文禄・慶長の役は豊臣政権滅亡の原因か
日本への影響について、文禄・慶長の役が豊臣政権の滅亡の原因のように述べられることが少なくない。 その理由として
出兵の出費が豊臣政権の財政事情を消耗させた。
出兵した西国大名が疲弊し、徳川家康は出兵しなかったため力を蓄え影響力を増した。
などが述べらえている。
しかし、これらは否定されなければならない。
の否定理由は、秀吉死後も豊臣政権は莫大な資金を蓄えている事実があること。徳川家康は豊臣の資金を恐れ、豊臣秀頼に方広寺大仏殿(秀吉が建立し慶長元年(1596年)に倒壊)の再建をさせたりして出費させようとしたのは有名な話である。 それでも大坂の役で豊臣家は資金力にものをいわせて10万の浪人を雇い入れることができたほど潤沢な資金を蓄えていた。豊臣政権が文禄・慶長の役で財政を悪化させ消耗したなどということはない。
の否定理由は、西国大名は文禄・慶長の役後、多くの出費を伴う行動を活発に行っている事実があること。例えば文禄・慶長の役終決の僅か2年後に起きた関ヶ原の戦いにおいて西国大名は多くの兵力を動員し東西両軍の主力として戦っている。この関ヶ原の戦いで文禄・慶長の役に出征した西国大名の力が、出征しなかった東国大名に比べて劣っていたとは思えない。また関ヶ原の戦い後、全国的に築城が極めて活発に行われているが、築かれた城郭の内、天守や高い石垣を持つ豪壮なものは、一般に東国大名の城郭よりも、むしろ西国大名の城郭に多いくらいだ。しかも、これらの築城工事は江戸城工事など德川幕府への手伝い普請の実施と併せて行われているのである。さらに、西国大名達は盛んに大船の建艦競争も行っており(慶長14年(1609年)に幕府が大船建造の禁を出すほどの激しい建艦競争)、巨大な大安宅船が西国大名たちによって建造されたのも文禄・慶長の役や関ヶ原の戦いの後なのだ。もし文禄・慶長の役の軍役により西国大名が疲弊していたなら、これら多額の出費を要する行為は行えなかっただろう。むしろ、文禄・慶長の役の後の行動を東西の大名を比較してみると、西国大名のほうが東国大名よりもエネルギッシュにさえ思える。そもそも、戦国時代開始以来、西国でも盛んに戦争が繰り替えされているのであり、そのたびに各大名は多くの軍事動員を行っている。それらの軍役に比べて文禄・慶長の役における軍役が特別に重いものでないことは動員兵力を比べてみれば明らかだ。むしろ国内で行われた各大名間の抗争のほうが、存亡をかけたもので、自己の生存のため最大限の軍役を行わなければならない。しかも、しばしば自国領が戦場になっているため、こちらのほうが領土の荒廃をもたらし大名の疲弊を招いていたはずだ。これに対し全く自領が戦場にならない文禄・慶長の役で特別に西国大名が疲弊したことになるのは奇妙な話である。
豊臣政権滅亡の原因は、秀吉が死去した時点で、徳川家康のような野心と実力を兼ね備えた人物が存在し、後継者の秀頼が幼児でしかなく、とても政権を統率できる状況になかったからに過ぎない。このような状況では、文禄・慶長の役が行われていたか、行われていなかったかに関わらず、豊臣政権が維持できた可能性は薄い。
現在の文禄・慶長の役についての研究や報道は、政治的意図により否定的なものにしなければならないという前提条件がつけられ、そのため恣意的に歴史が構築されることが多い。このような行為は歴史的事実を歪める作用をはたしている。
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