慶長の役で日本軍の進攻に対抗できなかった明・朝鮮
慶長の役では朝鮮軍や明軍が準備を整えていたため日本軍は前進できず押し戻されたなどという説が存在するが事実ではない。
日本軍の進攻が始まったころ、明が派遣した援軍の兵力は明史・朝鮮伝で僅か1万7千、宣祖実録8月5日条では僅か1万余と、14万余を派遣した日本軍に全く対抗できるものではなかった。また、日本軍の進入に先だって朝鮮の城郭では強化修築工事が行われているが、これも効果はなく、戦って壊滅するか、戦わず逃亡するか、いずれかの結果に終わっている。朝鮮が頼みにしていた水軍も漆川梁海戦で壊滅状態となっており、これは朝鮮にとって文禄の役よりもかえって最悪の状況に陥ったといえる。結局、明・朝鮮軍は日本軍の攻撃に対抗することができず防衛体制は破綻し、全羅道・忠清道の席捲を許すことになる。
慶長の役編成(全軍計141500人)
講和交渉の決裂後、先鋒の小西・加藤が慶長1年末から翌2年1月ごろに朝鮮に入っているが、主力の諸勢は4月以降漸次渡海し、7月には14万を越える大軍が釜山周辺に出揃った。 これに対し明でも麻貴を備倭大将軍として朝鮮に軍を派遣するが、その数は僅か1万7千に過ぎなかった(明史・朝鮮伝)(他に宣祖実録8月5日では「僅か萬餘」と記す)。また同時に各地から兵を徴集するが、これが朝鮮に入るのは、だいぶ後のことになる。このため慶長の役が始まっても、明軍の戦力は日本軍に対抗出来るものではなかった。
釜山周辺に集結していた日本軍は7月15日漆川梁海戦で朝鮮水軍を殲滅すると陸上でも全羅道を目指して進撃を開始する。このとき明・朝鮮軍では全羅道と慶尚道との道境付近にある南原城と黄石山城で守りを固めていた。
日本軍は左軍と右軍の2隊に分かれ西進し、左軍は8月15日南原城を攻め落とし(南原城の戦い)、右軍は8月16日黄石山城を攻め落とす。続いて両軍は全羅道の中核都市全州に向かって併進した。するとここを守る明将陳愚衷は恐れをなして逃走したため戦うことなく8月19日全州を占領する。ここで諸将は軍議を開き、全羅道及び忠清道を掃討し、その完了後は転進して沿岸部へ築城するという既定方針が再確認されるとともに、より具体的な事項が決定され、順次進発してゆく。
7月15日 漆川梁海戦 - 藤堂高虎対元均
8月13日 南原城の戦い - 宇喜多秀家対楊元
8月16日 黄石山城の戦い - 加藤清正、毛利秀元、黒田長政、鍋島直茂