李如松率いる明軍43000余人は朝鮮軍を加えて1月7日、小西行長の守る平壌城を攻撃し外城壁を占領する。これに対し日本軍は内城及び北辺の万寿台、乙密台に布陣して迎え撃ち、明・朝鮮軍に多くの犠牲を与えて撃退する。そこで李如松は「退路を与えるから、城を明け渡せ」と通知した。この夜、日本軍は自主的に退却を開始。これにより明軍は空となった平壌城を接収する。さらに追撃隊を差し向けたが小西等は漢城まで退却することに成功する。
平壌城の占領後、明・朝鮮軍は漢城目指して進撃した。対する日本軍は兵力を集結し、1月26日漢城に迫った明軍を碧蹄館の戦いで破る。
碧蹄館の敗戦により明軍は戦意を喪失し、武力によって日本軍を朝鮮から撃退する方針の放棄を迫られることとなり、交渉による解決を模索し始めた。
明軍編成
兵部侍郎 宋応昌 爲経略軍門
都督同知 李如松 爲提督軍務
副総兵 楊元 爲左協大将, 副総兵 王有翼 、副総兵 王維禎 、参将 李如梅 、参将 李如梧 、参将 楊紹先 、先鋒副総兵 査大受 、副総兵 孫守廉 、参将 李寧 、遊撃 葛逢夏 等, 咸統于 元
総兵 李如柏 爲中協大将, 副総兵 任自强 、参将 李芳春 、遊撃 高策 、遊撃 錢世禎 、遊撃 戚金 、遊撃 周弘謨 、遊撃 方時輝 、遊撃 高昇 、遊撃 王洞 等, 咸統于 如栢
副総兵 張世爵 爲右協大将, 副総兵 祖承訓 、副総兵 呉惟忠 、副総兵 王必迪 、参将 趙之牧 、参将 張應忠 、参将 駱尙志 、参将 陳邦哲 、遊撃 谷燧 、遊撃 梁心 等, 咸統于 世爵
参将 方時春 爲中軍, 備禦 韓宗功 爲旗皷官, 兵部員外郞 劉黃裳 、兵部主事 袁黃 爲贊畫, 戶部主事 艾維新 督餉
兵合43000余人, 繼出者8000人
是時 平壤 屯賊, 可萬數千, 竝我民爲兵, 以張軍勢。 経略計以三倍衆擊之(宣修12月1日)
幸州山城の戦い
明軍が南下中との報を受けた全羅巡察使権慄は、明軍と共に漢城を包囲しようと考え、文禄2年2月初旬、水原の禿城山城から漢城の西北で漢江下流12kmにある幸州山に2300人を率いて進出し、ここに柵を設置して陣取り、漢城の日本軍を牽制した。しかし、既に明軍は1月26日の碧蹄館の戦いで日本軍に撃破されていた。
日本軍では、明軍が再南下した場合、幸州山城が前進基地となることを事前に防ぐため、この地の朝鮮軍を排除することに決する。一番から七番まで3万余の兵力がこれに充てられ、2月12日未明に漢城を進発する。攻城は午前6時頃から開始され、3柵の内2柵を突破し、最後の1柵を残すのみとなった。最後の1柵に取り付いた日本軍に対し、城兵は矢を雨のように射かけて抵抗する。それでも柵の一角が破られ朝鮮軍は危機的状況に陥った。このとき権慄は退く者を斬って見せしめとし、破られた柵を修復させた。朝鮮軍では矢も尽きようとしていたが、京畿水使の李蘋が江華島から船隊を率いて漢江を溯り矢を補給する。戦闘は暮に及んだため日本軍はいったん漢城に引き上げることにした。この日、宇喜多秀家、吉川広家・石田三成・前野長康が負傷している。
漢城に戻った日本軍は、攻城道具を用意して再攻撃の準備に取り掛かっていた。この事態に危機感を募らせた権慄以下の朝鮮軍は、17日幸州山城に自ら火を放ち退却していった。これにより当地から朝鮮軍を排除するという日本側の目的は達せられた。結局、権慄は北方の坡州まで退却して明軍との合流をはかった。
日本軍の漢城からの撤退理由
幸州山城の戦いが起こったのは2月12日で、日本軍の漢城撤退は4月18日である。両者は2か月以上間隔が開いており、関係性を見出すことはできない。
そもそも幸州山城の戦い5日後の17日に朝鮮軍が幸州山城から逃げ去ったことにより、当地から朝鮮軍を排除するという日本軍側の目的は達成されていたのであり、この戦いが理由で日本軍が漢城から撤退して釜山周辺まで戻ることは有り得ない。
日本軍の漢城撤退の理由は
漢城で兵糧不足が生じており補給可能な釜山周辺まで戻る必要があったこと。
晋州城攻撃に全力を投入したかったこと。
明との講和交渉開始の目途がたったこと。
こういった理由を挙げることができる。
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