1期;4月13日の釜山攻略から日本軍一番から八番までの各隊は、朝鮮国の心臓部漢城を目指しまっしぐらに進撃。進路以外はほぼスルー。
2期;5月初めの第一次漢城会議の方針(朝鮮全土制圧) に沿って慶尚道南部では一部部隊が釜山から西方に向かって水陸から支配域の拡大を目指す。泗川付近まで占領していたようだ(その先は全羅道へ続く)。これに対し海上では李舜臣等が反撃(一次、二次出撃)、陸上では郭再祐等が反撃(鼎津の戦い)。日本軍の進撃を阻止。
3期;日本軍の西方進出を阻む朝鮮水軍を撃滅するため、九鬼・脇坂・加藤嘉明を加え、本格的に水軍を編成し、7月7日閑山島海戦となるが日本水軍敗退。海戦を停止して巨済島に築城を開始する。
4期;日本軍は8月の第二次漢城会議の方針(占領地不拡大と要路への兵力集中)に沿って、慶尚道南部でも釜山付近まで撤収する。ところが、この結果李舜臣等の朝鮮水軍は釜山への攻撃が可能となり、釜山の攻略を目指し8月29日海上から攻撃する。この攻撃を日本軍は撃退するが、停泊船舶に損害を受けた。そのため釜山の安全を確保するため外郭防衛圏形成の必要性が生じる。
5期;日本軍は釜山西方に外郭防衛圏を形成するため、九番隊(+α諸隊含む・豊臣秀勝は既に病死)を西方に向け進撃する。これが一連の第一次晋州城戦役(10月5日晋州城の戦い)で、晋州城の攻略には失敗するが釜山西方に外郭防衛圏は形成される。
6期;以後、朝鮮水軍の攻撃は、熊川から巨済島付近に限定され、釜山の安全地帯化に成功する。
「李舜臣の活躍により日本軍の補給路が断たれた」といわれることがあるが、そのようなことはない。詳細はtokugawaブログ: 李舜臣が日本軍の補給線を寸断したという虚構(文禄の役編)を参照のこと。
李舜臣の作戦行動
一次出撃
玉浦海戦5月7日 以下元均と合同
合浦海戦5月7日
赤珍浦海戦5月8日
二次出撃
泗川海戦5月29日
唐浦海戦6月2日
唐項浦海戦6月5日 以下李億祺が加わる
栗浦海戦6月7日
三次出撃
閑山島海戦7月7日
安骨浦海戦7月9日
釜山攻撃8月29日
熊川攻撃
1593年
2月 10日・12日・18日・22日
3月 6日
釜山浦の戦い(釜山浦海戦)の勝敗を検討する
文禄元年(1592年)8月29日、李舜臣以下の朝鮮水軍が釜山を攻撃した。この「釜山浦の戦い(釜山浦海戦)」について、参謀本部編纂『日本戦史・朝鮮役』「釜山ノ戦」では朝鮮水軍の敗退として書かれている。ところが、現在の韓国ではこの戦いが朝鮮水軍の大勝利と全く逆の扱いを受けていることが多い。そこでこの戦いの勝敗について検討してみることにする。
勝敗を検討するにあたり、まず朝鮮水軍は何のために釜山を攻めたのか、その作戦目的を知る必要があるので、各種史料を見てみよう。
八月、李舜臣進攻釜山、鹿島萬戶鄭運死之、舜臣引兵還。舜臣謂諸將曰、「釜山、賊之根本也。進而覆之、賊必失據。」遂進至釜山・・・・
李忠武公全書 巻之十三 附録五 『宣廟中興志』
「釜山は賊(日本軍)の根本なり。進んで之を覆せば、賊(日本軍)は必ず據(拠)を失う。」と李舜臣は言って釜山攻撃を始めている。
日本軍が占領し根拠地となっている釜山に進撃して、これを覆し、日本軍の拠り所を失陥させる。それが作戦目的という。別の言い方をすれば釜山の奪還が朝鮮水軍の作戦目的ということだ。
よく似た内容が『宣廟中興志』以外にも書かれている。
公與李億祺、元均、助防將丁傑等相議曰、「釜山爲賊根本。蕩覆其穴、則賊膽可破。」遂與進至釜山・・・・
李忠武公全書 巻之九 附録一 『行録』
公與元均、李億祺、丁傑等計曰、「釜山、賊之喉也。進而扼之、賊必失其據。」遂進逼釜山・・・・
李忠武公全書 巻之十 附録二 『行状』
公進撃釜山、欲覆其根・・・・
李忠武公全書 巻之十 附録二 『神道碑』領議政金堉
さて、この戦いが終結したとき釜山は覆っただろうか? 戦いが終決したとき日本軍は釜山を失っただろうか? いや、そんな状況には全くなっていない。つまり李舜臣は作戦目的の達成に失敗したということだ。
釜山の奪還に失敗した李舜臣であるが、彼は報告の中で100余隻という膨大な数の日本船を破壊したと主張している。これだけの大戦果を挙げたのだから、たとえ作戦目的を達成していなくても朝鮮水軍の大勝利ではないかという意見も出てくるかもしれない。しかし、このような膨大な戦果を証明するものは何もない。もちろん日本側記録でも確認できるものではない。戦史研究の一般論として、このような自称大戦果を安易に受け入れることは健全なことではなく、真偽の検討を要することだ。
戦闘後、もし李舜臣が自身の保身を望むなら、作戦失敗、即ち敗北を覆い隠す必要がでてくる。そのためには膨大な戦果がどうしても必要となってくる。100余隻という自称大戦果はそうした背景で成された報告である。こうした要素を勘案すると、やはり100余隻破壊という大戦果をそのまま受け入れることはできない。
そして、100余隻だった大戦果は後に編纂された『宣祖修正実録』(宣祖二十五年八月戊子条)では400余隻というさらに巨大な数値に膨れ上がっている。
李舜臣等攻釜山賊屯、不克。倭兵屢敗於水戰、聚據釜山、東萊、列艦守港。舜臣與元均悉舟師進攻、賊斂兵不戰、登高放丸。水兵不能下陸、乃燒空船四百餘艘而退。鹿島萬戶鄭運居前力戰、中丸死。舜臣痛惜之。
『宣祖修正実録』(宣祖二十五年八月戊子条)
このことから『宣祖修正実録』(宣祖二十五年八月戊子条)の編者の立場は李舜臣を持ち上げろうという意図で書かれていることが判る。しかし、そのような編者でも、釜山の奪還に失敗したという事実を根本的に覆い隠すことはできなかったようで、釜山浦戦いを「不克(勝てなかった)」と論評せざるををなかった。この「不克」というのは敗北の婉曲表現である。敗北という直接的表現を使うことは李舜臣を持ち上げろうという意図を持った編者には出来なかったのだろう。
以上、ここまで見てきたとおり「釜山浦の戦い」は朝鮮水軍が敗北した戦いであると結論づけることができる。
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