霊峰の かがみに映える とものたま
新年明けには国境のピレネー連峰に行く。あちらの真っ白な雪の高原で奈良くん、それから晴朗、俊輔、万也、貞蔵とも再会しようと思う。 2023年1月 鈴木 周夫
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家族ではないが親愛なる友、ときがきて友の顔が予期せずに現れる。 (2023年3月1日)
かつて親しくしていた旧友の死の知らせがくる。友の呼びかけにとっさに応えられない、間に合わない、しまったという焦り。いまを引き受けがたいこころの動揺がある。
友の死は時間の流れを変える。逝った友は存在のかなたに隠れ退き、いまのときを空白にする。わたしはいまに追いつけていないような、取り残されたような受け身の引き潮に見舞われる。
友は逝って未来から呼びかける。その声をわたしは、いまの現前ではなく、いまの手前で聴く。留保なしに聞いてしまっている。わたしのいまは、わたしの時間はその声に遅れている。時間は未来から過去に向かって退き引いていく。逝った友の到来によって傷ついて脆くも生き残っている意識の主体、志向するなにかを失った、ほころびた主体が残る。
ひとはほんらい孤独であるが他者のあいだで生きている。友が居る。たまたま生き残った側の主体にあって逝った友は他者となる。過去にあった対話は共有するときを失い中断する。避けるべきは逝った友を歴史の一齣として生の世界から切り離してしてしまうことであ
る。突如にして逝った友とたまたまに残った自分の、生と死の偶有の蓋然性、それは厳粛な生の一回性と表裏である。死ぬべきさがを負った人間が生と死を生きる条件であろう。時間はただ意識を刻むだけではなく、生と死を繋いで移ろう。時間はひとの道であり、倫理である。倫理は勝れて他者の顔の到来から始まる。
逝った友の無言の声は時間となって、かつてあった対話を繋ぐ。生き続けるわたしにはその生き残ったことによる責、他者に対する負い目が負荷されているのを知る。時間は、いまを素通りして、いまの手前で、わたしの成り立ちの、その前史の背景に望む。自は他から作られる。わたしは生き続けることで生の条件のいっさい、その受け身の境遇のすべてを担うことになる。
逝った友はかつての同志、視点はシンプルだがラディカル。ことの究明は、われわれ人間の原初のいわれ、世のそもそもの源泉にまで直截に遡っていくだろう。遂には天地創造のきわみ、「われ地の基を創りしとき、汝はなにをしていたのか(ヨブ記)」という、創造の主の、とんでもない、いわれなき譴責の声が響いてくるところまで。(そもそもわたしが生まれたことをわたしが知ったのも誕生からずっと後のことであったわけで) これは不条理な言いがかりではある。しかし主体の主体性は世界のうちでいつも遅れて到来する。そこで見えてくるのは主体の根源的な受け身のさが、反転する逆向きの時間で裁かれるいわれのない責、揺れる蓋然性、赤裸な弱さである。
それでも残されたものにはこのいわれのない無条件の受動性を受けて、他律から自律に主体を繋ぐしかなすすべはないが、それはむしろ自然な反転でもある。受け身に伴う「服従subjection 」は「主体subject 」に接している。他者を迎える主体は他者に従うことで自由を得、自律する。他者の顔に呼応してわたしはわたしとなる。
逝った友の、静寂の声を聴く。過去に遡る時間の中で、おのれの出自の由来に思い巡らす。彼我を繋ぎ、交替する時間の中で、逝った友と語り合う。途絶えた対話を再開する。
時間はいまの現在を空けて、未来にそして過去に向かって流れる。空白のいまの手前で自他の時間が交差し向かい合う。時間は存在のかなたに行ったあと原初の過去に繋がって戻ってくる。
晴朗は時間と空間の交わりにこだわっていた。そこで時間はどのように流れていたのだろうか。果たして彼が、生と死を隔てて向き合うこのような奇妙な時間系、同時性を拒む移ろう時間、仮にもそのような時間があるとしたらどういうのか、聞きたいものだ。
霊峰の 映る湖面に 静寂の
響き伝わる 波一つだに無きに
暦は 復活祭を控える四旬節に入った すずき
八月十五日、お盆中日、終戦記念日、マリアの祝日
「雷(いかづち)の、光のごとき、これの身は、死にの大王(おおきみ)、常に偶(たぐ)へり、畏(お)づべからずや」とは国宝・薬師寺の仏足跡歌第二十歌だ。 大意は、雷光のように短い人生には死の大王がいつもそばにいてくれる。だから畏れなくてもいい。というふうに読める? 古代人が短い人生を明るく生きていたのがうかがえる、ユーモアあって軽妙な歌と解す。
それにしても「死にの大王 、常にたぐへり(そばにいる)」と続くと、こころ穏やかではない。畏(おそ)れるとは、人がとくに神を敬う態度だ。この「死にの大王」は「神」に等しい存在と考えていいのだろうか?死とは神とは?いづれにしろ神も死もわれわれの知を超えた、それでいてわれわれに極めて近しい存在。親しくも畏れ多い、不可知なる絶対他者・超越者である。
すでに多くの友が逝き、わたしもいずれは逝く。わたしが死を想うのは相応に それを人の本務と考えるからである。
朝早くに起きて寝たきりを避け、飢えて死ないために 適量に食事をして栄養を摂る。過労死は愚かしいので適当に休み、死に至る病を嫌って当てもなく散歩する。死に直行するよりは、と定期に病院に通い、途には車に轢れないために信号を守って帰る。かように毎日の日課を死なないためにこなしている。 誰しも実生活の要所要所では無意識に死には充分に気を遣っている。とりあえずは畏れの念を忘れずに暮らしている。
いずれは死ぬに違いないにもかかわらず死なないために腐心する営為と、理念としては決して成就されることのない愛を実践するためにこころを傾け身を削る努力が、われわれの実生活の実相でありわれわれの実存であると総括する人もいる。
若いハムレットは to be or not to beと自らに生死の決断を迫るが、自らに釘付けされた自分という存在beingを無にして死を自らの選択肢として引き受けることのできないところにこの悲劇の因果がある。
わたしの死をも将来の可能なかたちとして組み込んで、自分のありうる可能性(will be, may be, can beなど)をすべて織り込んだ存在をダザイン、現存在と言った。現存在は不断にわたしの可能性であり、わたしの未了である。わたしに最も固有な事態である死も本来のわたしに固有な可能性のかた ちとして対格で対象化することはできるのか? 否、死が人の観念で把持できるのなら死はそこで死んで?しまう。死の超越を充分に畏れていないからである。死は賦活され?なければならない。
わたしの存在は、実際に今を生活しているわたしという実存者が支えている。現在を生きるわたしが、わたしのありかた、わたしの存在を決める。わたしはわたしの自己同一性において今の支配者である。ただその支配圏は自らの知の及ぶところ、自己と同一のところに限られる。それゆえにわたしはわたしでしかあり得ない。わたしは孤独である。
この主体による存在の支配を破綻させる事態がわたしの死である。わたしの死であるが、死は永遠の切迫であって、遂には今に達することはない。わたしの死は到来するが、今に属するできごとではなく、今に居場所はない。それゆえにわたしの死は今の支配者としてのわたしの権能を剥奪する。死においてわたしはできることができなくなる。能動から受動への地崩れが起こる。
できることができなくなる主体の主体性は世界を神秘の他界として了解し不可知の他者を他界から迎え容れる。他者の呼びかけに諾と応え受容する主体である。他者が何者であるかはいっさい問わないまま、その神秘の他性、その不可知性を受け容れる。呼びかけにただ応える(response)、それは責任・責めを負う(responsible )ことであり、畏れをもって、受け身で感受することである。呼びかけは唯一無二のわたしだけに向けてなされる。応答するのがほかの誰でもない、わたしであるという、その責めを負う主体の比類なき単独性においてわたしはわたしとなる。こうして孤独であった主体は不可知の他者と、差異の隔たりのうちにも近くにあって、無関心ではおられないという有責性のうちに、面と面を合わせて向い合う。わたしの孤立はこうして解ける。
未来はきっと今になるが、けっして今にならない未来もあるのだろう。永遠の切迫である畏づべき未来。こんな不可知の未来にまします存在者が古より伝えられる「死にの大王」なのかもしれない。死は目(今)には見えないが常にたぐえり、ともにいてくださる。
今はいずれ過去になるが、いっときも今でなかった過去もあるだろう。わたしの今は他者の呼びかけにいつも遅れる。今のてまえでわたしはすでに呼ばれてしまっている。異邦人はいつも予期せずに現れる。まさに井に入ら(落ち)んとする孺子(子ども)のごとく。異邦人・孺子は人が気遣わずにはおられない存在、忍びざるの心・責めの情を一方的に喚起させる存在である。
かくて他界から到来する絶対他者は異邦人・隣人であろう。異邦人、隣人は「やもめ や みなしご」の提喩であり、換喩である。このメタファーは何故か一挙に賢しい世の理路を飛び越えて「寡婦や孤児が飢えていたときに食べ物を与えなかったのはわたしに与えなかったことである」という神の言葉になってしまう。神は時間を超えて常に異邦人・やもめ・みなしごの味方であり彼らと一体である。
こうしてわたしのいささか 乱暴な想念の巡り合わせでは、死と神が同じ経路を辿って「畏(お)づべき」さまで垣間まみえる。 すずき
2017年、同級生5人が他界しました。2019年の18期会では桂田(朱)君が急逝されたと聞きました。親しい友の急な死に立ちすくむような思いです.彼らを偲ぶよすがに旅立った仲間も含めた名簿を作りました。他界した人たちは空色にしています。ここから名簿にリンクします。 名簿の背景色が空色になっている行の名前にマウスのカーソルを置くと出てくるURLをクリックすると故人のページが出ます。亡くなったときの状況、思い出や写真があったらmawatarik@gmail.comまたはrokko18_mailinglist@googlegroups.com宛にメールください。それぞれのページに追加します。