「大切なあなたへ」
1.
ヒルダはカリード王、いや、クロードと共に王都で最も大きい市場を歩いていた。どんな凄腕の護衛といるときよりもヒルダが隣にいると安心するのだという。
「地上で一緒なら絶対に大丈夫、って気がするんだよな」
クロードはそう呟くと首を傾げた。雑踏の中で離れ離れにならないよう、腰に手を回されている。学生時代だったら三つ編みがヒルダの頭に触れただろう。だが共に装いは改まり、あの頃には全く想像しなかった未来に生きている。
「うーん、私にもホルスト兄さんやバル兄がいるから、そういう気持ちは分からなくもないんだけど……やっぱりちょっと大袈裟じゃない?」
王都でこっそりとそぞろ歩きをしよう、と提案してきたのはクロードだが、ヒルダも市場に用事があった。近いうちに家族やマリアンヌ宛に手紙を出す。手紙と言っても封書を一通、というわけではない。いつもこまごまとした品をいくつか見繕って一緒に送っている。今回はその品がなかなか定まらないのだ。
「マリアンヌだって俺の意見に同意してくれるよ」
「そう、マリアンヌちゃんなのよ!」
ヒルダはマリアンヌに贈る品を探すため、市場に来ていた。貴金属、美しい布、香辛料、山のように積まれた様々な商品を扱う市場はそこに来る人々の腹を満たすため屋台もたくさん出ている。
「ブリザーで凍らせながら運ぶのは駄目だったって?」
そう言って、クロードは串に刺した果物を売る屋台を指差した。そこには香り高く、色鮮やかで信じられないほど甘い果物が並んでいる。マリアンヌもローレンツもこちらで果物を食べ、その美味しさに感心していた。
「解凍したら萎びちゃったみたい」
マリアンヌたちは王都ではなくフォドラに戻る道中、かなり西にあった市場で見かけた芒果(マンゴー)を買い求めたが上手くいかなかったらしい。
「まあ難しいよなあ……。しかし無事に運べたとして、だ。あいつらフォドラでどう食べるつもりだったのかな」
フォドラでは果汁が滴る果物を素手で食べない。だからクロードが切れ目を入れて、ひっくり返した芒果(マンゴー)を素手で食べるところを見たマリアンヌとローレンツは最初、言葉を失っていた。彼らも行軍中は立ったまま、干し肉を手で裂いてその場で齧っていたというのに。
「切り分けてからお皿に盛り付けて食べるんじゃない?」
「つまんないな、フォドラでもみんな手をべたべたにして食べればいいのに」
結局、ローレンツたちが折れて素手で芒果(マンゴー)を食べたので───クロードは本当に嬉しそうにしていた。自分の文化を受け入れてもらえた、と感じたからだろう。
どんな工夫をすれば美味しさを保ったまま、生の芒果(マンゴー)をフォドラまで運べるのかヒルダには想像もつかない。結局、様々な店で試食に試食を重ねた結果、マリアンヌたちのために薄切りの干し芒果(マンゴー)を買った。丁寧に包んで迅速に運んでもらえば、味と香りを保ったままエドギアで仲睦まじく過ごす2人の元へ届くだろう。
執務に行き詰まったローレンツは干した芒果(マンゴー)を刻んだもの、を茶葉に混ぜてみた。芒果(マンゴー)はフォドラでは育たないので、現地に行って食べるか干したものを食べるしかない。
先日、ローレンツたちに宛ててパルミラから荷物が届いた。包みの中には手紙の他にこまごまとした物が沢山入っていて───送り主であるヒルダが日頃、何に囲まれて過ごしているのかよく分かる。その中に干した芒果(マンゴー)が入っていた。
「香りも味も素晴らしいです」
「僕も良い味になったと思う。まだ改良の余地はあるが」
舅であるエドマンド辺境伯がマリアンヌに持たせた白磁の茶器はもう空になっている。どうやら本当に気に入ったようだ。休憩時のささやかな楽しみが成功すると気分が良い。
ローレンツは脳裏に地図を浮かべた。フォドラとパルミラはオグマ山脈を境に分たれていて、その東西では随分と違いがある。文化も自然も異なるので当然、口にする物も違う。ヒルダがフォドラに残していった者たちは皆、彼女を気にかけていた。事あるごとに今頃何をしているのか、とつい考えてしまう。
「ヒルダさんは今頃、瑞々しい物を手で食べておいででしょうね」
「違いない。パルミラは果物が甘くて美味しいところだった」
パルミラのことを伝聞でしか知らない者たちは悪いことばかり想像するが、何度か訪れたことのあるローレンツたちはそうではない。だから実際に行くこと、見ること、会うことには大きな意味がある。知ってしまえば無知だった頃には戻れない。
「向こうに行ってクロードさんがこちらの甘い物が苦手、と仰っていた理由が初めて正確に理解できましたね」
「確かに。こちらの果物も菓子も向こうに比べれば全く甘くない」
皮を剥いただけの果物ですら驚くほど甘かった。そんな物を食べる人々が好む菓子は───頭痛がするような、衝撃的な甘さだった。ローレンツはテフがあまり好きではないが、あれならテフくらい苦い飲み物が合うだろう。
「お代わりをいただいてもよろしいですか?」
「勿論だとも。茶葉を新しいものに替えるので待ってくれたまえ」
窓の外に目をやれば真っ青な空に真っ白で山のような、雷をよぶ雲が浮かんでいる。パルミラほどではないがこちらも夏を迎えて暑くなってきた。次は茶葉に薄荷を混ぜて爽やかにするのも良いかもしれない。
「ヒルダさんたちを早くこちらにお招きしたいですね」
ローレンツが茶葉を匙で計っているとマリアンヌがそう話しかけてきた。彼女も雲の形がパルミラで見た、一際大きな雷雲に似ていると思ったのだろう。
ヒルダ単身の里帰りなら既に何度かあったのだ。だがパルミラ王夫妻のフォドラ訪問、という形になるとなかなか難しい。ベレトから何とか手筈を整えて欲しいと言われ、ローレンツは毎日頭を悩ませていた。
「このフォドラで一国の王をおまけ扱い出来るのはマリアンヌさんだけだな!さすが僕の妻だ!」
マリアンヌはそんなつもりは、と言って赤面している。だがこの訪問を実現させればクロードに序列というものを教えてやれるかもしれない。
2.
空で繋がるところの全て、を欲した先祖のおかげでクロード、いや、カリード王が治めている国は広大だ。砂漠も大瀑布も広大な森も豊かな農地もある。だが帰国して以来ずっと王都近辺にいるので実感がない。今日も昨日と同じく、書類と会議で一日が潰れてしまうだろう。
執務室の窓から見える空は青く、先日ヒルダが活けてくれた花は瑞々しい。近侍がきちんと水を換えているからだ。今日も彼らはきちんと見えないところに控えている。鈴を鳴らせば籠に入った果物の皮だって剥きに来るはずだ。だがカリード王、いや、クロードは命じたことがない。思索にふけることの多い執務室に刃物を持った他人を入れる気になれなかったからだ。籠の中には好き嫌いを理由として手で皮が剥ける果物だけを入れよ、と命じてある。
小腹のすいたクロードはいつものように籠に手を伸ばした。フォドラにいた頃はなんでも自分でやっていたので果物の皮も自分で剥く。いつもなら籠には葡萄や甘蕉(バナナ)しか入っていないが、今日は違っていた。
赤くて丸く懐かしい果物がいくつか入っている。クロードは鈴を鳴らしながら艶々と光る実にかぶりついた。蜜も多く、熟している。運ぶために早めに収穫したわけではないらしい。早めに収穫したものであっても王都に運び込む間に傷んでしまうだろう。
「どこから運んできた?誰の考えだ?」
鈴の音で呼ばれた近侍はひざまずき、林檎に齧り付く主君から目を逸らしている。クロードは王宮のものたちから威厳ある佇まいを求められるとつい、揶揄いたくなってしまう。
「面を上げろ」
観念した近侍は気まずそうに顔をあげた。
「王都の北にある果樹園からで、料理長の発案でございます」
クロードは手にした林檎をかじりながら脳内で地図を広げた。これまで特に気にかけることはなかったが、確かに山がある。それにいかにも料理長が考えつきそうなことだった。彼は古今東西の食材に強烈な興味を持っている。
「山を切り拓いて果樹園を作った者がいるのか!頭がいいな」
暑さに苦しむ王都の近辺といえども、標高が高ければ気温が低い。高地なら寒い土地でしか育たない果物や野菜が収穫できる。
「お気に召しましたでしょうか?」
クロードは好き嫌いを理由として葡萄や甘蕉(バナナ)だけを籠に入れさせていたが、召使たちは愚かではない。王の心に根付く他人への不信感に気が付いている。シャハドなら気に入ったので食べたい時に皮を剥け、と命じるだろう。
「料理長もお前も美味い、と思ったから俺の籠に入れたんだろう?」
心尽くしの一環であることはクロードにも分かっている。だが試されていることも分かっている。
「残りは厨房に持っていって氷菓にしてくれ。ヒルダにも食べさせてやりたい。最近暑くて辛そうだからな」
有能な近侍は表情を変えることなく、林檎を手に部屋から下がっていった。クロードとヒルダが子に恵まれたとして───その子が無事、この王宮で健やかに育ったらきっと召使たちに果物の皮を剥いてくれ、とねだるのだろう。
人が朝起きるのは首飾りの西も東も変わらない。だが、灼熱の太陽が照らすパルミラでは一日の始まりは日没から───とされている。フォドラとは何もかもあべこべだが、ヒルダはそれなりに楽しくやっていた。何よりも昼寝の習慣が素晴らしい。無理をしない生活習慣にはすぐに馴染んだ。目が覚める頃に月が出ていたら言うことはない。
「よう、氷菓なら食べられそうか?」
ヒルダが目が覚めたような、でもまたすぐに眠れそうな心地を寝台の上で味わっているとクロードに話しかけられた。昼寝に馴染みすぎたせいだろうか。近頃は眠っても眠っても眠り足りないし、本格的な夏がやってきたせいか食欲もない。
パルミラの氷室は半球型をしていて、天辺に穴が空いている。理屈を聞いてもにわかには信じ難いが、フォドラと違って氷を作るのにブリザーの魔法は使わない。ブリザーが使えるお抱え料理人なしでも作れるため、パルミラでは氷菓は気軽な食べ物だ。
クロードによると氷室は砂と粘土と卵白、それにヤギの毛を混ぜて作った断熱材で作られている。暖かい空気が天辺の穴から出ていくので下の方は低温が保たれる───そんな仕組みらしい。これならきっとフォドラでも導入は可能だろう。
「うん、喉乾いたから食べたい……」
身体を起こしてみたがやたらと瞼が重い。クロードの声がなんとなくいつもより楽しそうなので様子を確かめたいのに身体はまだ眠ろうとする。
「じゃあ口開けてくれ」
言われるがままに口を開けるとクロードはヒルダの口に匙をそっと入れた。意識が一気に覚醒したのは冷たさが理由ではない。味と香りのせいだ。一口目はすぐに飲み込んでしまったので早く確認がしたい。
「えっ!これ林檎?どこから持ってきたの?」
クロードは細かく刻んだ林檎を凍らせた氷菓をどこからか手に入れていた。パルミラとフォドラは植物相が全く違う。暑さに弱い林檎は王都近辺では栽培できないし、寒さに弱い芒果(マンゴー)はフォドラでは栽培できない。どちらも好きなヒルダには少し寂しい話だ。
「王都から少し離れたところに割と高い山があってな。中腹より上の方はガルグ=マクみたいに寒いんだ」
だらだらと過ごすのは大好きだが、こう暑いと趣味の宝飾品作りもする気になれない。道具と材料を持って山に行けば捗るのではないか。
「もっと早く教えてよ〜!離宮も良いんだろうけど山の方にも行ってみたいな」
暑い夏をやり過ごすための離宮は海沿いにある。クロードによると海から吹き付ける風があるので王都と比べればかなり涼しいらしい。来月はそちらで過ごそう、という話は既に出ている。
「うーん、あの山に泊まれるようなところはあったかな……」
考え事をするとクロードは手元がおろそかになる。こぼして無駄になる前にヒルダは皿と匙をとりあげて銀色の丸い盆に置いて、窓掛と窓を開けた。玉ねぎ型の屋根の上には三日月がかかっている。太陽が昇るまで、月は全てを支配下に置く。今のうちにしたいこととできることをしてしまおう。
「ほら、せっかくだからクロードくんも食べて」
ヒルダは月明かりに照らされながら匙で氷菓を掬い、クロードの口にそっと入れた。良いものはすぐに愛する人と分かち合うに限る。