上陸から20日あまりで李氏朝鮮の王都である漢城が陥落すると、日本の諸将は漢城にて軍議を行い、各方面軍による八道国割と呼ばれる朝鮮八道の平定作戦を定め、漢城を出陣していった。
平安道 一番隊小西行長等
咸鏡道 二番隊加藤清正等
黄海道 三番隊黒田長政等
江原道 四番隊森吉成等
忠清道 五番隊福島正則等
全羅道 六番隊小早川隆景等
慶尚道 七番隊毛利輝元等
京畿道 八番隊宇喜多秀家等
一番隊・二番隊・三番隊は共同して、5月11日に北に向かって進撃を開始し、5月18日に臨津江の戦いで金命元等の朝鮮軍を撃破(事前に交渉し仮道入明を要求)。5月27日に開城占領、黄海道の瑞興、鳳山、黄州、中和を次々と占領。進撃を続ける日本軍が平壌に迫ると朝鮮国王宣祖は遼東との国境で鴨緑江に面した義州へと逃亡し、明に救援を要請する。
平安道に進んだ一番隊・二番隊は、6月8日に大同江の畔に到達。平壌には左議政尹斗寿・都元帥金命元ら10000人の朝鮮軍が防衛体制を整えていた。ここで小西・宗は朝鮮側に和平交渉を呼びかけ「日本は朝鮮と戦うつもりはなく、願いは仮道入明である」と伝えたが朝鮮側は応じず、12日朝鮮軍は大同江を渡り夜襲を敢行し宗軍に犠牲が出た。14日朝鮮軍は再度夜襲をかけ、不意打ちを受けた小西・宗の軍は混乱したが、黒田長政が救援に駆けつけると形勢は逆転した。敗走する朝鮮兵が王城灘から大同江の浅瀬を通って平壌に逃げ込むのをみて渡河可能点を知ると王城灘を占領し攻撃態勢を整えた。15日夜、尹斗寿や金命元は平壌の防衛は困難と判断し市民を脱出させた後平壌から撤退する。16日、日本軍は大同江を渡って平壌を占領し、ここで進撃を停止した。
開城占領まで行動を共にしていた二番隊は咸鏡道方面へ進路を転じ、海汀倉の戦いで韓克誠の朝鮮軍を破り咸鏡道を平定した。当地の朝鮮人鞠世弼や鞠景仁は朝鮮王朝に反旗を翻し、臨海君・順和君の二王子を捕らえて日本軍に帰順する。さらに加藤清正は朝鮮東北国境の豆満江を越えて女真族の地オランカイ(兀良哈)へ攻め入った。
四番隊は金化において助防将元豪を敗死させ江原道を完全制圧した。
文禄の役で南部諸道に残した未占領地と慶長の役
日本軍による朝鮮国土の占領状況を表すために各道の官邑占拠率を載せた。ここで注目すべきは平安道を除いて北部の諸道よりも南部の諸道のほうが占拠率が低いことである。特に全羅道は大部分が未占領となっている。
この全羅道を初めとする南部諸道の未占領地が朝鮮側の水陸からの反撃拠点となり、日本軍の後方を脅かし困難を生じさせた。
このため、これら未占領地の討伐が日本軍の課題となり、文禄2年の役(第2次晋州城の戦い)で慶尚道西部地域を討伐し、慶長2年の役で全羅道と忠清道の討伐が実施された。
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