「贈りもの」
「よくそのような苦いものが飲めるな」
フェルディナントの声は昼どきの賑やかな食堂内でもよく通り、テフを湛えるカップの表面に波紋を呼んだ。実際には彼の声がテフを揺らしたわけではなく、ヒューベルト自身のため息が手元に伝わったからに過ぎない。だが、ゆったりとした午後に横やりを入れてくるフェルディナントの疎ましさが、テフの面を荒らしているように思えた。
「以前、一度だけ口にしたことがあったが、そのときには泥水としか思えず――」
「無理に飲む必要はありませんよ」
ばっさりと会話を打ち切ってやると、フェルディナントは眉根を寄せて口を閉じた。食事の雰囲気を壊されたことに気を悪くしているのだろう。彼の皿の上で切り分けられた青魚が酷く色あせて見える。今際の際の吐息が聞こえてきそうな魚から目を逸らしたヒューベルトは、これでようやく静かに食事ができると安堵した。
周囲の学生たちの席から談笑が聞こえてくる。昼休み後の講習のこと、先節に行われた鷲獅子戦の感想、ガルグ=マクにまつわる怪異の噂などなど。尽きることのない話題が彼らの仲の良さを物語っていた。
一方、フェルディナントとヒューベルトの間には冷たい沈黙が続いていた。このまま食事の時間が終われば、ようやくこの場から解放される。ヒューベルトが小さく息を吐いたとき、フェルディナントが手を止めてこちらを見た。
「何か?」
「先ほどの表現は良くなかった」
「は?」
予想外の言葉にヒューベルトの手も止まった。
「テフの話だ。いくら苦手であっても泥水のようだ、などと口にするのは言い過ぎであった。好物を悪しざまに言われれば気を悪くするのも当然だ」
ヒューベルトは、フェルディナントのこういう部分が好きになれない。彼は傷のない清廉な人間でいたいのだろう。理想の貴族であるためには煌々とした正しさを纏わなければならない。それが彼の誇りなのだろうが、表層を取り繕う様が見るに耐えないのだ。
「お気になさらず。貴殿の言動には慣れておりますので」
ここまで言ってしまえば再び話しかけようなどと思うまい。だが、フェルディナントはヒューベルトの思惑を裏切って言葉を続けた。
「君の好きなものは何かね?」
「……は?」
「だから、君は何を好むのかと聞いている。テフの他にだ。たとえば、好きな色とか季節とか時間帯とか……何でもいい」
まったく理解できない。あの返答でなぜ、このような会話の流れになるのか。
「聞いてどうするのですか」
「……どうもしない。しないが、君のことをまるで知らないよりは良いかと思ったのだ。もちろん、私のことも教えよう」
「はあ……言いたいことは分かりました。ですが、私には貴殿に教えたいことはありませんし、貴殿のことを知りたいとも思いません。では、食事が終わりましたので失礼します」
わずかに残ったテフを喉に流し込んで席を立つとフェルディナントの視線が追ってくるのが分かったが、ヒューベルトは一瞥もせずに食堂を出た。
顔を合わせれば、無意味な議論と嫌味の応酬で散々に時を無駄にしてきただろうに、今さら何を知ろうというのか。
◇◇◇
「お客様、そちらは南方の鉱山で採掘された柘榴石です。希少な鉱石でしたが戦争が終結してからは流通が活発になり、大変お求めやすくなっておりますよ」
店主の声が自分に向けられたのだと思わなかったヒューベルトは、数秒後にようやく目線を上げた。
「大勢が参加する宴の中でも、決して埋もれることのない存在感を放つでしょう」
「なるほど、確かに美しい光沢ですな」
「ええ、そうでしょうとも。とある名工の手によって細工された一品となっております。そして、こちらの蒼玉もご覧ください。色、彩度、透明度、いずれも最高級のものでございますが、本日は特別価格でご用意しております」
「なるほど……」
「普段使いでも、特別な日でも場所を選ばず――」
まだ続くのか、と内心うんざりしつつもヒューベルトは曖昧に頷いてみせた。店内は多くの客が訪れているにもかかわらず、店主はヒューベルトのそばから離れない。面倒なことになった。彼が熱を入れて語っている石がこの店の看板商品のひとつだったと気付いたのは、たった今だ。蒼玉に付いている値札がとびきりの価値を示している。
「おーい、主! 勘定をしてくれ」
「ありがとうございます! すぐにお包みします」
購入を決めた他の客に呼ばれ、店主が勘定台へ戻って行く。先ほどまで貼りついていた彼がいなくなっただけで、体にまとわりついた熱が散っていくような気になった。
ヒューベルトは改めて店内を見回した。終戦直後は食糧や布製品が不足していたが、現在では流通が安定しており、嗜好品や装飾品などが出回る余裕ができている。アンヴァルから離れたこの地で安定を目にできたのは良い収穫だった。
「ヒューベルト様。あと一時間ほどで出立準備が整います」
「分かりました。後ほど戻ります」
部下の報告に頷いたヒューベルトは身の回り品を確認した。戦後の状況確認としての視察は今日が最終日だ。不備があってはならない。皇帝が好むベルガモットティーの茶葉は初日に購入し、流通品の性能を評価するための試品も十分にそろえた。この店に滞在する時間は、あとわずかだ。そのとき、夫婦らしき二人組の声が聞こえてきた。
「ほら、これが4種のスパイスティーだよ。なかなか手に入らない茶葉なんだ」
「まあ……! 今日は運が良かったですね、あなた」
目的の茶葉を見つけた彼らは隣で喜び合っている。二人の会話に釣られて先ほど見て回った茶葉の陳列棚をもう一度眺めた。多彩な茶葉で埋められている一角は、店内の土産物の中でもかなり人気のようで、絶えず客が集まってくる。だが、この店には東方の着香茶は置いていないようだ。紅茶を愛するあの男のことだ。おそらく他にも愛飲しているものがあるだろうに、ヒューベルトはそれを知らない。
夫妻の後ろを通過したとき、商品の髪紐を試着した女性が姿見の前でくるりと一回転した。艶のある黒髪が優雅に揺れて、彼女の魅力を引き立てている。だがヒューベルトの頭は別のことを考えていた。明るい蜜色の髪に映える髪紐はあるだろうか、公式の場でも使えそうなものはどれだろうかと。
ヒューベルトの足は、自然と最初に見ていた柘榴石の前に戻った。袖口を留める装飾品として加工されたその石は、燃えるような赤色を放っている。不屈を思わせる硬度を持つ宝石だと聞いた。華やかな装いを好む者には細やか過ぎる煌めきかもしれないが、身に付けている姿を思い浮かべると、とてもよく似合っているように思えた。しかし、似合っているからといって本人が好むとは限らない。彼の趣味嗜好に関係する知識といえば、独特の風味の紅茶を好物とし、武器の蒐集をしていること。あとは、馬と仲が良いことくらいか。こんなことならば、彼の嗜好を知る機会を放棄しなければよかった。
『私は貴殿に教えたいことはありませんし、貴殿のことを知りたいとも思いません』
学生時代のできごとを掘り起こしたところで、出てくるのは温度のないやり取りばかりだ。ヒューベルトは柘榴石を手に取った。情熱を帯びた赤色が、彼の自信と気概にあふれた瞳を想起させる。これを受け取ったとき、フェルディナントはどんな反応をするだろうか。もし、彼がすぐそばにいたなら気に入るかどうかを聞けるのに。ヒューベルトは今、無性にフェルディナントの声が聞きたくなった。
「お決まりでしょうか?」
店主の声にはっとする。手の中で何度も泳がせていた柘榴石の装飾品は、ヒューベルトの体温を吸ってぬるくなっていた。
「ええ、これを」
商品を手渡すと店主はにっこりと微笑んだ。
「ありがとうございます。恋び……いえ、特別な方への贈り物でしょうか」
「…………」
言葉が出なかった。フェルディナントのことを、そんな風に考えたことがなかったからだ。黙り込むヒューベルトをよそに、店主は受け取った石を小箱に入れて包装し始めた。贈り物用の長い紐が、見る間に蝶々結びへと姿を変えて包装紙を飾っていく。少しずつ自分の心が形にされていくようで居たたまれない。店主の手元から目を逸らすと、勘定台の脇にある鏡が視界に入った。黒ずくめの男がこちらを見ている。陰鬱な瞳は今日に限って晴天のような光を集めており、わずかに開いた唇が惚けた表情を作り上げていた。
なんて顔をしているのだ。これでは、まるで、ほんとうに――
店主の言う通りではないか。
包装された小箱を受け取ったヒューベルトは、宮城までの道のりを思った。荒れてもいない比較的平坦な地だ。ゆっくり移動しても五日もかからず戻れるだろう。
「しかし五日は……長いですな」
見上げた空は薄雲が伸びて、アンヴァルまで繋がっているように思えた。