごすこともある。
今日のフェルディナントとヒューベルトは後者だった。ヒューベルトがメールを確認するためにスマホを触り始めたから、フェルディナントは遠慮なく便箋とボールペンを取り出した。
よく磨かれた机に便箋を広げて、紙にボールペンのペン先を落とす。黒いインクが紙に染みこんで、文字に変わる。
フェルディナントは「先生」から届いた手紙を思い返す。
これまでの「先生」は感情の起伏に乏しいひとだった。―――厳密に言えば、十年前に文通を始めた直後と比べれば、ましにはなっているのだ。十年間で、「先生」はロボットのように感情のない文面から、感情を読み取れるような文面を書くひとに進歩している。
それにしてもここ数回「先生」から郵送されてきた手紙ときたらどうだ! 手紙にしたためられた文字が、叫び上げているかのようだ。
―――寂しい、哀しい、苦しい、悲しい……それからスパイスのように香るわずかばかりの怒り。
「先生」から送られた手紙を思い返すたびに、フェルディナントの胸の奥で黒い感情が轟轟と音を立ててとうねる。
嗚呼、「先生」。貴方の記憶の海を、朝霧のようにぼんやりと漂うその男は―――それほどに色男だったか。たった一目見ただけで、隣を歩きたいと信仰してしまうほどに、美男子だったか。
凪いだ海のように穏やかだった貴方の心を、嵐で満たして、轟音とともに荒くれさせた男は。貴方の心をいっぱいの幸福で満たすだけ満たして、振り返りもせず立ち去ったその男は! 泣き濡れる貴方に気づきもせず、貴方を置き去りにしたその男は!
―――私の大好きな貴方を泣かせたのはどいつだ。そんな単純な事実さえ、掴むことができないのが、ただただ口惜しい。
……なあ、「先生」。人間は見た目も、中身も大事だろう。外見ばかりに惹かれてはいけないだろう、「先生」。そうではないのか。見た目だけの男よりも、努力を重ねて自分磨きをする男のほうが良いだろう?
その男の記憶が薄れるなら、その男はその程度の男だったのだ。貴方の感情をいつまでもかき乱すに足りないような男だったのだ。忘れてしまえばいい、忘れてしまえ―――。
フェルディナントの心に過る怨嗟を、ありのまま手紙に書き出してしまえたら、どんなに楽になれただろう。だけれどフェルディナントはあえて、言葉を選びながら手紙を書き連ねていく。
「私」が「先生」の味方だと伝えるために。
涙で袖を濡らす「先生」の顔を引き上げ、「先生」がまっすぐ前を見られるようにするために。
「私」が、「先生」の記憶に刻まれてしまった男よりも、背中を預けるに足る男だと伝えるために。
フェルディナントのボールペンが便箋の上を奔る。フェルディナントの嫉妬を飲み込んだ黒いインクが、フェルディナントが選んだ表向きの感情を文字に変える。綺麗で真っ白な愛情だけ、「先生」に届いてくれればそれでいい。
フェルディナントは手紙を書き終わると、ふと鞄に手を伸ばした。鞄には財布や「先生」からの手紙、それから買ったばかりの香水入りの小箱が入っている。フェルディナントは香水入りの小箱を手に取った。箱を開けると、中には香水が詰まった小瓶が収まっている。箱を開けただけだというのに、香水の甘やかな香りが溢れ出す。
ヒューベルトがスマホから視線を上げる。
「『先生』への手紙に吹きかけるつもりですか」
「ああ。香りのお裾分けを、と思ってね」
「そのような行為を世間一般では、『マーキング』と言うのではありませんか」
「なっ! そのような他意はない! いや……ない、のだが……」
フェルディナントは手元の香水を、ちらと見た。それからフェルディナントは意を決して、便箋に香水を拭きかけた。便箋を封筒に入れて、封をする。
「くっくっくっ……! 露骨に他意が込められましたな」
「なんとでも言いたまえ。こちらも必死だ」
「くくく……、何も言いますまい。その方が愉快になりそうですからな」
「……君は本当にいい性格をしているな……」
「貴殿ほどではありませんよ」
ヒューベルトは愉しげに笑う。フェルディナントはヒューベルトを苦々しげに睨み付けたあと、封をしたばかりの封筒に視線を移した。
「先生」の記憶に残る男の匂いを、上書きしてしまえたら良いのに。フェルディナントはそんな子どもじみた独占欲を、他人事のように感じ取っていた。
○
竪琴の節十日
謹啓。
先生の心がちぎれて、痛みで叫び上げているように見受けた。大丈夫か、とは敢えて問うまい。もし先生が平気でいるなら、手紙の文字が滲むことも、貴方の心の痛みが文面に溢れ出すこともないだろうからね。
先生の悲しみは、私の悲しみだ。貴方が一人で抱えきれないほどの悲しみに沈んでいるのなら、私がその悲しみを半分受け持とう。
泣いていいんだ、先生。怒っていいんだ、先生。嘆いていいんだ、先生。
「わたしはショックを受けているぞ!」
なんて叫び上げてもいい。
貴方の心の傷口から吹き出してくる感情を、私にぶつけておいで。先生の心をのたくる激情を、私が受け止めてみせるから。
私はどこにも行ったりしない。ここにいる。
こうして貴方の側で、貴方の話を聴いている。
……「所詮、手紙のやりとりだけじゃないか」などと、野暮なことは言いっこなしだ。心理的には貴方と肩を貸し合えるような間柄だと、私は思っているよ。
とはいえ、だ。
手紙のやりとりだけで、貴方の心の傷を癒やすことができるかどうか。その一点には私とて疑問を覚える。
だから贈り物を手配しておいたよ、先生。この手紙と私の贈り物、どちらが先に届くだろうか。贈り物には私の名前と住所が書いてあるから、先生なら一目見れば私が用意した贈り物だと気づくだろう。
着払い詐欺の類いではないから安心してほしい。
贈ったのは、菓子だ。紅茶ではないのか、と思ったかもしれない。白状すると最初こそ先生に、私が好きな銘柄の茶葉を贈ろうかと思っていた。だがよくよく考えてみれば、先生はセイロス市に引っ越してきてから間もない。
先生は国境をまたぐ引っ越しが多かったから、あまり荷物を持っていないだろう。茶器を持っているか怪しいと思って、ひとまず菓子を贈ることにしたのだ。
茶器を持っているなら教えてくれ。お勧めの茶葉を贈る。
茶器を持っていないなら教えてくれ。茶器と茶葉を贈る。
紅茶と一緒に食べた方が、菓子は美味だろうとは思う。だが菓子だけで食べても悪くはあるまい。貴方は健啖家だろう。分かっているとも。菓子は三十枚入りだ。店で売っていた商品のうち、一番量が多いものを選んだのだ。日持ちする菓子を選んだから、一人でゆっくりと平らげても良い。職場に持ち込んで同僚と分け合っても良い。好きにするといい。
私の贈った菓子で、貴方の気持ちが少しでも上向いてくれればと願ってならない。
……そういえば、先生が教師になってから、もう一節になるのだね。仲の良い同僚はできたかね? 先生は人の心を掴むのが上手いから、それほど心配はしていない。きっともう職場にも溶け込んでいることだろう。
新生活というものは、思いのほか疲れがたまるものだ。ショックを受けるような出来事が重なったのなら尚のこと。
独りぼっちで泣き出したくなったときは、私を呼ぶといい。私は駆けつけるにやぶさかではないよ。
また手紙を書いてくれたまえ、先生。返信を待っているから。
草々頓首
貴方を想う私より
ベレスが家に帰り着いたのは、ぎりぎり夕方だった。ベレスがセイロス市に引っ越してきたばかりのころと比べれば、昼が長くなっている。山肌に隠れかけた太陽が、赤い光をセイロス市に落としている。空には雲が少ない。きっと明日は晴れるだろう。
ベレスは郵便ポストを開ける。封筒が一通入っていた。住所と差出人を確認する。「彼」だ。
ベレスは密かに胸をなで下ろした。「彼」から変わらず手紙が来ていて良かった。前回ベレスが書いた手紙は、いつにも増してひどい内容だった。やつあたりだ。「彼」ならベレスの感情をないがしろにはしないと認識したうえで、ベレスは感情を「彼」にぶつけてしまった。いくら手紙のやりとりしかしていない相手とはいえ、「彼」も一人の人間なのだ。やつあたりされて良い気持ちはしないだろう。
「彼」からの返信に何が書いてあるのか、気になる。ベレスは「彼」から送られた封筒を手に、小走りで部屋に向かう。部屋の扉を開けて、自室の電気を付ける。机の引き出しから鋏を取り出して、封筒の上部数ミリをちょきちょきと切った。封筒から手紙を出した瞬間、ベレスは立ちつくした。
―――薫ったのは、香水の匂い。肌を優しく撫でるエレガントで柔らかい甘みのある薫り。
ベレスの記憶が奔流した。
―――うすら昏い博物館の展示室。エアコンから吹き出す風は冷たくて、ベレスの足下から身体を冷やしていく。静かな展示室。展示されていた紅い握りの剣。展示されている剣を見下ろす男のひと。
逆光で隠れていたはずの男のひとに、スポットライトが当たったかのように感じる。薄れかけた記憶が鮮明によみがえっていく。
みなぎる自信で、背筋がぴんと伸びたひと。太陽色の瞳。意志の強さを信じさせる、まっすぐな視線。
男がベレスを見やる。太陽色の瞳が細められて、男の視線がベレスを穿つ。
「私に何か?」
低くて、それでいてよく通る声だった。耳に馴染んで、心の奥底に溶け込んでいく声だった。……一人称が「私」の男のひとだった。
―――嗚呼、なぜ忘れていたのだろう! これほど鮮烈な記憶だったのに!
ふと我に返って、ベレスは手にした手紙を呆然と見つめた。
―――同じだ。同じ薫りがした。―――博物館で見かけた男のひとから漂った薫りと、今まさに手紙から漂った薫りは。
「……どういうこと?」
手紙に問いかけたところで、手紙は何も返事してくれない。ベレスは一人きりの部屋で、いったい何が起こっているのかと考えあぐねていた。
宅急便の配達員がベレスの部屋のインターホンを鳴らすまで、ベレスはその場で立ち尽くしていた。
○
竪琴の節十五日
拝啓。
先生が担任を勤める学級の女学生が
「やふー」
「やふー」
と言い合っていた。ザンシンな挨拶だ。堅苦しくなくて、それでいてそれとなくゴキゲンな空気が感じられて良い。
なのでわたしもきみに使ってみようと思う。やふー。お元気だろうか。先生は元気だ。何を隠そう、きみからお手紙が届いた。さっそく返事を書こうと思っているうちに、宅急便まで届いた。ますます元気いっぱいだ!
手紙を先に読んでいたから、三十枚入りの菓子が届いたとは分かったんだけど、リーフパイとはうれしいな。先生はパイが大好きだ。さっそくいただいたよ。リーフパイを食べた瞬間、口いっぱいにバターのステキな香りが広がるのを感じた。噛んだ瞬間のさくさくさがたまらないね。噛めば噛むほどにバターの甘みと旨味が感じられて、大変幸せな気持ちになれた。パイの表面に大きめのザラメ砂糖がまぶしてあるのもたまらない。粒の大きな砂糖は、心を豊かにしてくれるよ。
やっぱりパイはいいね。パイ以外も大好きなものがほとんどなわたしだけれど、パイは最高に美味しいお菓子だと実感させられた。
実家で暮らしていたときは、もらい物のお菓子を父とどう分けたら良いのか、毎度毎度悩んでいたよ。半分を父に渡したほうがいいのかな? そうだとしても、半分ってどのくらいだろう? もう一口くらい、食べてはダメだろうか? 幼いころのわたしにとっては、この上ない葛藤だった。結局食べ過ぎてしまって、父に呆れられるまでがお決まりの流れだった。
しかし、実家を出て一人暮らしを始めたわたしは、もうそんな葛藤をする必要なんてない! 一人で食べてしまえる! ハッピーだ!
きみは
「同僚と分け合ってもいい」
なんて提案してくれたけど、たぶん無理だ。この手紙を書いているあいだにも、わたしの手は次のリーフパイに伸びているからだ。ぱりぱり、むしゃむしゃ。
本当に美味しいパイだ。……手紙にパイの欠片が零れていたらごめんね。気づいた分は払ったんだけど、細かい屑が残っているかも。
……このパイを食べれば食べるほどに、きみと知り合えて良かったと思うよ。きみは優しいね。……ちょっとばかり、優しすぎやしないか。
コピーは取っていないけれど(そもそもわたしの部屋にはプリンターもコピー機もないのだけれど)、自分が書いた手紙だ。前回、わたしがきみに送りつけた手紙の内容はなんとなく覚えているよ。
我ながらひどいものだ。自分の感情をきみにぶつけてばかり!
先生はずるい大人だ。きみが真っ正面から受け止めてくれるだろう……そう理解したうえで、あんな手紙を送りつけたんだ。思った通り、きみはわたしを受け止めてくれた!
思い通りになったはずなのに、わたしの心はむなしくなる。失恋した挙げ句、年下の男の子に気遣ってもらうなんて、わたしはなにをやっているんだろうね。
……いや初恋とすら呼べないような、幼い感傷だ。博物館で男のひとをみかけて、かっこいいと思って見惚れた! ただそれだけなのに傷ついて、涙をこらえきれなくなって、年下のペンフレンドにやつあたりして! そしてきみから気遣われて、慰められている!
情けなくて、泣き出しそうだ。わたしはきみみたいに、できた人間じゃない。そう実感してしまう。
きみみたいに、強いひとになれたらいいのに。それならきっと先生は、きみを支えられるような人間になれたんじゃないか。……そう思うよ。
……色々と心配をさせて、ごめんね。
これでも、職場にいるときは泣いたりなんてしないんだ。授業や、職員会議や、部活の顧問……やることがたくさんあって、目先の仕事を追っかけていたら良い環境だからかもしれない。
あるいは仲良くなった同僚の先生たちに、かっこ悪いところを見せたくないからかも。……きみくらいなんだ。先生が弱音を吐いたり、かっこ悪いところもみせて良いかなって思えるのは。
職場では女の先生と仲良くなって、一緒にお酒を飲みに行ったり、家に遊びに来てもらったり……それに今度一緒にショッピングへ行く約束をしたんだ。授業の相談や、部活の顧問についても色々と教えてくれて、本当に頼りになるんだ。(お酒を飲まない場所では、という注釈付きだけれど)
だから大丈夫。心配してくれて、本当にありがとう。
また手紙を書くね。
草々
リーフパイむしゃむしゃ先生より
追伸
おっと書き忘れるところだった。わたしは茶器を持っていない……のだけれど、きみから何もかも買い与えてもらうのも申し訳ない。
きみ、ただでさえ収集癖があるタイプなんだから、お金を大事にしたほうが良いよ。散財にご注意!
とはいえきみがお勧めする紅茶を飲んでみたいな。茶器は自分で買いに行くから、茶器を選ぶコツを教えてよ。
追伸その二
封筒を開けた瞬間、すごくいい匂いがした! 何をしたの?
匂いの付いた紙なんて売っているの?
○
ガルグ=マク大修道院付属大学の一回生には、基礎授業クラスとよばれるものがある。全学共通科目の授業を、高校までの授業のように少人数のクラスで受講するのだ。
クラスはアドラステア帝国出身者が集まる黒鷲の学級、ファーガス神聖王国出身者が集まる青獅子の学級、レスター諸侯同盟出身者が集まる金鹿の学級に分かれている。
せっかく縁があって黒鷲の学級に集まったのだ。二回生以降も共に集まれる場を用意したいというエーデルガルトの声かけで、「アドラステア帝国の集い」というサークルが設立された。別名、シュヴァルツァアドラーヴェーア。
集まりは週一日。他のサークルや部活との掛け持ちも可能とあって、黒鷲の学級に集まった生徒たちはみな、このサークルに加盟することになった。集まっている部室は、法学部棟の三階にある空き教室である。
ペトラが空き教室の扉を開けると、男子大学生たちが既に集まっていた。フェルディナントが持っている紙を覗き込みながら、男子大学生たちが雑談にふけっていた。
ヒューベルトが
「『先生』からの『マーキング』の評価はいかほどですか?」
と問えば、フェルディナントがそこそこご満悦に
「上上」
と答える。旅行明けで日焼けしたカスパルが
「『マーキング』って何やったんだ?」
と問えば、ヒューベルトが
「『先生』への手紙に、フェルディナント殿愛用の香水を吹きかけたのですよ」
と解答する。リンハルトがわずかにげんなりしながら
「恋路の進め方が遠回りすぎるね」
と感想を述べた。リンハルトもまた、旅行明けで普段と比べれば日焼けしている。フェルディナントが不満そうに眉を寄せる。
「私とて考えがあるのだ」
「ほう、考えなしに『マーキング』したわけではないと」
「そうだとも。……私と『先生』は匿名文通をきっかけに知り合ったが故に、互いの顔すら知らない。私にとって『先生』は、波間を漂う蜃気楼のようなものだ。
……そしてこのイメージは、『先生』から見た私の姿でもあるだろう」
「なるほど。まずは貴殿の纏う薫りを『先生』に伝えることで、『先生』が抱く貴殿のイメージを霞の海から、実在する人間としてのイメージに変化させようと?」
「その通りだ!」
「石橋を叩きすぎて、そのまま石橋を落とすつもりですかな?」
「なっ……! 君の口は厭みしか述べられないのかね?」
「事実でしょう。そんな悠長なことをしているから、『先生』を横からかっさらわれかけるのです」
「ぐうの音も出ないが、しかし『先生』に無理矢理迫るわけにもいくまい」
ペトラは教室の扉をくぐり、男子大学生たちの集まりに混ざる。
「フェルディナント、恋する、しますか?」
ペトラの問いかけに、フェルディナントは頬をわずかに染めた。
「……そうだな。私はいま、恋をしている」
「ペトラもなんとか言ってやってくれよ! フェルディナントときたら、オレたちが総出で背中を押してるってのに、全然恋路が進展してねえんだ!」
「わたし、話聴いたばかり、です。状況、説明、望みます。相手は?」
「フェルディナント殿が十年来、匿名文通を交わす女性です。通称『先生』」
「いつから、恋路、始まりましたか」
「本年の孤月の節」
「なぜ」
「『先生』が博物館で見かけた男に一目惚れした、と手紙に書いてよこしてきたのです。そこでようやくフェルディナント殿は、『先生』に惚れていると自覚したわけですな」
「ヒューベルトの説明に付け加えると、『先生』は博物館で見かけた男に失恋したらしいよ」
「……状況、把握する、しました。フェルディナント、『先生』に何する、しましたか?」
「手紙のやりとりは常に続けているさ。あとはこちらの電話番号を教えたり、菓子を贈ったり……といったところか」
「それ以外にやったことと言えば……僕達みんなで『先生』の家を見に行ったくらいかな」
「フェルディナント殿の恋路があまりに進展していないものだから、つい驚いてしまいますな」
「進展しているとも! 十年、互いの文字と住所と名字しか知らない仲であったのだぞ! ……いや、『先生』の悩み事の相談なども聴いていたから、『先生』の内面については知っていたが……」
「とはいえ、このまま手をこまねいているわけにもいかないでしょ」
「どうする? いっそ『先生』の家に押しかけてみるか?」
「女性の一人暮らしだ。怖がらせるような真似は避けたい」
「くくく。先日、男四人で家の前まで訪ねていったばかりだというのに、殊勝な物言いですな」
「私は止めたとも!」
「口先だけでしょう。結局、貴殿も一緒になって先生の部屋を見に行ったではありませんか」
「空き巣の下見のような言い草はよして貰おう。マンションの外観だけ見物しただけだ」
男子大学生たちが、やいやいと互いの意見を言い合っている。ペトラはフェルディナントの手元にある紙を見つめる。恐らく『先生』から送られてきた手紙なのだろう。少しまるっこくて、それでいて芯の通った文字が紙に書き連ねられている。
「フェルディナント、恋路、狩りと一緒です」
「そうなのかね?」
「慎重居士、獲物、逃します。大胆不敵、これもまた、獲物、逃します。……慎重、同時に大胆。これ肝要です」
「慎重かつ大胆に動くべき……か。何か考えがあるのかね、ペトラ」
「こちらの情報、開示すべきです」
「ペトラ、どの情報を『先生』に渡してえんだ?」
「写真、送ります。互いの文字しか知らない状況、打開、狙います」
「確かにこっちが写真を送れば、『先生』も写真を送り返してくれるかもね」
「いささか唐突に過ぎないかね? 十年、文字でやりとりしていた人間が、急に写真を送ってきたら不審に思われないだろうか」
「くくく、考えすぎでしょう。……一人で写るのが躊躇われるなら、いっそ全員で写りましょうか?」
「集合写真が突然送付されてくるのも、それはそれで不審に思われそうだが……」
教室の扉が開かれる。現われたのはエーデルガルト、ドロテア、ベルナデッタだ。
「あら集まっているようね」
「皆さん、お早いお集まりですねえ」
「ひぃぃぃ! ベルが最後ですか!? 殺されちゃいますうう!」
「少し待たせたくらいで殺されないわよ、ベルナデッタ……」
「くっくっく……。ちょうど良いところに、エーデルガルト様。集合写真を撮ります。どうぞお並びください」
「集合写真? 唐突ね」
「待ちたまえ、机を下げる。カスパル、手伝ってくれるか」
「いいぜ!」
「わたしも、手伝う、します!」
教室に机を動かす音と、椅子を退ける音が響く。状況が飲み込めていないエーデルガルト、ドロテア、ベルナデッタは互いに顔を見合わせた。
○
竪琴の節二十日
粛啓。
貴方が教えてくれた「やふー」という挨拶を初めて知ったよ。少なくとも私の周囲では使われていない。先生の赴任した学校での局地的な流行だろうか。せっかくなので、私も使ってみることにする。やふー、先生。
この頃、気温が温かくなってきたね。地元ではそろそろ小麦が育ち、穂を実らせ始める時期だ。先生はフォドラの各国を引っ越ししてきたから、きっと小麦畑も見たことがあることだろう。
穂を実らせた小麦畑は美しいよ。私の地元は、海が近い。海に沿うように植えられた小麦畑は金色に輝き、小麦畑の奥に碧く輝く海が見える。冬の海と比べると、夏の海の方が深い色に感じるよ。
なぜ色が変わるのだろうかと、ネットで検索してみたところ、どうやら水温が関係しているようだ。
夏の海は表面の水温ばかりが高くなり、深海の水温は低いまま保たれる。その結果、海の水があまり混ざらず、水面付近の海水が濁るのだそうだ。
一方、冬の海は水面付近も、深海も水温が低い。その結果、海水がよく混ざり、透明度が上がるのだそうだ。
海辺で育ったというのに、知らなかったな。一つ勉強になったよ。
こんなことを書いていたら、無性に海が見たくなってきた。今年の春休みは地元に帰らなかったから、尚のことだ。近々、地元に帰ろうかな。良ければ先生も遊びに来たまえ。歓迎するよ。
交易港の辺りは夜景が美しいことで有名だ。
……先生なら夜景より、食べ物に興味があるだろうか。交易港の近くでは、舶来の品を売る店が多い。アドラステア帝国ではなかなかお目にかかれないような、そんな珍しい品が売られている。外国の料理を扱う飲食店も多い。
交易港だけでなく、漁港もあるんだ。新鮮な魚は美味だよ、先生。朝市に顔を出して、魚介を食べるというのも楽しいものだ。
先生は社会人だから、学生よりも忙しいだろう。アドラステア帝国のエーギル地方に旅行するなら、長期休みになってから行った方がいいだろうか。
……まだ竪琴の節だ。夏休みまでには、時間があるし、それまでには期末試験もある。先生は期末試験を出題する側に回ったわけだろう。準備は大変だろうが、全力で頑張りたまえよ。
私も勉学に励むよ。今期は刑法と民法の試験が難関だ。最良の結果を勝ち取ってみせるとも。
そういえば私が贈ったリーフパイを気に入ってくれたようで、何より。その勢いだと、先生が茶器を買うよりもリーフパイがなくなるほうが早そうだね。
茶器は思いのほか、いろいろな種類がある。こだわり始めるとキリがないくらいさ。ひとまず必要な茶器はティーポット、茶こしだろうか。ティースプーン(プリンを食べるときに使うようなスプーンではないよ。茶葉を計量するためのスプーンだ)もあると良いかもしれない。
ティーポットの種類も様々だ。丸みを帯びた形の方が、湯を入れたときに紅茶の茶葉が踊って味や風味がよく染み出すと聴いたことがある。
ガラス製のティーポットなら実際に茶葉が踊るさまを見られるだろう。陶器製のティーポットならティーポットが茶葉の風味を吸い込むからか、まろやかな紅茶を淹れられる。
セイロス市なら、セイロス市駅前にあるデパートの地下に、紅茶の専門店があったはずだ。実際に店頭で見てみるといいかもしれない。自分の琴線に触れる茶器を選ぶのが一番だよ、先生。
さて、大事な話だから手紙の最後に書くぞ、先生。己を卑下するものじゃない。先生は私ほどできた人間じゃない、などと書いてよこしてきたが、そんなわけがあるまい。
確かに私は貴族の中の貴族たらんと、努力を積み重ねる男だとも。だが努力をしているのは先生もだろう。私は知っているさ。先生は自分の才能に溺れるような人ではあるまい。生徒のことを考えて、生徒の才能を伸ばすべく授業に打ち込むひとだろう。人を導くなど、並の人間にできることではないよ。
もし信じられないのなら、私が証言しよう。
「先生は私のことを導いてくれている」
とね。己を卑下するよりも、堂々と胸を張りたまえよ。
先生は自分を「ずるい大人」だと形容したが、私にもずるいところはある。
……白状する。私は先生にこんなにも頼ってもらえて、嬉しいよ。もっと頼ってもらいたいと思うくらいには、嬉しいんだ。
敬具
私、拝
追伸
前回の手紙には、私が愛用している香水を吹きかけたんだ。貴方の反応が上々で嬉しい。
佳い薫りだろう? 私もこの香りを気に入っているんだ。せっかくだから、今回の手紙にも吹きかけてみようかと思っているよ。
追伸、二
特に深い意味はないのだが、私の大学生活の写真を送る。本当に、何も深い意味はないのだがね。本当に。……本当だぞ。
○
竪琴の節、二十三日。
ガルグ=マク大修道院附属高校で、中間試験が終わった。本年度最初の大きなテストだ。生徒たちは無論、てんやわんやする。そして教員はテストの用意や、採点に追われることになる。学校中がわたわたしている。
新任教師であるベレスもまた、試験関係の業務に追われて、残業が続いていた。
試験期間中は部活が止まる。剣道部の顧問を務めたあとに、残業が始まるわけでないのは、わずかばかりの救いだった。
中間試験最終日、試験は午前で終わった。学生は試験から解放され、胸を撫で下ろしたり、肩を落としたりしながら、教室から引き上げていく。部活が再開されるのは、試験最終日の翌日からだ。自主練習に励む学生以外は、下校していくことだろう。
一方、教員はテストの採点の追い上げ期間だ。中間テストの結果は、次回の授業日に返却しなければならない。
昼の職員室では、雑談をしている教員もいれば、さっそく試験の採点に取りかかっている教員もいる。
職員室にいたマヌエラが、職員室にベレスが入ってくるのに気がついた。マヌエラの座席はベレスの席の隣だ。マヌエラの卓上は教科書や、テストや、文房具などが混沌と積み重ねられている。
「センセ、お昼ご一緒しない?」
「そうだね、昼休憩してからテストの採点を頑張ろう」
ベレスはマヌエラの机をちらっと見て、
「食堂で食べない?」
と提案した。
「お気遣い、ありがとう。センセ!」
「どういたしまして」
マヌエラが椅子から立ち上がる。たったそれだけの衝撃で、マヌエラの卓上のペンケースが転倒した。マヌエラが卓上を軽く手で直すが、マヌエラの机は雑然とし続けている。
ベレスとマヌエラは鞄を手に、職員室を離れる。ベレスはマヌエラと連れ添って、食堂に向かう。
「どうしても片付けが苦手なのよね……」
「マヌエラのお茶目ポイントだね」
「そうでしょう。センセイ! そういうちょっとだけダメなところがあったほうが、男に受けがいいらしいわよ」
「そういうものか」
食堂はがらんどうだった。普段の食堂は、学生でいっぱいだ。だが今日は肝心の学生のほとんどが下校してしまっている。利用者が少ない影響か、普段よりも食堂の品数が少ない。
ベレスはフィッシュサンドを、マヌエラは野菜たっぷりサラダパスタを注文する。ベレスとマヌエラは盆に注文した昼食を乗せ、空いたテーブル席に運ぶ。
「マヌエラ、ちょっと手紙だけ読んじゃっていい?」
「いいわよ、センセ。この時代に手紙なんて、珍しいわね。誰からなの?」
「ペンフレンドだよ。十年前、匿名文通をきっかけに知り合った子なんだ」
「十年も前から文通を続けているの? すごいわね、センセ」
ベレスは席に着くと、鞄に手を伸ばす。元より荷物の少ない鞄だ。目当ての白い封筒はすぐに見つかった。ベレスは爪を器用に使って、白い封筒の口を切る。封筒から便箋を取り出す。
―――ふわ、と香水の薫りがした。深く、深く……身体を包み込むような甘い香り。華やかなのに、上品だ。それでいて石鹸のような優しさを感じる。ベレスは「彼」の気配に抱きしめられたように錯覚した。
食堂の空調が空気をかき混ぜてしまう。「彼」の気配が遠のく。
ベレスは頬を赤らめた。ここは食堂で、ベレスの目の前にはマヌエラがいる。だというのに、いったい何を考えているのだろう。ベレスはごまかすように、便箋に視線を落とす。ベレスの視線がなんだか滑る。
マヌエラがぱちくりと瞬きした。
「センセ、恋をしている目をしたわね」
「そんな馬鹿な。わたしが恋したのは、博物館で見かけた男のひとだよ」
「そうね。センセイ。その話は嘘じゃないと、あたくしも信じている。でもあたくしの目は確かよ。センセイ、あなたは今、なにを感じていたの?」
マヌエラの視線がベレスの瞳を捉えた。ベレスは息を呑んだ。
「……香水……」
「香水? ああ、手紙に吹きかけられていたのね。気づかなかった」
マヌエラはベレスの持つ便箋に顔を寄せた。マヌエラが便箋に残る香水の薫りを感じ取る。マヌエラがわずかに目を見開いた。
「……前回の手紙もそうだったんだ。便箋から香水の薫りがした。甘くて、優しい香り。わたしのこころの奥底に手を伸ばして、包み込んでくれるような……おかしい、おかしいんだ」
ベレスの手に力が籠もって、便箋に皺が寄る。
「……ああ、そうだ。きっとわたしの勘違いだ……! 博物館で見かけた男のひとと『彼』の手紙……同じ香りがするなんて……!」
「同じ香水を使っている……ということ?」
マヌエラは慈しみを匂わせる目つきで、ベレスを見守る。
「……偶然にしてはできすぎているわ。そう思わない? センセ。センセイの心を射貫く見た目をしただれかさんと、センセイが思わず乙女の顔をする文通相手。この二人が同じ香水を使っているなんて」
「でも偶然じゃなきゃ、いったいなにが起こっているか説明できない」
「説明できるわ。センセ。―――同一人物なのよ。最初っから」
マヌエラは指先のフォークをくるくると回して、パスタを絡め取る。ベレスは呆然とマヌエラがパスタを口に運ぶ様子を眺める。
「……そんなこと……あるわけ……」
「あるわよ、センセ。……最初からおさらいしてみましょ。センセイが一目惚れした男に出逢ったのは、博物館だったわね」
「そうだ。『フォドラの武具展』を見に行ったときに、展示を見ているその男のひとに出逢ったんだ」
「あたくしはそこが気になるわ。……正直、あたくしはセンセイに教えてもらわなかったら、『フォドラの武具展』なんて展示が開催されているなんて知らなかったわ」
「セイロス市で暮らしているのに?」
「セイロス市で暮らしていても、よ! 武具の展示なんて、その手の趣味があるひとでもなければ、展示されてることにすら気づかないわ。センセイはどうして『フォドラの武具展』を見に行こうと思ったの? センセ、当時はまだ引っ越してきたばかりだったでしょう」
「それは手紙の『彼』におすすめめされて……」
ベレスの背筋に鳥肌が立つ。状況が繋がってしまった。
ベレスの大きく見開かれた瞳に、マヌエラが微笑む姿が映り込んでいる。
「『フォドラの武具展』は、好事家くらいしか知らない展示会だった。センセ、博物館の人入れはどうだった?」
「……まばらだったよ」
「だったらなおのこと。同一人物でもなければ、その香水を使う男が複数人いることなんて、ありえないと思っていいわよ。センセ」
マヌエラの指先がベレスの持つ便箋をなでる。ベレスはマヌエラの指先の動きを、目の動きだけでたどる。
「……どうしてそう言えるんだ、マヌエラ。香水を付けている男のひとなんて、いくらでもいるでしょう」
「そうね。でも女物の香水を使う男は珍しい。あたくしも使ったことがあるのだけれど……アンヴァルに本店を構える高級服飾店の香水よ。……かなりおしゃれが好きなのね、センセイの好きな人は」
マヌエラがにっこりと笑った。ベレスは耳まで真っ赤にしながら、握りしめていた便箋に視線を落とす。手で、便箋に寄ったしわをそっと伸ばす。
ベレスが瞬きをするたびに、まぶたに「彼」の姿が映る。太陽色の髪をした、凜とした男性。視線がどこまでも真っ直ぐなひと。ベレスが見つめた分、同じだけベレスを見つめ返してくれるひと。
きっと笑顔がよく似合うひと。キザに口角を上げるのも、歯を見せながら大きく笑うのも、きっとよく似合う。
手紙の「彼」は情が深いひと。ベレスの日々を大切にしてくれるひと。ベレスの暴れ出した感情も、静かな躊躇いも、受け止めてくれるひと。泣き出したくなるくらい、優しいひと。
ベレスは便箋が入っていた白い封筒に手を伸ばす。封筒が四角く膨らんでいる。写真が入っているのだ。
―――さあ、答え合わせを始めよう。
ベレスは白い封筒から、写真を取り出した。写真を机に置く。
集合写真だ。どこかの教室の黒板前で、椅子に座る白い髪の少女を中心に男女八人が並んで写真に写っている。白い髪の少女の隣で、ドロテアが可愛らしいポーズをしながら、中腰になっている。
後列、右から二番目。「彼」がやや緊張した面持ちで立っている。それでも「彼」の視線は真っ直ぐに、ベレスを貫いてくる。
かっこいいな、笑っている顔が見たい、わたしに笑いかけてくれないかな……。ベレスの脳内で、とりとめのない考えがくるくると回る。
「どうしよう、マヌエラ」
「なに? センセ」
「……『彼』、好きなひとがいるって……先日、手紙に書いてくれていたんだけど……」
「ドロテアからも聴いていたわね。確か、『交際しているひとはいないが、口説き落としたいと思っているひとがいる』って」
「……他の女のひとになんか、『彼』を渡したくないって思ってしまった……。こんなこと考えたの、生まれて初めてだよ……」
ベレスは頭を抱えた。
「『彼』のことを考えるだけで、こころがぐちゃぐちゃになってしまう……」
「……ふふ、それが恋よ。センセ!」
「恋ってもっとキレイじゃないの?」
ベレスが顔を上げると、マヌエラが軽やかにウインクした。
「キレイも、恨み辛みも、ぐちゃぐちゃも、何もかもが混ざったものが恋なのよ」
「……知らなかった」
「良いものでしょう? センセ」
「うん。……いいものだ、とても……とてもいいものだ」
ベレスは噛み締めるように笑う。それからベレスは顔を上げ、フィッシュサンドに手を伸ばした。フィッシュサンドに、大口を開けてかぶりつく。パンに挟まれた白身魚のフライは外こそカリカリなのに、中身はふわふわで柔らかい。噛めば噛むほどに、白身魚の旨味がフライから溢れ出してくる。
フィッシュサンドとは、これほどまでに美味しかっただろうか。
「ありがとう、マヌエラ! マヌエラが一緒にいてくれて、良かった!」
「どういたしまして、センセ!」
マヌエラの皿の上で、マヌエラが手にするフォークがくるくると回る。フォークにパスタの麺がからめ取られていく。
「マヌエラ。わたし、何もせずに『彼』が誰かに取られるなんて嫌だ! 失恋するにしても、やれるだけのことをやってから失恋したい!」
「良いガッツだわ。センセ!」
「……とはいえ、『彼』は極めて誠実な子だ。二股なんかは絶対にしない。
……『彼』に恋人ができたら、そのときは諦める。頑張って、『彼』の友人に戻るよ」
ベレスはフィッシュサンドを食べ進める。
「その前に腹ごしらえして、テストの採点だ! 頑張るぞ! マヌエラ!」
「ファイトよ、センセ!」
ベレスとマヌエラは声を合わせて、
「えい、えい、おー!」
と声を上げた。食堂にマヌエラとベレスの楽しげな笑い声が響いた。
○
竪琴の節二十四日
復啓。
きみの手紙を読んでいるだけで、エーギル地方に行ってみたくなったよ。ステキな場所なんだろうな。
きみも知っての通り、わたしは引っ越しの多い人生を送ってきた。だけど、エーギル地方には立ち寄ったことがない。だから君の手紙から、エーギル地方を想像するばかりだ。
黄金色に輝く小麦、蒼く深く輝く海、浜辺に打ち寄せる白い波―――実り豊かな場所なんだろうね。ああ、だけどエーギル地方はアドラステア帝国内でも、特に栄えている場所の一つだとも聴く。
栄えた街並みの傍らで、人と動物が生きている気配を感じられる―――そんなステキな場所で、きみは生まれ育ったんだね。
わたしが美味しいものを食べるのが好きだと、さすがきみはよく分かってくれているね。外国の料理もぜひ食べてみたい! 漁港で食べる新鮮なお魚、というのも魅力的だ。お魚はいいよ。美味しいだけでなく、賢くもなれるらしい。本当かな?
だけどね、夜景だって悪くないよ。……きみと一緒に見るならね。交易港なら、海に街並みが放つ光が反射するのだろうね。昏くゆらめく海と、真っ直ぐに伸びるハーバーライト。色とりどりの光が、海に吸い込まれていく。それから光は波にぶつかって乱反射するんだろうね。海から砕けた波は、光を受けてきらきらと輝くんだろう。
地元民のきみなら、きっと穴場スポットだって知っているでしょう。案内してくれる? ……なんてね、冗談だ。
そういえば大学では前期と後期、それぞれの期末にだけテストがあるんだったね。私も去年まで大学生だったはずなのに、なんだか遠いできごとのように感じるよ。
先生の勤める学校では、中間テストが終わったばかりだ。生徒たちもたいへんだっただろうけど、わたしたちも採点に追われてあわあわしている。
いっそ大学のように、前期と後期の期末試験だけにしてくれたら、なんて思う。だって中間テストの採点だけでも、こんなにたいへんなんだ。これから期末試験の準備が始まるなんて、うんざりしてしまうよ。
だけど試験の回数が少なくなったら、生徒のテスト範囲が広くなってしまう。これでは予習復習を欠かさないタイプの子以外は、テストの対策がしんどくなってしまうかな。
きみは授業を受けるなら、予習復習をしっかりとこなすタイプでしょう。先生にとっては、クラスに一人はいて欲しい生徒の一人になってくれそうだ。大学の授業は難しいだろうけど、たくさん勉強に励んでね。応援しているぞ。
それから、茶器について教えてくれてありがとう。むむ、思っていた以上にいろいろな種類があるんだね。きみはどうやら必要最低限の情報に絞って、手紙に書いてくれたように見える。ということは、実際の茶器選びにはさらに奥深い知識が必要なのかもしれない。
ティーポットの素材や、形なんて考えたことがなかった! 同じ形、同じ素材じゃないんだ! 驚きだ。
ひとまず週末にでも、さっそくデパートの紅茶専門店に出向いてみようと思う。まずはウインドウショッピングだ。紅茶の茶器にどんな種類があるのか、実際にわたしの目で確かめてみようと思う。きみが茶器について教えてくれたから、なにもわからないまま紅茶専門店に突撃する、なんてことにはならずに済みそうだ。
お写真、拝受。たくさんひとが並んでいたけれど、きみのことはすぐに分かったよ。かっこいいじゃないか、きみ。
それから最後に。励ましてくれてありがとう。……きみほどわたしのことを理解してくれているひとはいない。そんな気がしてくる。わたしがきみを導けているのなら、これほど嬉しいことはない。
きみの励ましのおかげで失恋からは立ち直れた、はずだ。これからわたしは新たな恋に突き進んでみるよ。
ご心配なく。恋だけでなく、仕事や、遊びにも励むつもりだ。きみのように言うのなら
「何事にも全力で!」
といったところだろうか? 楽しんでやっていくよ。
今日はこのくらいで締めるよ。またお手紙を書いてくれるとうれしいな。
かしこ
きみの先生より
○
―――なんだ、この手紙は。
フェルディナントは自室のベッドに寝転がりながら、「先生」から届いた手紙を読んでいた。枕にフェルディナントの伸ばし始めた髪が広がる。
部屋の窓は開けられ、網戸だけが閉められている。初夏の涼しい風が窓から吹き込み、白いレースのカーテンを揺らしている。窓から差し込む昼間の陽光が明るい。
フェルディナントは「先生」からの手紙を、窓から差し込む光にかざす。「先生」の文字はまるみを帯びているのに、どこか凜とした印象を感じる。捉えどころがないのに、いつの間にか傍らにいてくれるような、そんな不思議な印象を感じる文字だ。
フェルディナントはずっと、「先生」の背中ばかりを眺めているような気分でいたはずだった。たしかに、導かれている。だけど「先生」の顔や表情は、いつだって見えない。
だというのに、今回の手紙ときたら……!
「先生」がフェルディナントを振り返ってくれたように感じる。「先生」がフェルディナントの目を見て、笑いかけてくれたように感じる。そのまま「先生」がフェルディナントの手を取って―――。
フェルディナントの雑念と、とりとめのない感覚が、フェルディナントの脳内でぐるぐると回る。
フェルディナントは小さくため息を零した。
―――「先生」、どうか、いっそ。そのまま私を抱きしめてはくれないか。
フェルディナントが「先生」に手を伸ばそうとしても、先にあるのは天井だけだ。フェルディナントがどう「先生」の姿を想像しようとしても、「先生」の顔には強い順光が降り注ぎ、何も見えない。
―――「フェルディナント」、と私を呼んでくれないか。「先生」。
フェルディナントが望んだところで、フェルディナントの脳裏に浮かぶのは、「先生」のまるっこくてかわいらしい文字だけだ。フェルディナントは「先生」の声を知らない。
「……どうかしているな、私は」
フェルディナントの小さな呟きが、ワンルームに微かな反響を残す。フェルディナントは手紙をベッドに投げ出し、身体をベッドに預けた。目を閉じる。
「先生」の幻覚がフェルディナントに手を伸ばす。「先生」の幻の手が、フェルディナントの柔らかい皮膚と硬い骨をすり抜けて、フェルディナントの心臓をやわに撫で上げる。フェルディナントの心臓が跳ねる。フェルディナントの心臓が全身に血液を送り出す。
「先生」のゆらめく指先が、フェルディナントの赤黒い内臓に潜り込む。フェルディナントの血管をたどって……肺をまさぐる。戯れのように骨を握る。「先生」が幸せそうに笑ってくれている気がした。
―――貴方にだったら、別にいい。……どうぞ、お気に召すまま―――。
ぴんぽーん。インターホンが鳴った。
「おわああああ!」
フェルディナントは叫びながら、飛び起きた。フェルディナントの意識が、一気に現実へ引き戻される。フェルディナントはどたばたと音を立てながら、ベッドから降りる。手櫛で髪を整えて、それから玄関を開ける。
ヒューベルトが怪訝な顔を浮かべていた。
「……アポを取ってから遊びに来てくれないか、ヒューベルト」
「SNSでメッセージを送りましたよ。返信はありませんでしたが」
フェルディナントは背後の自室を振り返った。スマホは机に置きっぱなしとなっている。消音モードがオンになっているはずだ。スマホはSNSのメッセージを受けて、振動していたのかも知れない。だがフェルディナントは「先生」からの手紙に集中しすぎて、まるで気がつかなかった。
「フェルディナント殿、お忙しいようなら引き上げますが」
「構わない。上がってくれ」
「では遠慮なく。くくく……相変わらず、とっ散らかっておりますなあ」
「家具屋以下の生活感しかない君の部屋と比べられては困る。一般的にはこんなものだろう」
ヒューベルトがフェルディナントの暮らすワンルームに上がる。フェルディナントの部屋の床には、フェルディナントが趣味で収集した武具や、武具を手入れするための道具が置かれている。
ヒューベルトは躊躇いなく、フェルディナントのベッドに腰掛けた。フェルディナントは机に置きっぱなしになっていたスマホを手に取る。スマホを起動すると、スマホが振動する。SNSの通知アイコンが表示される。SNSに届いていたメッセージは、全てヒューベルトから送られてきたものだった。
最初に届いたメッセージが送られてきたのは、三十分前。フェルディナントの家の近場に寄る用ができたから、ついでにフェルディナントの家に行く……とヒューベルトらしい簡潔な文章が送られてきていた。
フェルディナントはスマホから視線を上げ、ヒューベルトを見る。
「生憎、テフの買い置きはないんだ。茶なら淹れられるが?」
「結構です。それより気になることがありましてな」
「何だね」
「貴殿は文通をしている相手が、ミッテルフランク歌劇団のマヌエラ殿であるという案には懐疑的でしたな」
「主観的ではあるが、今まで手紙を交わした『先生』の印象と、歌姫マヌエラ様の印象が食い違う」
「……とはいえ確証はない、と」
「マヌエラ様は公演のために各国を回っていた。私の主観を度外視して考えれば、身の上を隠すため諸外国を引っ越ししているということにして、文通をしていたとは考えられるが……」
ヒューベルトがベッドに散らばった「先生」からの手紙を眺める。フェルディナントは静かにベッドに近寄り、ベッドに散らばった「先生」からの手紙をかき集める。普段の手紙ならまだしも、今回の手紙は誰かに見せたくなかった。
ヒューベルトはフェルディナントの様子を意に介さず、邪悪に微笑んだ。
「貴殿はマヌエラ殿の公演パンフレットを保存しているそうですな」
「持っているとも。……ああ、そうか。『先生』の手紙と照らし合わせれば……」
「マヌエラ殿と『先生』の行き先が同じ場所か、判断できるでしょうな」
「はっはっは! さすが、知恵が回る! 君の評価をまたしても改める必要があるようだな!」
「くははは! そう褒めないでいただきたい。鳥肌が立ってしまいます」
「貴族たるもの、礼はするよ。何が良い?」
「焼き肉で結構ですよ」
「良かろう!」
フェルディナントは手にした便箋を封筒にしまう。封筒を机の引き出しにしまう。それからフェルディナントはクローゼットを開けて、段ボール箱を取り出した。
「この段ボール箱に、『先生』から届いた手紙をしまっているんだ」
「……机にしまったその封筒は?」
「これだけは見せられない。私だけのものだ」
フェルディナントが力強く笑うと、ヒューベルトは
「……左様で」
と呟きながら、呆れたように笑った。
○
セイロス市駅前の携帯ショップから、ベレスはややくたびれた面持ちで立ち去った。スマホの契約をするだけで、数時間待たされることになるとは思っていなかった。
店員さんの振る舞いが穏やかであったのが、数少ない良い点だった。
昼過ぎに解放されて良かった。マヌエラ、ドロテアとの待ち合わせには間に合いそうだ。
週末のセイロス市駅周辺は、平日以上に人が多い。近隣から訪れる観光客が増えるからだ。観光客は大きなリュックサックや、キャリーバッグを引いて移動している。一人一人の荷物が大きい分、街の空間が普段よりも狭くなったように感じる。
街の割には低いビル群から、空が青々と広がっているのが見える。
ベレスはきょろきょろと周囲を見回し、何度も街のあちこちに設置された地図を見ながら、なんとかセイロス市駅の二階にある時計塔に辿り着いた。
「センセ! こっち、こっち!」
マヌエラのよく通る声が聞こえる。ベレスは時計塔の前に並んで立つマヌエラとドロテアを見付けた。ベレスは時計塔の足下に駆け寄る。
「すまない。待たせてしまった」
「あたくし達も今来たところよ、センセ」
「お久しぶりです。アイスナーさん。……アイスナーさん、なんて呼び方も他人行儀ですねえ……。私も先生って呼んでも?」
「いいよ、ドロテア」
「やった! ありがとうございます、先生!」
ドロテアが朗らかに笑う。ベレスはそんなドロテアの様子を微笑ましげに眺めながら、鞄からスマホを取り出した。
「じゃじゃん!」
「ついにスマホを契約したのね! センセ!」
「今朝、契約したんだ」
「それなら連絡先を交換しましょうか、先生」
「どうやって使うの?」
ベレスの手元のスマホの画面を、マヌエラとドロテアが覗き込む。マヌエラのすらりと細く長い指が、ベレスのスマホの画面を指さす。マヌエラの指先には、マニキュアが塗られていた。
「画面左下の緑色ボタンを押すの。……そう、そのままプラスボタンを押して
……」
「ここから電話帳を登録するんだね」
「飲み込みが早いわ! センセ!」
「マヌエラの教え方が上手だからだね」
「先生、私の連絡先を教えます。試しに登録してみましょう!」
女性三人が集まって、ベレスのスマホを眺める。ベレスはマヌエラとドロテアに見守られながら、なんとか二人の連絡先を登録した。ベレスはスマホを見つめる。こんな小さな電子機器に、友人たちとの繋がりが保存された。そんな当たり前の事実が、なんだか感慨深かった。
ベレスはスマホを大事に、鞄へしまった。
「SNSとか……スマホで使える便利な機能はたくさんあります」
「そうなのか。教えてくれるとうれしいな」
「もちろんですよ! 先生!」
「とはいえ今日の目的は買い物よ! まずは買い物に向かいましょう!」
マヌエラが先導して、セイロス市駅前にあるデパートに向かう。マヌエラは人の流れに飲み込まれない。むしろ人波がマヌエラの動きに従う。
「あたくしは服を見るつもりだけど……センセイは何か買いたいものはある?」
「そうだな……。化粧品を買いたいな」
「先生はどこの化粧品が好きですか?」
「実はあまり詳しくないんだ。……歌姫が付けているような化粧品を探してみようかと思ったんだ」
「歌姫? センセイ、なんでまた」
「マヌエラには相談していたけど、わたしは恋をしているんだ。……十年来、手紙のやりとりをしているひとに」
「マヌエラ先輩から聴いています。たしか、私の同級生と、先生が文通している相手が同一人物だったんですよね」
「聴いてくれていたのか。それは頼もしいな。……恋路も、戦闘も、情報が大事だろう? だからわたしは『彼』から届いたこれまでの手紙を読み返してみたんだ。……『彼』の好みの女性の情報が残ってないかと思って」
「それが歌姫?」
「うん。彼、アドラステア帝国出身なんだけど、歌劇団の大ファンなんだよね。マヌエラ様っていう歌姫が推しらしいんだ」
「あたくしの?」
「……えっ? マヌエラの? ……ちょっと待って、同姓同名の別人じゃなくて?」
「ミッテルフランク歌劇団の元歌姫、マヌエラなら間違いなくあたくしのことよ」
「えっ、マヌエラって歌劇団の歌姫だったの?」
「マヌエラ先輩、伝えていなかったんですか?」
「そういえば言う機会がなかったわね……」
ベレスは目を大きく開けて、マヌエラをまじまじと見つめる。
「そうだったのか……でも、助かるかも。マヌエラが使っている化粧品を買ってみたらいいんだよね」
「ダメよ、センセ」
「……どうして?」
「人によって骨格も、肌の色も違うわ。あたくしに似合う化粧が、センセイに必ずしも似合うわけではないのよ。……ましてや、舞台で使う化粧品と普段使いする化粧品は別物。……それに……」
マヌエラの指先がベレスの頬を撫でた。ベレスの肌を滑る指の感触に、ベレスの背筋がぞくりと震える。
「センセイは、『彼』をベレス=アイスナーに惚れさせなきゃいけないのよ」
マヌエラが妖艶に微笑む。マヌエラの細い髪が、マヌエラの首元に柔らかく掛かっている。柔らかくて、それでいて力強い眼差し。
同性であるベレスが思わず見つめてしまうほどには、マヌエラは魅力的だった。
「わたしに似合う化粧品か……難しいな」
「選ぶのを手伝うわよ、センセ!」
「ふふ、私もなんだかやる気が出てきました!」
マヌエラとドロテアが歌劇の歌い出しのような軽やかさで歩き始める。ベレスは慌てて二人の後を追う。ベレスはつい笑い出していた。
買い物は楽しいものだ。友人といっしょに行く買い物なら、なおのこと。
○
十年積み重ねた手紙の枚数は、生半可な量ではなかった。パンフレットの冊数がましに思えるほどだ。ミッテルフランク歌劇団のマヌエラは、退団してから既に数年が経過している。つまり直近数年分のパンフレットは存在しない。
フェルディナントは最初こそ、懐かしい手紙やパンフレットを見て
「懐かしいな……」
なんて呟きながら、じっくりと中身を見聞していた。だがヒューベルトが本気の舌打ちをし始めたため、途中からは事務的に手紙とパンフレットの内容を確認している。
フェルディナントの机は、普段物置として使われている。具体的に言えば、フェルディナントが趣味で集めた武具の手入れに使用する道具が置かれている。だが、今日の机からは物がどけられ、文字通り机として機能していた。
ヒューベルトが陣頭指揮を執り始めたからである。ヒューベルトはさっさと机の上を片すと、フェルディナントがレポートなどを書くのに使用しているノートパソコンを設置した。
ヒューベルトはノートパソコンの表計算ソフトを起動した。慣れた手つきでさっさと、表のタイトル部分を作成する。
一方、フェルディナントは床とベッドの上に、手紙とパンフレットを広げている。フェルディナントが手紙とパンフレットの内容を読み上げる。
「二〇一六年飛竜の節五日、『先生』、住み始めたのはアドラステア帝国ベルグリーズ」
「はい」
「同節十八日、マヌエラ様、アドラステア帝国フリュムで公演」
「はい」
「『先生』、同節の二十日に旅行へ行っている。行き先はレスター諸侯同盟ミルディン」
「はい」
フェルディナントが読み上げた地名や、年月日を、ヒューベルトが鋭いブラインドタッチで表計算ソフトに入力していく。
フェルディナントは『先生』からの手紙と、歌姫マヌエラの公演パンフレットに目を通しながら、ふと思う。
ヒューベルトと一緒に勤め始めたら、仕事中はこのような雰囲気になるのだろう。具体的には大学卒業後、エーデルガルトの下でこのように働くことになるのだろう。
フェルディナントは遠からぬ未来を思って、少しだけ遠い目をした。
○
ベレスは両手に紙袋をぶら下げながら、デパートの十階にある喫茶店に入った。両手が紙袋で塞がっているのは、マヌエラやドロテアも同様だ。ベレスはマヌエラとドロテアによって、半ば着せ替え人形のようにされながらも、なんとか化粧品を買い終えたのだった。
マヌエラとドロテアも化粧品や服を買って、ほくほくとしている。
喫茶店の窓は広くとられている。窓から地上の様子が見渡せる。ビル群に隠れた空は、夕焼けの赤色に染まっている。夕陽が差し込んだ雲が赤々と、ゆったり流れている。地上では、人と車が足早に行き来している。
ベレス達は窓際のテーブル席に案内された。席に着いて、両肩に掛かった紙袋や、鞄を荷物入れに納める。
「楽しい買い物だったわね」
「そうですね、マヌエラ先輩。先生、お目当てのものは買えました?」
「おかげさまで。……あ、そういえば紅茶の専門店に立ち寄るのを忘れていた」
「これから寄りますか?」
「今日は荷物がたくさんあるし、大丈夫。またの機会に行くよ」
「いいんですか?」
「いいんだ。まだ何を買えば良いのかすら、分かっていないから」
ベレスはテーブルにメニューを広げる。それからベレスは、ドロテアとマヌエラが見やすいように、メニューを回転させる。
マヌエラの細い指が、メニューをぱらぱらとめくる。マヌエラの視線がケーキセットのページで止まる。軽食だ。夕飯を食べて解散する流れにはならないようだ。……なんだかお腹が空いた。
ベレスは小腹を抱えながらメニューを覗き込む。なるべく量の多そうな商品を探す。
「パンケーキのセットにしようかな」
「センセ、決めるのが早いわね」
「即断即決していこうと思って」
「なら私はクレープのセットにします。……マヌエラ先輩はどうします?」
「あなた達、スイーツとのセットにしてしまうのね……。カロリー……。いいわ! あたくしもケーキセットにする!」
マヌエラが勢いよく呼び出しボタンを押す。ぴんぽーん、電子音は軽やかに響く。店員が姿を現す。マヌエラがてきぱきと注文を店員に伝えていく。店員が下がる。
ベレスは仕事用の手帳とスマホを机の上に出した。手帳をめくって、「彼」の電話番号が書かれたページを探す。目当てのページはすぐに見つかる。
ベレスはスマホに手を伸ばす。昼頃、マヌエラとドロテアに教えてもらった操作方法を思い出しながら、恐る恐るスマホを操作する。
「あらセンセ、誰の電話番号なの?」
「わたしが好きになった『彼』の電話番号だ」
「先生、電話番号を知っているんですか?」
「実は以前教えてもらっていたんだ。わたしが電話を持っていなかったから、通話はできなかったけどね」
「センセイ! 掛けてみましょ!」
「『彼』に電話を?」
「私たちも見守っていますから!」
「……喫茶店で電話していいのかな」
「なら喫茶店で腹ごしらえして、それから掛けてみましょ」
「……ちょっと待ってね。なんだかすごく緊張してきたぞ。『彼』と電話だなんて……」
「パンケーキを食べて、落ち着きましょう。先生!」
ベレスは顔を強ばらせながら、手を握ったり、開いたりする。ベレスの手に手汗が滲んでいた。ドロテアが上目遣いでベレスを見つめる。
「先生、考えてみてください。先生は非常に有利な立場にいます」
「……ドロテア、どういうこと?」
「先生はスマホを契約したばかり。相手はまだ、先生の電話番号を知りませんよね」
「たしかにそうだ。……わたしからは電話を掛けられるけど、『彼』からわたしに電話を掛けることはできない……というわけだ」
「その通りです。先生、いわば先生は奇襲攻撃ができる立場です」
「ステキだ。正々堂々もいいけれど、わたしは奇襲攻撃も好きだよ」
ベレスは顔を強ばらせながら、口角を上げた。
「正々堂々、奇襲をしかけるぞ……!」
「その意気よ、センセ!」
ベレスたちが注文した商品が運ばれてくる。ベレスはパンケーキにメイプルシロップをたっぷりと掛け、それからナイフとフォークでパンケーキを切り分ける。パンケーキはふかふかだ。
ベレスは切り分けたパンケーキを、ゆっくりと口に運ぶ。口いっぱいにメイプルシロップの優しい甘さと、パンケーキのふかふかの食感が広がる。パンケーキを噛み締めると、バターと小麦の旨味と塩気が溶け合っていく。
ベレスのフォークを持つ手が若干震えていることに、ベレスは気づかないふりをした。
○
「カスパル、タン塩が焼けたぞ。食べたまえよ」
「おっ悪いな」
フェルディナントはトングで、焼けたタン塩を、カスパルの取り皿に乗せる。
セイロス市駅から徒歩十分。表通りから一本、裏路地に入った場所にその焼き肉屋はあった。いわば隠れた名店である。
人通りが少なく、店先の見える位置にゴミ箱が置いてあるような店だ。酒に酔ったサラリーマンが千鳥足で闊歩しているような場所に立地している。だがこの焼き肉屋の特徴は、牛を一頭買いし、選りすぐりの部位だけを商品として提供しているのだ。
初めて入店したとき、舌に肥えたフェルディナントが
「悪くないな」
なんて感想を残したくらいには、良い店だ。
テーブル席では、フェルディナント、ヒューベルト、カスパル、リンハルトが焼き網を囲んでいた。フェルディナントとヒューベルトが焼き肉屋に向かうにあたり、予定が空いていたカスパルとリンハルトも誘ったのだ。
煙がもうもうと立ちこめている。目に煙が染みて、痛い。
焼き肉奉行には、フェルディナントとヒューベルトが就任していた。フェルディナントが焼いている間に、ヒューベルト、カスパル、リンハルトが食べる。ヒューベルトが焼いている間に、フェルディナント、カスパル、リンハルトが食べる。
リンハルトは焼いたとうもろこしを食べながら、視線をフェルディナントとヒューベルトに移す。
「で、二人の自由研究の結果はどうだったの」
「結論から言えば、微妙だ」
「説明してよ」
「マヌエラ殿が公演した場所と『先生』の移住先が完全に一致していることはありませんでした」
「厄介なのがニアミスはしている」
「どのくらい?」
「例えば『先生』がアドラステア帝国ベルグリーズに住み始めた時期、マヌエラ様はアドラステア帝国フリュムで公演していた」
「オレの実家の近くだな」
「フリュムはベルグリーズの隣だね……」
「しかも同節『先生』が旅行に出かけた先が、レスター諸侯同盟のミルディンだ」
「フリュムの対岸だね……」
「高速鉄道を使えば、数時間で移動できる距離でニアミスしている」
「ミステリ小説みたいなことになってきたね……」
「とはいえ常にニアミスしているわけではありません。『先生』がファーガスのゴーティエに住み、マヌエラ殿がアンヴァルで公演していた時期もありました」
「それはさすがに遠いんじゃねえか?」
「……でも飛行機を使えば、五、六時間で移動できてしまうよね……」
「微妙だろう?」
「微妙だな」
「うん、微妙だね」
フェルディナントが遠い目を浮かべながらビールを飲み始めたので、ヒューベルトがトングを受け取る。ヒューベルトの持つトングが、上カルビをひっくり返す。上カルビから溢れ出した脂が、木炭に落ちる。炎が木炭から吹き上がった。炎が上カルビを撫で上げる。
立ちこめた煙が、髪に、服に、吸い込まれていく。
スマホの着信音が電子音を響かせ始める。
「誰のスマホだ?」
「私のだな」
フェルディナントがスマホを取り出し、訝しげな顔を浮かべる。
「見知らぬ番号だな」
「間違い電話か?」
「出ますか?」
「一応、出ておくか」
フェルディナントがスマホの通話ボタンを押す。
「もしもし? …・…えっ?」
フェルディナントが目を見開いた。フェルディナントの手元で、キッホルの小紋章が力強く光った。フェルディナントの纏う空気が張り詰めた。
「『先生』? ……本当に?」
男子大学生の視線が、フェルディナントに集まる。フェルディナントの頬が、ビールとは異なる理由で上気していく。
「……ああ、うむ! 『私』だとも!」
焦ったフェルディナントが身振り手振りしようとして、ビールジョッキを振り上げる。ヒューベルトがフェルディナントの手からビールジョッキを取り上げる。フェルディナントが視線だけで、ヒューベルトに礼を伝える。
奇妙な連携だった。そして男子大学生の誰も、フェルディナントが静かな場所に向かうよう誘導はしない。気になるからである。
「嬉しいよ、『先生』。……そうだとも。……私もずっと、貴方と話がしてみたかったんだ。……そうなのかね? ふふ、そうか! それは良かった!」
フェルディナントの頬が、柔らかに緩む。フェルディナントの目が、三日月型に細められた。酒が入っている影響もあってか、フェルディナントの声量が大きくなりかかっている。
リンハルトが己の唇に人差し指を当てて
「しー」
と小さく呟く。フェルディナントが慌てて、声量を落とす。
「……そうかね、『先生』。……無論だ! 何度だって、掛けてくれたまえ! ……ああ、本当だとも。心の底から嬉しいよ、『先生』! ……貴方と話ができて、本当に嬉しいんだ。歌い踊ってしまいそうなほどさ! ……ふふ、私から掛けても良いかね? ……そうか、それじゃあ。良い夜を、『先生』」
フェルディナントが電話を切る。フェルディナントの手元で光り続けていたキッホルの小紋章が落ち着く。
「ふ、ふふ……。……ふっはっはっはっは!」
フェルディナントが背筋を反らせて、高笑いする。フェルディナントの伸ばし始めた髪が揺れる。元より場末の焼き肉屋だ。酒が入っている客も多く、フェルディナントが高笑いしたくらいでは、フェルディナントに視線は集まらない。
「ふ……ふふ、ふふ……!」
フェルディナントは幸せそうに笑いながら、スマホを操作して、「先生」の電話番号を電話帳に登録する。電話帳に登録された名前は「先生」。フェルディナントはスマホを操作し終えると、スマホを卓上に置いた。
フェルディナントが手を振り上げたので、ヒューベルト、カスパル、リンハルトの順にハイタッチする。
「ふふ、『先生』だった! 『先生』からの電話だった!」
「くっくっくっ、そのようですな」
「電話番号を教えておいて良かったな」
「良い仕事したね、僕たち」
フェルディナントは幸せそうに笑いながら、ビールジョッキを手にする。フェルディナントは優雅に、ビールを飲む。フェルディナントの喉をビールが通り抜けて、炭酸のしゅわしゅわさと爽快さが残る。達成感がフェルディナントを包み込んでいた。
フェルディナントが卓上に、ビールジョッキを静かに置いた。
「断言する。マヌエラ様の声ではなかった」
「ほう?」
「一歩前進だ。『先生』とマヌエラ様は別人だ!」
「くくく、それはそれで『先生』が何者なのか分からない……ということでもありますが」
「野暮なことを言ってくれるな!」
「くく、まあいいでしょう。ひとまずは焼き肉を肴に祝杯と参りましょう」
「乾杯!」
男子大学生達が、酒の入ったグラスやビールジョッキの端をぶつけ合う。グラス同士が触れ合う音が、高らかに響く。
炭火焼き肉はじゅうじゅうと音を立てながら、焼き上がっていく。焼き肉の焼ける音は、この世の幸福を詰め込んだ音がする。
○
竪琴の節二十七日
拝啓。
きみからの手紙の返事を待たずに、手紙を書いている。
きみと、直接声でお話しできた! ただそれだけだっていうのに、心がわくわくして、うきうきして……とにかくとってもうれしいんだ! 夢でも見ているみたいだ! この手紙の文字が滲んでいないといいんだけれど……。
ご心配なく、涙じゃないよ! なんだか緊張してしまって、さっきから手汗がすごいんだ。電話を掛けるまえから緊張していたけど、電話を掛けたあとも緊張がぶり返してきてしまっている。お腹と胸がぐるぐるしている。
ついに給料日を迎えたから、今日、スマホを契約したんだ。それで、きみに電話を掛けてみた、というわけだ。
緊張した。とびっきり緊張した! きみに突然電話を掛けたわけだから、きみに嫌がられたり、冷たい態度を取られたらどうしようって、ずっと思っていた。きみからしてみたら、わたしからの電話は不審な詐欺の電話みたいだろうから。
なのに、きみときたら! 声に喜びをあふれさせて、わたしと話してくれるんだもの! こっちまでうれしくなってしまうよ!
ああ、わたし、変なしゃべり方をしていなかっただろうか? きみとしゃべっていると思ったら、もう、いっぱいいっぱいになってしまった! 頭が真っ白なまま、しゃべっていたんだ。わたしは何を話していたんだろう。さっぱり覚えていない。
わたしがもし、変なことを言っていたなら笑ってよ。その低い声で、楽しげに笑っていてほしい。
……なんだか暑くてたまらない。エアコンを付けてしまったよ。まだ竪琴の節だというのに! ああ、興奮してしまっている。今日は寝付けなさそうだ。
……エアコンの冷風の力だろうか。ちょっとだけ落ち着いてきたよ。……なんだかふしぎな気持ちだなあ。
十年、きみと文通を続けてきた。わたしは国をまたぐ引っ越しの多い家の子どもだった。……わたしの父は傭兵だったからね。
わたしが引っ越した先の国から、アドラステア帝国まで……手紙が届くまで、二、三週間掛かることだって珍しくはなかったね。だけどきみはいつだって、わたしに手紙を送ってくれた。わたしときみの縁を、きみは切り離さないでいてくれた。きみが、きみとわたしを繋ぎ止めてくれた。それがたまらなくうれしくて、愛おしい。
……ありがとう。こころの底から、ありがとう。―――嗚呼。なんだか、とびっきり幸せな気持ちだ。
……そういえば、一個だけ追加のご報告。
実はまだ紅茶の専門店には行けていない。友人と週末にデパートに行ったんだけど、化粧品を色々と見て回っていたら、紅茶の専門店に寄る時間がなくなってしまったんだ。
ファンデーションだけでも、液体タイプから、粉まで、種類が豊富だった。商品をあちこち見ているだけだというのに、なんだか目が回ってしまったよ。
友人がわたしに似合う化粧品を見立ててくれたんだ。友人の目はたしかだから、きっとわたしに似合っているのだろうと思う。
きみは便箋に移り香を残してくれた。わたしはこれからきみの真似事をする。
敬具
愛を込めて、きみの先生より
ベレスは手紙を書き終えると、買ったばかりの口紅を取り出した。薄紅の綺麗なルージュ。口紅の蓋を取る。唇に華を添えるための、滑らかな流線型が空気に触れる。
ベレスは意を決して、便箋の余白にルージュを奔らせた。かさついた唇のように乾燥した紙の表面のざらつきが、ルージュに触れる。紙に口紅で残した紅い線が引かれた。
ベレスは頬を赤らめながら、便箋を封筒に入れる。封をする。
―――わたし、きみに口付けしたよ。
下心ごと、手紙よ「彼」に届いていけ。
○
竪琴の節二十七日
謹啓。
嬉しい、嬉しいよ! 先生! 貴方と直接言葉を交わせる日が来ようとは! この喜びをどう表現したものか! 嗚呼、私としたことが。何か気の利いた言い回しでもできればいいのだが……まるで思いつかないんだ。
心が浮れ上がって、心につられた私の足が浮き足立っているよ。私が踏み出す一歩一歩が、ふわりふわりとたゆたう。……今日は酒を飲んだ。だが私の足の浮つきは酒のせいだけではないと断言できる。貴方と話をした。たったそれだけの出来事が私の心を震えさせているのさ!
ああ、なんだか今日は私の心音がうるさい! 私の心音を先生に聞かせてみたいほどだよ! きっと先生は驚くだろう。まるで何かの音楽かのように、私の心臓が鳴り響いているのだからね!
思えば、貴方と文通を初めて十年になる。文通を始めてからずっと、私の知る貴方は紙面の海を泳ぐ貴方の文字だけだった。女性らしいやわらかさと、力強い頼もしさを感じる文字。
貴方の日々を、貴方の文字を通して知った。貴方の悩みを、喜びを、幸福を、怒りを……それから悲しみまでもを、貴方の文字に触れて感じた。
私の知る貴方は、文字の集まりだった。だから幼い頃の私は、貴方がどんな見た目をしているのか気にしたことはなかったし、貴方がどんな声で、どんな場所で暮らしているのかも、知りたいと思わないでいれた。
今ではそんな考えは間違いであったと分かる。貴方は人だ。煙や霞みなどではない。
私に手紙を書いてくれる人。声があって、身体がある。私と同じ街で、私と同じように生きている人。
私の脳裏で、貴方の声が反響している。アドラステア帝国の歌劇の劇場で、歌声が反響する様によく似ている。貴方の声が私の脳の奥で、やわらかく鳴り響いているんだ。まるで楽器でも演奏するかのように、ね。
貴方の声は上ずっていたね。……貴方も緊張していたのだろうか。私もだよ。貴方に少しでもかっこ良いと思って欲しくて、貴方と言葉を交わしているのが嬉しくって、もっともっと話していたくて……心と頭を総動員して、貴方に伝える言葉を考えていた。
結果は貴方が聴いていた通りだ。気の利いた言い回しも思いつかず、ただ貴方が掛けてくれた言葉に頷いてばかり。要反省だな。次に貴方と電話するときは歌劇のように華やかな台詞を用意して……いや、貴方と話をするならそんな台本は不要だね。ありのままの私の有様をお届けしよう!
だから貴方も、どうか貴方らしくいて欲しい。ただ静かに、そう望んでならない。
貴方から送られてきた手紙、拝受。
私の郷里に貴方が興味を持ってくれて、なんと喜ばしいことか! 貴方の想像通り、良い場所なんだ!
輝く海も、海を飛び交う海鳥の姿も、白い浜辺に寄せる波も、海沿いに植えられた金の小麦畑も、石畳が敷かれた地面も、住宅街の屋根で眠る猫も、公園を散歩する犬も、都市部のビル群に至るまで……貴方に見せたい場所がたくさんある!
案内するよ、先生。今セイロス市で暮らす者で、私ほどアドラステア帝国エーギル地方を熟知している者はいまい。賑やかな街並みから、静かな海も……エーギル地方のどこだって、私の庭のようなものだ。どこであろうと貴方が望む場所を案内するとも。……気に入ってくれたら嬉しい。
また手紙を送るよ。貴方からの返信を待つ。
草々頓首
貴方の幸福を祈る私より
フェルディナントは香水の瓶を取り出した。手紙に香水を拭きかけるなんて試みも、今回で三回目だ。
フェルディナントは、脳裏で「先生」の声を思い出す。「先生」のやわらかい声は緊張のせいか、上ずっていた。それでも「先生」の声からは穏やかな優しさと、凜とした力強さが感じられた。「先生」の話しぶりからは、フェルディナントへの慈しみが滲んでいた。
「先生」らしい声だ。深い理由はなくとも、そう信じられる。―――この人が、堪らなく愛おしい―――。そう自覚できてしまう。
フェルディナントの手に力が籠もる。香水が多めに手紙へ降りかかる。滑らかな紙の表面に香水の水滴が触れる。香水が紙に飲まれて、染みを作る。甘い香りが強く立ち上った。
フェルディナントはため息を零した。便箋を封筒に入れる。封をする。切手を綺麗に貼り付けた。
……なんだか無性に、「先生」に触れてみたい。そんな下心が手紙に載ってしまった気がして、フェルディナントは手紙から目を逸らした。
○
中間テストの返却が終わると、学校は日常を取り戻す。
黒板の横にある壁には掲示物やカレンダーがピン止めされている。ベレスは壁掛けカレンダーを一枚めくる。カレンダーは暦が花冠の節に変わったことを教えてくれる。
ガルグ=マク大修道院附属高校の中庭には、薔薇が植えられている。初夏の日差しを受けた薔薇が、蕾をゆっくりと膨らませ始めている。薔薇はもうすぐ鮮やかに咲き誇るだろう。
次の大きいテストにあたる期末テストは、来節だ。モラトリアムを迎えた学生は概ね朗らかに日常を過ごしている。授業を受けて、休み時間を友人と過ごしたり、あるいは一人でのんびりと過ごして、昼休憩で昼食を食べる。放課後には部活に打ち込む者もいれば、優雅に帰宅する者もいる。
穏やかな日常を送るのは、学生だけでなく、ベレスたち教員もそうだった。授業の準備に追われながらも、同僚と世間話をして、それから部活の顧問として動き回る。忙しくはあったが、充実感を覚えられる。
ガルグ=マク大修道院附属高校の剣道部は、強豪校として知られる。ベレスは竹刀を振るう学生に交じって、竹刀を振り下ろしていた。学生の練習相手を率先して務めるのも、顧問の仕事の一つだ。
何より、ベレスは剣を振るうのが好きだ。身体を思いっきり動かすと、なんだか頭がすっきりする。
部活の練習が終われば、ようやくベレスは帰路につく。いつの間にか夜が短くなった。部活が終わったくらいの時間なら、まだまだ空は明るい。空は青色から夕暮れの赤色に変わり始めている。
ベレスは軽やかな足取りで、地面の石畳を蹴って歩く。ベレスのステップで、石畳がリズミカルに鳴る。
ベレスは教員寮にたどり着くと、まっさきに郵便受けを開けた。ベレスは思わずほほえむ。「彼」からの手紙が届いている!
ベレスは郵便受けから「彼」からの手紙を取り出し、スキップするような足取りで自室に向かう。
玄関の鍵を開ける。部屋に入って、鍵を閉める。部屋の明りを付けて、部屋に上がる。机の引き出しから鋏を取り出して、封筒の上部数ミリを切る。封筒から便箋を取り出す。
密室に「彼」の香水の強い薫りが広がった。石鹸のように甘くてどこまでも優しい香り。なのに力強い華やかさが感じられる。
ベレスは油断した。息を呑んでしまう。「彼」の気配がベレスを包み込んでくる。甘く、切なく、脳が揺れる。
「彼」の気配がベレスの手首を柔と掴んで、甘えるようにベレスの胸に身体を預ける。ベレスが呼吸をするたびに、ベレスの胸が上がり、それから下がる。ベレスが呼吸をするたびに、ベレスの肺が「彼」の残り香を吸い込む。
無性にベレスの脳がくらくらした。
―――まずい、と思う。
……致命的なほど、「彼」に惚れ込んでいる。自覚してしまったベレスの感情が、ベレスの胸でうねりあげる。
理由付けすら不要なほどに強く強く、「彼」に会いたいと願う。
○
フェルディナントが大学の図書館を後にする頃には、太陽は山際に沈みきっていた。図書館に長居しすぎた原因は、大学の授業の予習復習に追われていたからだ。大学の図書館には本棚だけでなく、自習用の机や椅子も設けられている。それに図書館だから、建物中が静けさに包み込まれている。勉学に打ち込むにはうってつけの場所だ。
大学の期末試験まで、あと一節に迫っていた。例えどんな理由があろうとも、エーデルガルトには負けたくない。試験の成績如きであっても、エーデルガルトに勝ちたい。
感じ取っていないわけではない、エーデルガルトが才能に満ち満ちていると。だからフェルディナントは努力を重ねる。貴族の中の貴族らしく、努力してより高みを目指す。
気づいていないわけではない。どれだけフェルディナントが努力しても、エーデルガルトには届かないのではないかと。―――いや、そんなことがあってたまるものか! フェルディナントは自分を鼓舞して、懸命に努力を重ねる。
だというのに、フェルディナントの胸の片隅を冷たい風が吹き抜けるのだ。
―――虚しいのだと、心が理解している。エーデルガルトにフェルディナントが届く日は来ないのだと、本能が感じ取っている。
フェルディナントは小さく頭を振って、頭の中の雑念を振り払う。
街並みは夜を迎えて、街灯から光が石畳に伸びている。街灯の明りを蛾が取り巻いている。蛾が人工的な明りを浴びながら、飛び交っている。ゆらゆら、ゆらゆら。
道路脇に設置された街灯の明りは、ときどき点滅する。
フェルディナントは街灯の下と、街灯の差さない暗がりを、ちぐはぐに進む。ガルグ=マク大修道院付属大学のキャンパスから、フェルディナントが暮らしている学生寮まで、徒歩で五分ほど離れている。フェルディナントは大通りを選んで、ガルグ=マク大修道院付属大学のキャンパスから南下していく。じきに学生寮が見えてくる。
フェルディナントは学生寮に設置された郵便ポストを開ける。白い封筒―――「先生」からの手紙だ。フェルディナントの気分が少しだけ上向く。フェルディナントは薄く微笑みながら、「先生」から届いた封筒を手に玄関に向かう。
玄関扉を開ける。鍵を回し開ける音が
「かちゃん」
と楽しげに鳴った。家に入って、鍵を閉める。
「がちゃん」
フェルディナントは部屋の明りを付けると、爪先を器用に使って封筒の上部数ミリをちぎる。そして封筒から便箋を取り出す。便箋を広げて、最初にフェルディナントの目に飛び込んだのは、余白に勢いよく引かれた薄紅色。薄紅色が紙へまっすぐに引かれ、一本の線を成している。
フェルディナントは手紙を手に、ベッドへ倒れ込む。手紙を天井から差し込むLEDライトにかざす。のんびりと先生から送られてきた手紙の文面を読み込む。
手紙に刻まれた日付を見て、気づく。フェルディナントが手紙を書いた日と、同じ日に書かれた手紙だ。……つまりはフェルディナントと「先生」が直接電話をした日に書かれた手紙だ。フェルディナントの胸に、温かい感情が溢れてくる。
なんて気が合うのだろう! 直接電話して、言葉を交わした……ただそれだけの出来事で、心に喜びを溢れさせているなんて! 同じ日に書かれた手紙だ。きっと今頃、「先生」のもとにはフェルディナントの喜びが綴られた手紙が届いているに違いない。
手紙の文面には、余白に引かれた薄紅色が何なのか……その答えは書かれていない。
「謎かけかね? 『先生』?」
―――良かろう、受けて立とう!
フェルディナントはベッドから起き上がり、ベッドに座りながら紙面を睨み付けた。
フェルディナントは紙面をまっすぐに見据えながら、思考を巡らせる。フェルディナントは元より勝負事が好きな性分だ。愛しい「先生」から仕掛けられた謎かけならば、尚のことやる気が出るというものだ。
フェルディナントは首を傾げながら、便箋を検分する。この薄紅色は、何で書かれているのだろう?
赤ペン? いや、インクよりももっと硬い何かを押しつけたように見える。絵の具? にしてはざらついている。クレヨン? その割にはやけに潤いを感じる。
ある程度固さがありつつも、潤いがある薄紅色……。
フェルディナントの目に、「先生」からの手紙の結びの言葉が映り込む。
「愛を込めて」
……「愛を込めて」? こんなに情熱的な結びの言葉が書かれるなんて、初めてのことだ。フェルディナントは思わず、柔らかく微笑んだ。便箋に引かれた薄紅色は、「先生」の愛だとでも言うのだろうか。
フェルディナントは愛にまつわるあれこれに思いを馳せる。
気づく。
―――口紅?
フェルディナントの背筋がぞくり、と粟立つ。
―――口付けされた? 私に?
フェルディナントの心臓が高らかに鳴り響き始める。痛いほどに心臓が蠢き、フェルディナントの体内に血を巡らせる。フェルディナントの顔も、耳も、やけに熱くなっていく。部屋の明りなんていつも通りの明るさのはずなのに、やけに眩しく見える。息を呑む。フェルディナントの世界から音が消える。
フェルディナントは耳まで真っ赤になりながら、指を唇に当てた。指を唇になぞらせる。ぞわ、と肌感覚が生まれる。
今は初夏だ。油断していた。フェルディナントの唇は、少し乾燥してかさついている。
フェルディナントは目を閉じた。意識して、ゆっくりと深呼吸する。フェルディナントの世界に音が戻ってくる。最初に戻ってくる音は、フェルディナントの胸で心臓が叫び上げる音。
フェルディナントの心音がうるさい。フェルディナントの体中に血を送るため、心臓が力一杯に収縮している。
フェルディナントの胸に衝動が溢れる。
―――知りたい! 「先生」のことを、もっと知りたい……!
……「先生」、貴方はどんな姿をしているんだ?
手紙に載せてくれた貴方の愛は―――口紅は、どれほど貴方に似合うのだろうか?
○
花冠の節は本来、雨が多い。だがここ数日はセイロス市の上空が高気圧に覆われているようで、空はからっと晴れ渡っていた。初夏らしい強い日差しが大地に照りつけている。
セイロス市一帯は、オグマ山脈の盆地にあたる。盆地の夏は暑い。花冠の節にもかかわらず、ここ数日のセイロス市は夏日が続いていた。
ガルグ=マク大修道院付属大学の教室では早くもエアコンが稼働し始めていた。私立大学最大の強みは、エアコンを稼働させるまでのフットワークが軽いことだ。
法学部棟の空き教室に、女子大学生およびその従者が集まっていた。空き教室の席にエーデルガルト、ドロテア、ベルナデッタ、ペトラが集まって、腰掛けていた。ヒューベルトはエーデルガルトの側に立っている。
ヒューベルトが人数分の茶を煎れる。
「毎日暑くて嫌になっちゃいますねえ」
「あ、あのっ……あたし、帰ってもいいですか……?」
「だめよ、ベルちゃん。せっかくの女子会なんだから!」
「じょ、女子会!?」
「ベルナデッタ、自覚ない、でしたか」
「ひやぁあ! あ、あたしが女子会なんて華やかな催しに出たら、死んじゃいますよおお!」
「死なないわよ、ベルナデッタ……」
エーデルガルトは呆れながら、ヒューベルトが淹れた紅茶を口にした。
ここ数日、夏日が続いている。言わずもがな、ガルグ=マク大修道院付属大学の中庭もまた熱波が包み込んでいる。それならば空き教室で茶会をしてはどうか、と提案したのはエーデルガルトだった。エーデルガルトは激務の合間に、友人達と過ごす時間を大切にしているし、ドロテア達もまた、エーデルガルトと過ごす時間を楽しみにしているのだ。
「皆とは一回生のときこそ会う機会が多かったけれど……進級してしまうと、どうしても会う機会が減ってしまうわね」
「一回生、基礎授業、皆、受講します。二回生以降、皆、選択する授業、異なります」
「そうですねえ。エーデルちゃんは、最近どうなの?」
「どうって……」
「惹かれているひととか!」
「……私は色恋とは無縁よ。ドロテアはどうなの?」
「私はそうねえ……。実は今、私は恋のキューピッド役をしているの」
ドロテアが可憐にウインクすると、エーデルガルトが目を丸くした。
「他人の恋路の応援なんて、素敵ね。どんな相手の恋路を応援しているの?」
「私の恩師―――ミッテルフランク歌劇団のマヌエラ先輩が、今セイロス市で教師として働いているの。恋物語の主役は、このマヌエラ先輩の同僚さん! ……この同僚さんの恋の相手がすごいの! まるで歌劇のようなのよ!」
「わあ! ドロテアさんが『歌劇のよう』って言うなんて、よっぽどすごいんだろうね!」
「そうなのよ、ベルちゃん! なんとね……同僚さんが十年来、匿名で文通している相手を見初めたの!」
ヒューベルトが黙ったまま、視線をドロテアに向けた。
「それは歌劇的な恋ね、ドロテア。見初めるきっかけがあったの?」
「同僚さんが街でとある男を見かけたの。同僚さんは一目でその男に、恋をしたの。―――後々、私とマヌエラ先輩が調べて分かったことなのだけれど……その男こそ、同僚さんの文通相手だったの」
「ええっ! 文通相手と偶然、遭ったってこと? すごいね!」
「運命的でしょう?」
ペトラが黙ったまま、ヒューベルトに視線を向けた。ヒューベルトは黙って頷いた。
「そんな物語のような話があるなんて……驚きね」
「ふふ、そう思うでしょ。エーデルちゃん。……でもこのお話は、エーデルちゃんが思うよりも、エーデルちゃんの身近に転がっているのよ。……同僚さんが好きになった男は、誰だと思う?」
「あら、私が知っている男なの?」
「その通り!」
エーデルガルトがしばし黙り込んで、思案する。
「……分からないわ」
エーデルガルトがヒューベルトを見る。
「ヒューベルト、貴方は分かる?」
ヒューベルトは面白さを噛み締めるように、笑った。
「くっくっくっ……無論です。その男本人から恋路の相談を受けておりましたからな」
「貴方に相談って……まさか、フェルディナント?」
「ご名答です、エーデルガルト様」
教室がざわついた。ドロテアが目を大きく見開いたあと、ぱちぱちと瞬きをした。
「ヒューくんとペトラちゃんは、フェルくんから恋愛相談を受けていたのね。そっちでは何があったのか教えてちょうだい?」
「きっかけは孤月の節、フェルディナント殿の文通相手―――通称『先生』―――が初恋したと、手紙にしたためてきたのです」
「初恋の相手、博物館で見かけた男、です」
「この一報を受けて、フェルディナント殿は『先生』への恋心を自覚した……というわけです」
「うえぇえ! じゃあ……その博物館で見かけた男って、フェルディナントさん本人ってことになるじゃないですかああっ!」
「くくっ……くははははは!」
ヒューベルトが勢いよく笑い出す。
「とんだ笑劇ですな。徹頭徹尾、両思いであったとは!」
ドロテアがスマホを取り出す。ドロテアがいたずらを思いついた子どものように、微笑んだ。
「ねえ、ヒューくん。私は先生から連絡先を教えてもらっているの」
「ほう、奇遇ですな。私もフェルディナント殿の連絡先を存じております」
「恋が実る瞬間を見てみたくない?」
「見物ですな。良いでしょう」
ドロテアはベレスに、ヒューベルトはフェルディナントに電話を掛け始める。
「……ひょっとしたら、先生は授業中かもしれませんねえ。繋がらないわ」
「……ああ、こちらは繋がりました。もしもし、フェルディナント殿……ええ、はい。……エーギル地方に? ……土産物はあとで結構。結論から申し上げます。『先生』が見つかりました」
ヒューベルトが耳に当てているスマホから、フェルディナントの
「本当かね!?」
という力強い叫び声が音漏れした。ヒューベルトが煩わしげに眉を寄せる。
ドロテアがぱっと顔を輝かせた。
「繋がった! もしもし、先生! 急に電話してごめんなさい。今は大丈夫ですか? ……良かった!」
「ドロテア殿、スピーカーモードに」
ヒューベルトがスマホをスピーカーモードにして、スマホを机の上に置いた。ドロテアもそれに続く。机の上にスマホが二台並べて置かれる。
『もしもし、ドロテア? 声が遠くなったけど、どうしたの?』
『ヒューベルト、状況はどうなって……待て、『先生』? ……なぜ『先生』の声が聞こえて……』
状況が飲み込めなかったのだろう。ベレスとフェルディナントの電話越しの声が途切れる。ヒューベルトが愉快そうに、口角を上げた。
「結論から申しましょう。お二人は両思いのようですな」
『ええっ。そうだったの』
『待ちたまえ、ヒューベルト! どういう状況だね!?』
「くくく……詳しい説明は後で。なに、お二人の顔合わせの場を設けようと思ったのですよ。いつが空いていますかな」
間髪を開けず、フェルディナントの声が響く。
『いつでもいい。どんな予定もこじ開けてみせる!』
「そういう貴殿は、エーギル地方に向かっているのでしょう」
『ああ、そうだった! 今から引き返す! 夕方五時くらいにはセイロス市に入れるはずだ!』
「見上げたフットワークですな」
『当然だ!』
ドロテアがベレスと繋がっているスマホに話しかける。
「先生はどうですか?」
『ええと……放課後に部活の顧問がある。夕方六時頃に学校を出られるはずだ』
ヒューベルトが二台のスマホを楽しげに見下ろした。
「では今晩、セイロス市駅集合でいかがですか」
フェルディナントの喜びに満ちた声が、
『行く、必ず行く!』
と高らかに宣言する。ベレスが少し緊張した声で
『なるべく急ぐよ!』
と誓いを立てた。ヒューベルトが
「では切りますよ」
と短く告げて、スマホの通話を切る。教室に静寂が戻る。それから誰からともなく笑い出してしまった。
初夏の空は、美しく晴れ渡っていた。
○
セイロス市駅は賑やかだ。セイロス市の交通の要所であり、セイロス市きっての繁華街と繋がっている。セイロス市駅前にはビル群が並び、ビル群の足下にバスターミナルがある。
夜のセイロス市駅は旅路を急ぐ観光客や、仕事終わりのサラリーマン、学校帰りの学生、買い物に立ち寄った主婦……ともかく多種多様な人々が闊歩する。これだけ多くの人が行き交う場所なのに、肩をぶつけ合ったり、転んだりする人は殆どいないのが芸術的だ。
セイロス市駅の側面はガラス張りになっていて、駅の内部から外の様子が見える。セイロス市駅前のビル群には、人工の明りが灯っている。白、金、碧、赤……イルミネーションのように、夜景が輝いている。
セイロス市駅の二階に、小さな時計塔がある。セイロス市駅は広い。この時計塔は良い目印になるから、待ち合わせスポットとして有名である。
今日の時計塔前は、いつも以上に人が多かった。団体で待ち合わせしている者がいるからだ。時計塔前に黒鷲の学級の生徒が集まっていた。
フェルディナントの周囲に黒鷲の学級の男子大学生が集まっていた。
リンハルトがあくびを浮かべながら、フェルディナントを眺める。フェルディナントは緊張で若干顔を強ばらせていた。
「フェルディナント、大丈夫なの?」
「手汗が尋常でない」
「なら大丈夫だね」
「……そうだな」
フェルディナントは落ち着きなく、肩から掛かる鞄のショルダーベルトの角度を整えた。フェルディナントの傍らには、大きめのスーツケースが置かれている。
カスパルが
「フェルディナント、実家から呼び出されちまったの?」
と問いかけると、フェルディナントは
「自分から向かったんだ」
と答える。
「なんでまた」
「私の家の床が武具で埋まってきたからね。少し実家に置いてこようかと思ったんだ」
「実家を倉庫代わりにするの、やめてやれよ」
「多少なら良かろう? 広いのだから」
「本当に多少か?」
カスパルは困惑しながら、リンハルトと目を合わせた。
以前にもフェルディナントが実家に物を持ち込んだという話を聴いた気がする。たしかそのときも、フェルディナントの父であるエーギル公に思いを馳せた。大変だな、エーギル公。
ドロテアのスマホから着信音が流れる。ドロテアがスマホを手に取った。
「はい、もしもし。……先生、到着しましたか? ……マヌエラ先輩と一緒なんですね! ……はい、……はい! そうです、二階に小さな時計塔があって……わかりました。それじゃあ、また後で!」
ドロテアがスマホの通話を切る。ドロテアが黒鷲の学級の生徒を見回す。
「セイロス市駅の一階に到着したって!」
黒鷲の学級の生徒をざわめきが包み込む。
「いよいよ、です!」
「そのようですな」
「どうする? 円陣でも組んでおくか?」
「こんなところで円陣だなんて、邪魔になるわよ。カスパル」
「じゃあどうやって気合いを入れるんだよ!」
「小さく纏まって円陣を組めばいいんじゃないの。円陣を組む必要があるのかは、よく分からないけれど」
「は、早く集まらないと、『先生』が来ちゃいますよぉ!」
ベルナデッタの叫びに背中を押されるように、黒鷲の学級の生徒が一カ所に集まる。互いの肩を組む。
「往来の邪魔になるわ。短く済ませるわよ」
エーデルガルトが声を掛けながら、黒鷲の学級の生徒達の顔を見回した。
「ファイト!」
「応!」
試合に向かう運動部のように、気合いを入れる。円陣が離れていく。フェルディナントは手櫛で髪を整える。フェルディナントの青ざめていた顔に、血色が少しずつ戻ってきていた。
フェルディナントはセイロス市駅に設置されたエスカレーターを眺める。セイロス市駅の一階から二階の時計塔を目指すなら、きっとエスカレーターに乗って上がってくるはずだ。
セイロス市駅は人が多い。エスカレーターに乗る人数も、言わずもがな。フェルディナントはじっとエスカレーターに乗って流れていく人波を見据える。
ふいにドロテアがエスカレーターに向かって、手を振り上げた。ドロテアが手を振る。
「マヌエラ先輩! 先生! こっちです!」
エスカレーターに乗っていた二人組がドロテアに気づく。二人組がドロテアに手を振り返す。
二人組の片方はマヌエラだ。ならば残るもう一人が「先生」だ。フェルディナントは「先生」を真っ直ぐに見る。フェルディナントは息を呑んで、恋をする。
やわらかさの奥に、凜とした力強さを感じる立ち振る舞い。鍛えているからだろうか、背筋がぴんと伸びている。深海のような色味のやわらかい髪が肩に掛かっている。どこかミステリアスで捉えどころがないのに、強く親しみを感じさせるその表情。穏やかそうな目の奥に、力強い意志が星のように光っている。
―――嗚呼、このひとが「先生」か! ……このひとが、このひとこそが!
「先生」がフェルディナントを見付ける。渚の色をした瞳が輝く。その光が眩しくて、フェルディナントは笑い出してしまう。「先生」がフェルディナントに駆け寄るから、フェルディナントも先生に向かって駆け出した。
セイロス市駅の時計塔前で、フェルディナントとベレスは向き合った。近づいてみて気がつく。ベレスの唇には、口紅が薄く塗られていた。ベレスの唇を潤いを帯びた薄紅色が飾っている。
ベレスがフェルディナントの顔を直視して、頬を赤く染めた。
「その口紅は私への手紙に載せてくれたものだろう?」
「正解だ」
「……貴方によく似合っている」
「ふふふ、うれしいな。きみにそう言ってほしくて、この口紅を買ったんだ」
「おや、そうだったか!」
ベレスが幸せを溢れさせて、笑みを零す。そんなベレスの仕草一つすら愛おしく思えて、フェルディナントは頬を赤く染めた。顔が熱い。
ベレスがフェルディナントの頬に手を伸ばした。ベレスの、女性の割に節ばった手が、フェルディナントの熱くなった頬を撫で上げる。フェルディナントの肌が、ベレスの手がどう動くのか感じ取る。ベレスに触れられた場所が、どこもかしこも熱くて熱くてたまらなくなる。
フェルディナントの胸で心臓が跳ねて、鼓動が鳴り響く。静かに響く鼓動の音は、潮騒に似ている。
「きみから香水の薫りがする」
「……不快かね?」
「逆だ。好きな香り―――いや、好きになった香りだ」
ベレスの手がフェルディナントの頬から、髪に移る。ベレスの手が、フェルディナントの伸ばしかけた髪を掬う。
フェルディナントはベレスの瞳をまっすぐ見つめた。灘の波間のように、ベレスの瞳が輝いている。
フェルディナントはベレスに微笑みかけた。ベレスが幸せそうに笑い返す。
「我が名はフェルディナント=フォン=エーギル。貴方は?」
「ベレス=アイスナー。きみの先生だ」
「ベレス……そうか、貴方はベレスというのか」
「きみはフェルディナントといったんだね」
フェルディナントはベレスの髪に指先を伸ばす。ベレスの髪はやわらかい。
フェルディナントの背後から、ヒューベルトが静かに話しかける。
「……そろそろよろしいですかな」
フェルディナントとベレスは慌てて時計塔の方角を見る。時計塔の足下には黒鷲の学級の生徒と、マヌエラが集まっている。各々、あくびを浮かべたり、面白がるように笑っていたり、慈しむように眺めていたり……反応は様々だ。だが全員、フェルディナントとベレスを見ている。
エーデルガルトがその場に集まる面々の顔を見回したあと、凜とした声で、
「この人数でたむろするのは邪魔になるわ。移動しましょう」
と提案する。異論を唱える者はいない。異論を唱える必要もない。
「どこ、行く、しますか?」
「リンハルト! 団体が急に行ける店に心当たりねえ?」
「いつもの焼き肉屋は?」
「焼き肉かあ。髪に煙の匂いが付いちゃいそうですねえ」
「あら、ドロテア。たまにはいいじゃない。あたくしは好きよ、焼き肉」
「マヌエラ先輩がそう言うなら、行きましょうか。ベルちゃんは焼き肉、好き?」
「ベルですか? 実はあんまり行ったことがなくて……」
「ベルナデッタも? 私もよ」
「うえぇえ! エーデルガルトさんも!」
「ふふっ、私と一緒ね。ベルナデッタ」
「エーデルガルト様が望まぬなら、別の店を探しますが」
「大丈夫よ、ヒューベルト。……でも念のため、予約を頼めるかしら」
「ええ、元よりそのつもりです」
ヒューベルトがスマホを取り出し、焼き肉屋に電話を掛ける。ヒューベルトが短く電話口で応答して、電話を切る。
ヒューベルトが
「予約が取れましたよ」
と短く声かけした。ヒューベルトが先導して、団体が賑やかに歩き出す。
フェルディナントはベレスと視線を合わせた。
「私たちも行こうか、先生」
「そうだね」
フェルディナントとベレスは笑い合いながら、団体の最後尾に続く。
「フェルディナント、きみはステキなご友人に恵まれているみたいだ」
「そうだとも。貴方にも紹介するよ、先生」
「それはうれしいな」
「騒々しい者ばかりだが、きっと貴方も気に入るさ」
「間違いないね。紹介してもらう前だというのに、もう気に入っているくらいだ」
「それは良かった」
ベレスがきりっと眉を引き締めて、フェルディナントと手を絡めた。フェルディナントは顔を赤く染めながら、ベレスの手を握り返す。フェルディナントとベレスの触れた場所から、互いの体温を感じる。
「……嬉しいよ、先生。―――ずっと、貴方に触れてみたかったんだ」
「わたしもだ」
「貴方は温かいな」
「きみもね」
「……ふふ、なんだか緊張してしまうよ!」
「手を握るだけで緊張されちゃ困る。まだまだ、こんなものじゃないぞ」
「ほう?」
「きみと行きたい場所がたくさんあるんだ。まだ紅茶の専門店を見られていないし、きみから直接、武具の解説も聞いてみたいし……」
「気が合うようだね、先生。私も貴方と行ってみたい場所がある」
「どこだろう」
「エーギル地方。……本当に見所の多い場所なんだ」
「きみがお勧めする場所が見たい」
「良かろう!」
ベレスはフェルディナントと絡める指の力を強めた。フェルディナントが力強く手を握り返してくれる。
「デートしようよ! フェルディナント」
「喜んで、先生!」
手を繋いだフェルディナントとベレスの姿が、雑踏に混ざっていく。二人の足取りは軽やかで、よどみない。
その後の二人の日々については語らない。
実った恋路を物語る必要はないだろうから。
この作品は、ファイアーエムブレム風花雪月の二次創作です。
本書は非公式ファンブックです。 原作者様とは一切関係ございません。
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手紙は踊る
2022年12月18日 第1刷
2025年1月30日 第2刷
著者、発行者 重力加速度
サークル ふくら雀
pixiv https://www.pixiv.net/users/103400424
既刊通販 https://9-8.booth.pm/
告知用X https://x.com/kokutiyoudaze
印刷所 大阪印刷株式会社
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