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「恋しくは」の系譜

平成11年卒・塩谷沢生

御伽草子には「物くさ太郎」という伊文字に良く似た話があります。筋金入りの怠け者の物くさ太郎が、都で見初めた女を連れ帰ろうとします。住処を尋ねられて困った女は、適当に歌に謎めかしてあしらおうとするのですが、物くさ太郎はすらすらと謎を解いてしまいます。

「松のもとといふ所にて候」「松のもととは心得たり、明石の浦のこと」

「ただし日暮るる里に」「鞍馬」

とこういう感じで歌問答が続くのですが、最後に女が切羽詰まって詠んだ歌、

「思ふならとひても来ませわが宿はからたちばなの紫の門」

と、この歌だけはそれまで切れ者ぶりを発揮していた彼にも何故か解けず、女は一旦逃げおおせることになります。諦めきれない物くさ太郎は、侍所を尋ねてこの歌を解いてもらい、ようやく再会を果たします。めでたく女と結婚した太郎はその後も歌の才能を発揮し、子々孫々栄えた、というお話です。

狂言「伊文字」とこの物くさ太郎の物語の類似性を指摘した下房俊一氏の論文によれば、同じように「恋しくは」の歌を解いて相手を探す話は全国に広まっていて、同じような趣向の歌が各地に伝わっています。氏の分析によれば、これらのヴァリエーションに共通するのは、謎を解くにあたって、他の人々の援助が求められているという点です。それは和尚だったり座頭だったり果てには「巡査のような者」という伝承さえあるのだそうですが、とにかく主人公が謎を解いてはいけない。この解き手というものが、「かならず一度は顔を出すという、ぬきがたい伝統ではなかったであろうか」と述べています。

このことを踏まえれば、伊文字のシテである旅人はこの「解き手」に他ならず、歌関を設けるというこの曲の趣向も、謎を解く解き手を登場させるため、と説明することができます。こうした状況設定の中で、演者が地名を列挙したり、言葉遊びのアドリブを混じえたりしながら謎を解いてみせる、それこそがこの曲の醍醐味であったのではないだろうか、と下房氏は推論しています。

ところでこの伊文字の歌にはそもそもの由来が知られています。 伊勢の国の伊勢寺本は現在の三重県松阪市にあり、ここには「井の本」という古井戸が現存しているのですが、その脇にたつ石碑には、「恋しくは尋てもこよ伊勢の国いせ寺本にすめるわらハを」と刻まれており、これが伊文字の典拠であるのはほぼ間違いないようです。下房氏はこれは恐らくは「澄める」であり、井戸とその管理者である女性にまつわるなんらかの伝承があったのではないか、としています。

また徳江元正氏はこれに関連して、伊勢に三輪伝説の変種がつたわっており、その中では三輪神が何故か女性となっていることを指摘しています。残念ながら井の本に伝わっていたであろう伝承は既に失われていますし、それがどういう形で「伊文字」にとりこまれたのかもはっきりしたことはわかっていません。ただそれは三輪伝説に近い形のものであったろうとは推測できます。

ある女のもとに夜毎、男が通ってくる。女はとうとう子供を身篭ってしまったが、男は正体を明そうとしない。そこで糸針をひそかに男の衣服につけて後を追うと、「我が庵は三輪の山本恋しくはとぶらひ来ませ杉立てる門」と歌を残して男は姿を消してしまった。歌の通り尋ねていくと、果たして三輪の神が顕現したのであった。

「恋しくは」の歌が三輪神を顕現させる機能を担っていることに注目しましょう。直接姿を明かすのでもなく、そのまま消えてしまうのでもなく、謎という形で正体を暗示することによって、三輪神は初めて神性を持つ存在として顕現できるのです。

しかし同じ謎という形式を受け継いだ「物くさ太郎」や民話においては、歌の向こうにあった神の姿は薄れ、「恋しくは」の歌は人間同士の恋の歌へと変質していきます。その結果として、歌自身の持つ謎をどう解くかという言語遊戯の側面が強調されていくことになるのです(これらの話においては、女が実は高貴の出自であったり分限者の娘であったりするところにかろうじてその名残りを伺うことができます)。

では狂言「伊文字」はと言えば、言語遊戯の曲というには程遠く、笑いの少ない脇狂言となってしまっています。下房氏の解釈ではそれは、「伊文字」が典拠となった伝承に縛られていたためと、そもそも狂言は言語遊戯に向いていないからだとしています。そのような制約があったが故に、伊文字は「拍子にかかっておもしろおかしくまいくるう、めでたい曲として定着するより道はなかったのである」というのが氏の結論です。その背景として、中世の躍動的な世相が江戸時代になって失われていったことも指摘しています。

しかしこの辺りの氏の論旨は多少無理があるように見えます。伊文字の類曲である「二九十八」や「酢薑」などは狂言にとりいれられた言語遊戯の良い例でしょう。

むしろ伊文字は三輪伝説の流れを色濃く受け継いだ狂言であるがゆえにこそ、単なる言語遊戯に堕すことなく脇狂言としての格を保ちつづけているというべきでしょうか。

伊文字のシテはひたすら「伊文字のついた国(里)の名」が繰り返される中、何度も急廻りを繰り返します。茶壷や昆布売の、当時の流行歌を取り入れたと言われる謡や舞とは明らかに違うその所作は、狂言以前の芸能の流れを引いているようにも思えます。伊文字の曲の最後に交わす、「あの日をごらふぜ」という呼びかけは神事で使用される歌と良く似ているのだそうです。中世の伊勢寺本の古井戸では、もしかすると伊文字の曲の原形が演じられていたのかもしれません。

参考文献 

「伊文字―その変遷―」島根大学文理学部紀要 昭和48年8月 

「いの字のつく国の名―『伊文字』の背景―」能楽タイムス昭和61年3月 

*この文章は2001年五月祭パンフに掲載された文章を加筆修正したものです。