学生大会とは、全創大生が一同に集い、大学の運営や学生生活に関わる議案に対して意見を交わし、可否を問うことで大学の方向性を決定する場である。学生大会を貫く根本的な精神は「学生参加の原則」にある。この「学生参加の原則」とは何か。そして学生大会とはどのようなものであるのか、歴史を振り返りながら私たち「創価大学生」は学生大会に向けてどうあるべきかを皆で考えたい。
創立者は創価大学の開学2年前(1969年)に、創価大学の基本理念として「建学の精神」を発表された。同時に、「創価大学は学内の運営に関しても、学生参加の原則を実現し、理想的な共同体にしていきたい」と語られ「学生参加の原則」を打ち出された(第32回創価学会本部総会講演)。
しかし、開学2年目の1972年、理事会は創価大学の経営困難から学費値上げに踏み切り、学生に対して一方的な通告をした。このことに対して学生の中から憤りの声が上がった。「これは、創立者が示された“学生参加の原則”に反しているではないか!(『新・人間革命』第15巻 創価大学の章)」
創価大学開学当時、多くの大学紛争注1の火種となっていたのが「学費値上げ」についてであった。創価大学も同じ問題に直面し、「大学」と「学生」という対立構造が生まれる危機的状況になりかねなかった。
学生たちは全学集会を開き、理事会からの説明を求めた。理事会にとっても苦渋の決断であったことは学生もよく理解できた。しかし、学生自治会は「この問題の本質は、学費を上げるとか、下げるとかいったことではありません。創立者が示した“学生参加”の原則を、どう実現していくかという問題であると思います。(中略)したがって、私は、断固、反対いたします。(『新・人間革命』第15巻 創価大学の章)」と学生の声を代表し、白紙撤回を要求した。ここには、大学の全てに責任を持つとの学生の思いがあった。創立者が寄せて下さった期待と「創価大学生である」との誉れから、創立者の掲げられた理想の学園共同体を創る決意に燃えていたのである。
一方、学生の鋭い指摘により問題提起を重く受け止めた理事たちは、「“学生参加”は、創価大学のめざす、新しい大学像の基本である。したがって、財政的には、どんなに苦しくとも、この原則は、絶対に最優先させなければならない。(『新・人間革命』第15巻 創価大学の章)」と最終的に判断し、値上げ案を白紙撤回したのであった。また、教員・職員・学生および理事会が四者一体となって大学運営を検討する「全学協議会」を設置し、学生の意見を反映できる環境を整える方針を打ち出した。
学費値上げの白紙撤回直後、第2回創大祭に出席した創立者は、学費問題に言及し、「私は諸君が、財政面の問題で悩まされず、のびのびと勉強できるように、また、先生方にも満足していただけるように、この生命をすり減らし、死に物狂いで働き抜きます。皆さんに心配をかけるようなことは、絶対にさせない決心です。」と心情を語った。そして、実際に創立者は多額の寄付を続けてこられた。その中で、学生たちからは「学費が安いことは学生にとってはありがたいが、本当に、これでいいのだろうか。」との声が上がり始めた。
開学4年目に、学生たちは遂に自ら学費改定に動き出した。大学の運営状況や他大学の学費状況、在学生の経済状況等についての調査やクラス・ゼミ単位での討論、全学討論集会などを実施。そして、全学生を巻き込む形で意見を集約し、臨時学生大会を開催した。生涯「若き創立者」として生きていくとともに、学費値上げを検討せざるを得ないと結論のもと、学費対策委員会設置を可決した。その後、学費改定や奨学金の拡充、福利厚生委員会設置など、学費値上げのみならず、学生支援の体制を整備した。
この学費問題は、大学紛争が勃発していた日本社会において、新しい大学像を示すものであり、創立者が掲げられた「学生参加の原則」を実現するべく、学生が主体となって大学運営に携わっていくきっかけとなった。
現在まで、学生は教職員と一体となって「創立者の精神」を実現すべく、学生の声を議案として取り上げ、議論し、より良い大学建設を進めてきた。創立者は、学生たちに「創価大学は、学生のための、学生中心の大学なんだ。だから、“自分たちが主体者である”と決めて、すべての問題に積極果敢に取り組んでいくんだよ(新・人間革命第15巻 「創価大学」)」と厳しくも慈愛に満ち溢れた言葉を贈ってくださっている。
これからの創価大学を決める力が“私たち”にある。学生大会での“1票”は未来の建設を創り進める力となる。未来の創大生は決められない。今、創価大学にいる“私たち”である。「若き創立者」としてどこまでも皆で心を合わせて「学生のための大学」を創ってまいりたい。
注1)大学紛争…1960年代、大学の管理運営や学費値上げなど学園問題を取り上げ、一般学生を巻き込む形で大学内における紛争が頻発するようになった。大学紛争は全国に拡大し、過激化、長期化し、学生の死傷者が数多く出た。