日本に於ける征明構想は何時芽生えたのだろうか?
秀吉の主君織田信長は天下統一の目処がたった1582年(天正10)イエズス会宣教師に向かって「毛利を征服して日本六十六カ国の領主となった後、一大艦隊を編成して支那を征服し、諸国をその子達に分ち与へん」と宣告している(『イエズス会日本年報』)。同様の征明構想を秀吉に対しても語っていた可能性は十分に考えられる。本能寺の変の後、信長の後継者となった秀吉は信長の天下統一事業と共に征明構想をも受け継いだといえる。
秀吉自身の征明構想について現存する史料上確実なものは、紀伊・四国を平定し関白となった1585年(天正13年)、家臣一柳末安に宛てた書状の中で「日本国は申すに及ばず唐国まで仰せ付けられ候、心に候か。」(伊予小松一柳文書)と記録されているのが最初のものである。
1586年(天正14)には日本イエズス会の副管区長ガスパール・コエリョらに「日本を統治することが実現したらならば、日本は弟の秀長に譲り、自分は朝鮮と支那を征服することに専念したい(『イエズス会日本年報』)と告げている。
文禄・慶長の役について、何故このような外征を行ったのか?
文禄・慶長の役について、何故このような外征を行ったのか? 様々に論じられているが、これについて、それほど複雑な理由説明の必要があるとは思わない。海を渡って戦争に勝利し、より広大な領土を手に入れ、より多くの人民を支配し、より多くの富を手に入れ、より強大な軍隊を麾下に置き、これにより名声を手に入れ、名を後世に残すためである。
世界史的に見ると、武力によって自国や自地域を統一した政権が、更に外に向かって拡張を図ることは全く珍しいことではない。ギリシャを統一したアレクサンドロス3世、モンゴルを統一したチンギス・カン、満州を統一したヌルハチ、中央アジアを統一したティムール、イタリア半島を統一したローマ帝国、中東を統一したアケメネス朝ペルシャ等、例を挙げれば枚挙に暇がない。自国や自地域内で武力によって力と名声を手に入れてきた人物にとって、更に外に向かって拡張を図る事は、更に大きな力と名声の獲得を可能とする行為なのである。
日本に目を転じてみると、戦国時代が始まって以来、全国で数多くの武将が征服戦争を続け、その勝者は自らの力を拡張し名声を獲得してきた。織田信長にしろ、豊臣秀吉にしろ、こうした戦国時代を勝ち抜いた人物であり、自国の統一を成し遂げた次に海外への拡張を構想することは世界史的に見ると普遍的な現象といえる。
特に当時はスペイン等のヨーロッパ諸国が大洋を超えて遥か遠隔地に対して征服活動を行っており、このことを信長も秀吉も知らないはずはなく、ならば日本から対馬海峡を越えて征服活動を行う事がそれほど困難なことではないと考えても何も不思議ではない。
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