大国主と神屋楯比売との間に生まれた。葦原中国平定において、タケミカヅチらが大国主に対し国譲りを迫ると、大国主は美保ヶ崎で漁をしている息子の事代主が答えると言った。そこでタケミカヅチが美保ヶ崎へ行き事代主に国譲りを迫ると、事代主は「承知した」と答え、船を踏み傾け、手を逆さに打って青柴垣に変えて、その中に隠れてしまった。タケミナカタもタケミカヅチに服従すると、大国主は国譲りを承諾し、事代主が先頭に立てば私の180人の子供たちも事代主に従って天津神に背かないだろうと言った(wikiより引用)。
事代主がいた美保関には、美穂津姫を祭る美保神社がある。美保神社は恵比須様を祭る総本山とされている(美保神社)。事代主と美穂津姫を祭っている。
美穂津姫は、高皇産霊尊の娘で、大国主神の后である。『日本書紀』の葦原中国平定の場面の第二の一書にのみ登場する。大己貴神(大国主)が国譲りを決め、幽界に隠れた後、高皇産霊尊が大物主神(大国主の奇魂・和魂)に対し「もしお前が国津神を妻とするなら、まだお前は心を許していないのだろう。私の娘の三穂津姫を妻とし、八十万神を率いて永遠に皇孫のためにお護りせよ」と詔した(wikiより引用)。
事代主の母は神屋楯比売であり美穂津姫ではない。美保関町には、事代主が鶏を嫌うという言い伝えがある。事代主の妻訪い(妻問い)の物語があり、「事代主は、夜毎海を渡って対岸の揖夜(イフヤ)の里の美保津姫のもとへ通っていたが、鶏が間違って真夜中に鳴いたため、事代主はうろたえて小船に乗ったものの、櫂を岸に置き忘れて仕方なく手でかいたところ、鰐(サメのこと)に手を噛まれた。以来、事代主は鶏を憎むようになり、それにあやかって美保関では鶏を飼わず、参詣人にも卵を食べることを戒める」としている。現代でも、事代主を再現した美保関の青柴垣神事の際に当屋に指名された者は、1年間鶏肉を食べないで身を清める習わしがあり、美保関から中海を渡った対岸には、美穂津姫を祀った揖夜神社がある。美穂津姫は、大国主の妻でもあり事代主の妻でもあるということになる。
一方、村屋坐弥冨都比売神社(むらやにますみふつひめじんじゃ)は、三穂津姫命(別名 弥富都比売神)を主祭神とし、大物主命を配祀しており、三穂津姫命は大物主の妻となっている。美穂津姫は、饒速日の妻でもある。
宗像大社の中津宮に祭られている宗像三女神の一柱であるタギツヒメ(『古事記』では多岐都比売命、『日本書紀』では湍津姫)と表記される)は、大国主との間に八重事代主と高照光姫を生んだとされる。神屋楯比売とはタギツヒメのことだろうか。そうなるとタギツヒメはスサノウの娘であり、高皇産霊の娘ではなくなる(養女ということか?)。高照光姫は、高比売命(たかひめのみこと)、下光比売命・下照比売命(したてるひめのみこと)ともいわれる。
ちなみに籠神社(このじんじゃ)にある海部家系図によれば、イチキシマヒメ(市寸島比売命、市杵嶋姫命)は饒速日の妻となっている(籠神社HP)。
タキリヒメ(多紀理毘売命、田心姫(たごりひめ)、田霧姫、奥津島比売命)は、大国主命との間に阿遅鉏高日子根神(あぢすきたかひこね・味耜高彦根神)と下照姫(したてるひめ)を生んだとされる。
事代主は、大国主ではなく大物主すなわぎ饒速日の息子との説について(古代史の復元)。
阿遅鉏高日子根は賀茂氏の祖ともいわれる。(玄松子)
なお、山口には阿知須(あじす)という土地がある。アジガモが州に多く群れていたことがその語源とされる。