今回のミニ発表を機に、私は玉那覇先生に伺って、先生の子供の頃の夢について話を聞いた。先週、自分の子供の頃の夢である古生物学者について書いたので、他人の夢にも興味を持つようになったため、最終的にこのトピックを選んだ。
玉那覇先生は、子供の時から先生になりたかったと言った。そして、中学生になり、始まった英語の授業を好きになったので、英語の先生になりたかったと言った。先生が、学校に良い英語の先生があまりいなかったにもかかわらず、英語の授業への情熱から英語の先生になりたいと思ったそうだ。
それから、英語の先生になるために、玉那覇先生は大学で英文学を専攻として選んで勉強した。しかしながら、先生は大学2年生の時に、あるきっかけで自分の夢を見直した。先生は、ある外国人に日本語を教えるという仕事が紹介されたので、英文学科と同じ文学部にある日本文学科で、日本語教育の授業を履修した。それで、先生は「自分は英語のネイティブじゃないので、英語を教えるのが難しいが、日本語だったら自信がある」と考え、英語の先生より日本語の先生を目指すようになった。
私の経験では、中国語は母語だけど、それを教えるのはまだ結構難しいと思うので、先生にその途中でどんな壁や困難があったかを伺った。特にないと先生は言っていたが、実は、先生は様々な経験を積むためにたくさん努力した。例えば、先生はアメリカで応用言語学の修士を取った。応用言語学の勉強から、外国語(おそらく日本語)の使い方、教え方について少しずつ勉強してきた。さらに、大学院生の時、日本語のティーチングアシスタントとしても働いた。TAをしながら、言葉の教え方を覚えて習い、とてもいい経験だったと言った。
それに、もしかしたら先生の夢は家族からの影響だと考えたので、私は先生の家族の仕事について伺った。驚いたことに、先生の母方のご祖母は小学校の先生だったそうだ。しかし、先生の夢は祖母とはあまり関係がなかったと言った。というのは、ご祖母はとても厳しい先生だったそうだし、うちで祖母の仕事のこともあまり分からなかったからだ。
最後に、先生にこれからの向かっている夢や目標について話した。先生は今、韓国語を勉強し、韓国ドラマを字幕なしで理解することが、最大の目標だそうだ。
玉那覇先生は、子供の時から自分の意識で夢を決めたり、そしてたくさん努力を積み重ねながら向かい続け、今はこんなに立派な先生になっていることを、私はとても尊敬している。私も先生と同じように、私の夢と目標を達成するために、たくさん努力を重ね、諦めずに前へ進みたいと思う。
皆さんは生活中にたくさん先生に教えられました。先生というのは、学校の先生だけでなく、スポーツの先生や先生のような人もいるかもしれません。先生は学生たちに大変影響を与えると思うし、私も印象が深い先生の思い出があります。例えば、私の小学一年の先生は私の英語のレベルを上げてくれて、高校の歴史の先生のおかげで、私は国際関係に興味になりました。そのため、私のUSCでの第一の日本語の先生の熊谷先生に「熊谷先生の心に残る先生」や「先生の大切さ」についてインタビューしました。
熊谷先生は小学校から大学までずっと日本で教育を受けて、一番心に残った先生は5年生と6年生の時の女の先生でした。その先生は週末の時学生たちをどこかに連れて行きました。例えば、週末の時映画を見に行くことやサンドイッチを買いに行くことなどです。印象に一番残るのはある日、熊谷先生と二人の学生たちは先生と一緒にサウンドトラックを買いに行きました。買ったサウンドトラックは英語だったけれど、熊谷先生の5年生の先生はその歌の歌詞をカタカナで書いてくれて、そのため、熊谷先生と友達は歌うことができました。熊谷先生と友達は歌を習って、クラスメイトの前で歌いました。熊谷先生にとって、これが一番いい思い出である理由は先生は授業中に影響を与えるだけでなく、授業以外にも先生と楽しい思い出を作ったということです。それに、クラスメイトと歌う時、嬉しい気持ちが持っていたから、この体験のおかげで、熊谷先生は英語の勉強し始めることを決めました。大学を卒業した後、熊谷先生はフランス語を勉強したり、カナダとオーストラリアの学校で英語を勉強したりすると、たくさんの言語の教え方を学びました。
今熊谷先生も先生になって、色々な影響も学生たちに与えたいと言いました。一番大切なことは日本語を教える時、教科書以外のことや日本語への愛ということを学生に伝えるということです。そして、もう一つは何か学んだことはGPAより大切ということを学生に伝えたい気持ちです。「成績は世界で一番大事なものではない」と熊谷先と言って、日本語やなんでも学ぶ時、失敗を心配しないで、なるべくいい態度や自分に自信を持つというのは一番大切なことです。
私の意見ですが、先生は子供の成長にとって、とても必要なことです。高校の私は日本語の授業を取ったのに、つまらなくて、なにも習わなかったと思いました。熊谷先生は私の大学の第一の日本語の先生で、学期を終わる時、日本語の授業はそんなに楽しいと思いました。日本語を勉強し続けることも熊谷先生の影響のためだと思います。インタビューをした後、熊谷先生はなぜその教え方がある理由も分かるようになりました。
リュウ・マイク
最近授業で日本の自然や四季などのトピックについて学んだので、私は日本語の先生から日本の季節の景色についてもっと聞いてみたいと思いました。今回は、USC日本語プログラムの河野先生と面談して伺いました。
河野先生は2017年から2019年までアラスカ州の小学校で日本語を教えたことが分かりました。そして2023年にウィスコンシン大学大学院のアジア文学部を卒業して、その後USCに来て日本語プログラムの先生になりました。
河野先生は日本の中部地方にある福井県からいらっしゃいました。福井県は田舎のような小さい町だったため、自然の景色がたくさんあったそうなのに、どこかへ行きたい場合には交通は不便だと言われています。また、福井県は日本海の海岸に近いので、美味しい海産物が豊富です。
福井県の春夏秋冬はどの季節も美しいそうです。そして、福井県の冬は特に魅力があるそうです。寒いけど、寒すぎるわけではないので、冬に訪ればいい場所だと言えるでしょう。河野先生によると、福井県は日本海に近いので、冬の時海からの風が強いし、雪もたくさん降ります。しかし、北海道ほど寒くないので、福井県の冬の方が好む人が多いそうです。福井県の夏は暑いですが、雨がずっと降ります。秋はとても綺麗だし、木の葉は全部赤や黄色になるそうです。
子供のころ、河野先生は毎年のように夏休みに友達と一緒にプールで泳いで遊んだそうです。また、夏から秋にかけて畑にはカボチャがたくさん育っています。秋には、多くの作物が熟して、人々は食欲が高まります。河野先生は福井の冬が一番好きだと言いました。冬には、スキーもできるし、雪だるまも作れるし、最高な季節です。
最後に、河野先生はずっと北海道に行きたいと思っていると話してくれました。北海道の冬はやっぱり寒すぎるんけれど、できれば夏に北海道に行きたいと言いました。しかし、河野先生によると、地球温暖化の影響のために、最近日本の夏は長くなったし、秋は短くなったそうだことが分かりました。
河野先生との相談がとても楽しかったです。河野先生のおかげで、日本の四季についても、先生の出身地についても、いろいろな面白かったことが学びました。地方によって、日本の四季は少し違うと感じました。日本は夏しか見たことがないので、将来できれば、私は冬の日本も見に行きたいです。
松本先生とのインタビュー
シューイティアン
今回のトピックは、子供の頃の夢についてである。
松本先生は子供の頃、ピアニストか漫画家か学校の先生になりたいという夢を持っていた。しかし、ピアニストや漫画家になるには必死に努力しなければならず、それほど真剣ではなかった。一方、学校の先生と話すことが好きだったため、将来先生として働くのがいいと考えていた。
大学ではイギリス・アメリカ文学を専攻し、最初は中学・高校の先生になりたいと思っていた。しかし、元数学の先生だった父親は賛成しなかった。父親自身の経験から、先生と学生の親との関係は複雑であり、特にモンスターペアレントに対応するのは大変なことだと考えていたからだ。そこで松本先生は将来先生になるかどうかを決められなかった。
松本先生はアメリカ大学の日本語先生になるきっかけは、お姉さんのある外国の知り合いは日本語を勉強していることを聞いて、外国人に教える先生にあるのはいい選択肢ではないかと考えたからだ。
その後、2004年に南カリフォルニア大学に来て、21年間にわたり日本語を教えてきた。
松本先生によると、日本語の先生として最もやりがいを感じる時は、外国の学生が一生懸命日本語を学び、日本文化をどんどん好きになっていく様子を見た時だ。そして、その喜びが、より多くの学生が日本語を上達させるための原動力になっていると言っていた。
私は、松本先生が日本語の先生になって本当に良かったと思う。松本先生は最初迷いましたが、今ではとてもやりがいを感じるからだ。
インタビューは先生と話すいい機会だと思った。前回松本先生とお話ししたのはもう1年近く前だったので、今回のインタビューが終わった後も、いろいろな話題についてたくさんお話しすることができた。それがとても楽しかった。