1 93歳、使い切れなかった20億円
昨年秋、東京都内のマンションで一人暮らしをしていた93歳の男性が居間で倒れているのを、訪れた証券会社の担当者が発見した。
慌てて救急車を呼んで病院に搬送したが、男性はまもなく死亡した。
男性は2018年に妻(当時88)に先立たれ、子どもはいなかった。頼れる身寄りはおらず、部屋はかなり散らかっていた。時折、ヘルパーや証券会社や銀行の担当者、税理士らが訪れるぐらい。
税理士は男性の生前に「亡くなった後のことを任せられる『死後事務手続き』の契約をしておいた方がいいですよ」と助言していたが、男性は断り続けた。「まだ早い」と。
男性の死後、自治体が戸籍を調べたところ、親やきょうだいなど相続人は他界し、遺体を引き取る人は誰もいなかった。自治体で火葬し、無縁遺骨として保管された。
相続人がいない人が遺言を残さず亡くなると、裁判所が選んだ「相続財産清算人」が残った借金を清算し、残ったお金は国庫に入ることになる。
この男性が持っていた、預金や株など「相続されない遺産」の総額は、約20億円。
相続財産清算人が遺品などを整理していた今春、男性の妻が死亡する前に、夫婦で作成した遺言書が見つかった。内容は、夫が先に死亡したら財産は妻へ、妻が先なら夫へ、という内容。男性の妻も資産家だったため、妻の死によって、男性の財産はかなり増えたという。遺言には夫婦どちらもが亡くなった場合のことも記されていた。数千万円を70代の知人に遺贈するので、自宅マンションの処分、納骨、年金の中止手続きなど死後事務手続きを行ってほしい。その費用を含むすべての債務を知人が清算する、という内容だった。知人への遺贈分を差し引いた残りは「すべて公的な団体へ遺贈する」と遺言書に記され、有効となった。「多くの財産を持ったまま亡くなり、相続人もなく、死後に周囲が対応に追われるケースがここ数年、増えている」 施設入所の身元保証や死後のさまざまな手続きの代行など「終活」を支援する会社、OAGウェルビーRの黒沢史津乃社長はこう指摘する。
一方、都内の高級老人ホームに入居する89歳の女性は3年前、自身の金融資産の遺贈先3カ所を決め、遺言、死後事務手続きの契約を済ませた。亡くなるとともに資産をゼロにするつもりで準備を進めてきた。
上場企業の役員を務めた夫とともにホームに入居したのは、16年前。一戸建てを売り、終(つい)のすみかにするつもりで2人で約1億円の保証金を支払った。夫は8年前に亡くなり、子はいないので女性が遺産を相続した。女性も教育機関で70歳まで働いたため、年金収入もある。老人ホームの月額の利用料と食費など約22万円の固定費の支払いには年金をあてている。日常でお金はほとんど使わない。「足が弱り、旅行も行けない」
100歳前後まで生きると想定して必要なお金を残しているつもりだが、ホームに併設する要介護棟へ移れば、月額利用料や医療費が高くなる。自分の寿命はわからないので、不安がないわけではない。
夫は亡くなる前に脳卒中で倒れた。自力で食事ができず、静脈に挿入したカテーテルで水分や栄養、薬剤を点滴するIVHという高額な治療を受けた。夫は倒れた7カ月後に亡くなった。「医療費の支払いは差額ベッド代含め月額70万円。お金は最後にもかかると身をもって知りました」と女性はため息をつく。
日本の高齢者の3分の1が、生きているうちに「財産を使い切りたい」と思っているのに、実際にはあまり取り崩されず、保有資産がますます高齢者に偏っている――。
内閣府が8月に発表した経済財政白書で、こうした傾向が浮き彫りになった。年齢別でみた世帯あたりの金融資産の平均額は50代までは年齢が上がるごとに増え、60~64歳でピークの1838万円に達する。60代後半からは減少に転じるものの、「取り崩し」のペースは緩やかで、85歳を過ぎても1500万円超の金融資産を保有し、減少率は1割半にとどまる。
白書は「子育てへのニーズが高い若年世代への移転が進まない課題がある」と指摘する。
お金を使い切り、死ぬときは「ゼロ」という生き方はできるのか? 5回連載で考えます。
経済財政白書によると、高齢者の資産に関する考え方についての調査(2023年)で最も多かった回答は、「使い切りたい」で34%だった。
社会保険労務士でファイナンシャルプランナー(FP)の井戸美枝さん(66)もその1人。
実践に向けて行動を起こすきっかけになったのは、3億円の金融資産を持ちながら身寄りがないまま、認知症を発症した80歳の男性のケースを知ったことだ。
発症後、ケアマネジャーらが介護施設への入所資金を男性の銀行口座から引き出そうとしたが、口座は凍結されていた。男性は最低限の公的な介護しか受けられなかった。
認知症の本人に代わり、家庭裁判所が法定後見人を選ぶ制度があるが、福祉と司法のエアポケットになって手続きに時間もかかる。
「ため込むばかりでなく、元気なうちにお金を効率よくどう使うか、絶えず、シミュレーションしておく必要がある」と井戸さんは話す。
井戸さんは自分と夫(70)の寿命をまず、想定した。参考にしたのは、健康寿命と死亡数最多年齢だ。
日本人男性の健康寿命は72・68歳、死亡数が最も多くなる年齢は88歳。女性の場合はそれぞれ75・38歳、93歳だ。この数字から、夫は18年後の88歳、自身は27年後の93歳で死亡すると仮定した。
公務員だった夫は年金暮らし。井戸さんは社会保険労務士やFPとして活動するが、それぞれ健康寿命に達すれば、要介護になる可能性もある。
生命保険文化センターの調査(21年)によると、公的介護保険サービスの自己負担費用を含め、住宅改造や介護用ベッドの購入費など一時的な費用の合計が平均74万円、月額平均は8・3万円。介護期間の平均は5年1カ月なので計約580万円かかる。「生活費とは別に介護費は夫婦で800万円は心づもりをしておいた方がいい」と井戸さん。
まず、住み替えと断捨離を実行。36年住んだ一戸建てを売却し、駅前のマンションに引っ越した。
いずれ車の免許を返納しなければならず、徒歩で買い物や病院に行ける場所を選んだ。
女性の方が寿命が長いので夫と死別した後、1人で9年間、生きるという想定をしている。
老後を「夫と暮らす前期」「ひとりになる後期」に分けてかかる費用も計算した。
「後期」の収入は、夫の遺族年金と、井戸さんが長年かけていた小規模企業共済(個人事業主が対象)、私的年金など。それで月々の生活費をやり繰りする。節税しつつ息子に不動産を譲る準備も整え、自分が亡くなると年金などもとまり、ゼロに近い形でおわる。それが理想だ。
しっかり備え、今を楽しむ。
「いま、ハマっているのはクラシックバレエ。衣装などを作り、本格的にやってみたい」
(けいざい+)ゼロで死ねるか:3 生前贈与、共同名義のトラブルも
生きているうちにきれいにお金を使い切り、死ぬときは「ゼロ」で――。そんな生き方が注目を集めている。ただ、相続などが絡むと、簡単にはいかなくなる。
東京都内でリース会社を営む70代の夫妻は、都心部の億ション2部屋、関西の別荘などの不動産、多くの金融資産を所有する資産家だ。
相続税対策もあり、「生きているうちに財産を娘に贈与したい」と、それぞれの不動産を夫妻と娘3人の共有名義に変更した。
1人の娘の夫婦と孫は約10年前から一方の億ションの1室に住んだが、その管理費や固定資産税、車や家具・家電の購入費、孫の学費など大きな出費は夫妻が払い続けていた。
夫妻の収入は、会社の役員報酬などで十分に余裕があったが、娘の長年の散財と会社の業績悪化が重なり、昨年には預金が2千万円まで目減りしてしまった。
娘夫婦に「これからは管理費や孫の学費は自分で払ってほしい」と頼んだが、拒否された。別荘を売ろうとしたが、これも共同名義人になっている娘に拒否されたという。
この事例の教訓として、遺言や相続などが専門の辻千晶弁護士は「生前に財産を贈与するのは、相続税の対策としてはコスパはいい。だが、子どもなど相続人が裏切ることも想定しておく必要がある」と指摘する。
裁判所に持ち込まれたこうした遺産分割に関するトラブルは、2022年、1万6687件と過去最多を更新した。
被相続人と相続人のどちらも60歳以上の高齢者という「老老相続」も増えている。
都内で和菓子店を経営していた女性が昨秋、83歳で亡くなった。
独身で両親の跡を継いだが、体調を崩して10年前に店を閉めた。その後は入退院を繰り返し、店舗兼住宅はゴミ屋敷のように荒れていった。
女性には3歳下の妹がいた。女性はあんパン1個で昼食を済ませることもあり、妹の目には、姉は貧しい年金暮らしをしているように見えた。気の毒に思った妹は、食事や病院までのタクシー代を援助するなどしていた。
女性は生前に遺言を書き、全財産を妹に相続させると記していた。相続税評価で1500万円ほどの店舗兼住宅と、約300万円の預金だけと妹は説明を受けていた。
ところが、自宅の遺品の整理をしてみると、預金や株など金融資産だけで約1億5千万円も残っていた。妹は喜びよりも、悲しい気持ちのほうが大きかったという。「80歳近くなって大金をもらっても……」
財務省主税局の調べによると、80歳以上の高齢者が被相続人(50歳以上が相続人と想定)となった相続は1989年では38・9%だったが、2019年では71・6%と7割を超えた。
女性の遺言執行者を務めた辻弁護士は「ため込むばかりでなく、お金を有効に使った方がいい」と語る。
(けいざい+)ゼロで死ねるか:4 老後資金しっかり試算、やりたいこと恐れず
精神科医の和田秀樹さん(64)は、これまでの臨床経験で、死期を悟った高齢の患者が後悔する声をたくさん聞いた。
最も多いのは「もっとお金を使ってやりたいことをすべきだった」という声だ。
厚生労働省の予測によると、2025年には認知症を発症する人は約700万人に増加する。
「認知症はもはや国民病。判断力がないと診断されると、成年後見人がつくので自分の意思でお金が使えなくなる」と和田さん。
日本銀行の「資金循環統計」や総務省の「全国家計構造調査」の年代別の金融資産保有残高をみると、この20年で60歳以上の保有割合は1・5倍以上に増加。個人金融資産約2千兆円のうち、60歳以上が6割以上(約1200兆円)を保有する。
「高齢者がやりたいことにお金を使って循環させれば、社会貢献になる」と和田さんは言う。
だが、日々の生活費は必要で、病気や介護への備えも必要だ。老後資金はどれぐらいを見積もれば、いいのだろうか。
総務省の家計調査(23年)によると、退職後、無職になった65歳以上の夫婦世帯の収支をみると、収入(年金など)から税、社会保険料などを差し引いた手取り(可処分所得)は月額21万3042円。食費、電気などの支出は25万0959円なので月の赤字は3万7917円になっていた。
年間の生活費の赤字は約45万円で、さらに30年(95歳まで)生きると想定すると、1350万円の貯蓄が必要になる。
高齢になれば医療費も多くかかる。厚労省によると、国民1人あたりの生涯医療費は約2700万円で、65歳以降の医療費は1600万円と約6割を占める。医療費の窓口負担として1~3割が必要になる。
さらに平均的な介護費を約600万円と見積もると、老後資金としては2千万円前後が必要になる計算だ。政府が試算する「老後資金2千万円」に近い額となる。
生活経済ジャーナリストの和泉昭子さん(62)は「セカンドライフの前半に厚く老後資金を配分し、後半は医療、介護費を生活費と別に分けておいた方がいい」とアドバイスする。
日本の健康保険には高額療養費制度があるので、自己負担の限度額以上のお金は後で払い戻される。介護保険を利用すれば、年金で足りる施設は探せばある。
しっかり試算して備えておけば、老後を恐れてやみくもにため込む必要はないと、和田さんはいう。「お金を使える時間は思うほど長くない」
和泉さんと同年代の男性ファイナンシャルプランナーがアプリを使って自分の寿命を算出し、資産を使い切る計画を考えたところ、「元気に動ける年代を60代に設定したら、遅かった」と語ったという。「やりたいことを先送りせず、やろうという人が増えているのではないか」と和泉さんは話す
(けいざい+)ゼロで死ねるか:5 人生悔いなく、使えるお金使えるうちに
日本の高齢者の3分の1が、生きているうちに「財産を使い切りたい」と考えているのに、ため込んだ金融資産は80歳を過ぎても平均で1~2割しか減らない――。高齢者のお金のため方、使い方について、今年度の経済財政白書はこんな分析をしている。
そうした世相を反映してか、「DIE WITH ZERO(ダイウィズゼロ)(ゼロで死ね)」(ダイヤモンド社)という米国発の書籍が日本で静かなブームになっている。4年前に発売され、累計で39万部を突破した。
筆者であるコンサルティング企業の最高経営責任者(CEO)、ビル・パーキンス氏(55)に記者が話を聞いた。
4月に来日していたパーキンス氏は、シニアの日本人たちと接した。次世代に伝統や資産を引き継ぐことを大事に考える一方、古い世代が重荷になってはいけないし、自由に生きたいと、多くのシニアが思っていることを知ったという。
「多くの日本人に本を読んでもらえたのは、財産を使い切ることに対し、罪悪感を感じない免罪符のようなものがほしかったからではないか」と分析する。
パーキンス氏によれば、人が実際に「ゼロで死ぬ」ことは難しくても、その目標から逆算して「人生をより充実させていくことが大事」との思いで本を書いたという。
この考えは、1985年にノーベル賞を受賞した経済学者フランコ・モディリアーニが提唱した「死ぬときの残高がちょうどゼロになるように消費行動をすべきだ」との仮説に由来するという。
人々がお金を使い切れない理由は主に(1)自分がいつ死ぬのか分からない(2)老後の生活は意外にお金がかからない(3)お金はステータスになる(4)子どもに残したい、の四つ。
米国のシニアにも似たような傾向があり、65歳で退職した時にある資産の減少率は、20年後で1割強に過ぎないという。
年を取ると想像よりお金を使わないので、子どもに早めに財産を引き継ぐことを勧める。その理由は「お金を使う能力は年齢によって変わり、同じ金額でも60代より30~40代の方が価値を高められ、コストパフォーマンスが良いから」。
親が80代、子が60代といった「老老相続」はコスパが悪く、早い時期に生前贈与すれば、お金がどう使われたかを見届けることもできる。
高齢者自身が有効にお金を使うための「アイテム」としてパーキンス氏が提唱しているのが、やりたいことを年代ごとにリストにする「タイムバケット」の作成だ。
お金とは「経験を買うために使うもの」。重い病気にかかると、お金がいくらあっても楽しめなくなるが、思い出は記憶として残る。「ベッドに横たわっていても『記憶の配当』がいつまでも受けられ、人生を豊かにするのです」
だから、お金がないなどの理由でやりたいことを先延ばしせず、元気なうちにやり、「悔いのない人生を送れるようしっかり考えてほしい」