古事記を解読するときに留意しなければならないこと その1
古事記は、太安万侶が稗田阿礼が記憶していた帝紀、旧事の内容を暗唱し、それを聞き取って漢字で書き表したものである。日本に漢字が輸入されたのは3世紀ころ、それ以前には神代文字はあったとしても漢字は使われていなかった。それ以前のことばは、漢字で表現できるものではなかった。
太安万侶自身、漢字で表現するのに苦労したと書いている。
今の日本人は、漢字を表意文字として用いているので、漢字に意味を見出して理解しようとしてしまう。
だから「天」という漢字を見ると、空、宇宙、天体などとの意味を付加して理解していまう。それは間違いである。
「天」は、「あま」の表音記号である。それ以上の意味はない。空とか、天空という意味はない。
「あま」を「天」と表記したのは、天皇家を神格化して権威付けするためにすぎない。
「高天原」も、「たかあまがはら」の表音記号であり、天空の城ラピュタ出てくるような空の上に浮かんでいる土地という意味はない。
古事記を解読するときに留意しなければならないこと その2
古事記の記述には、比喩的な表現が用いられている。現代人も比喩的な表現を用いる。例えば、「上る」「下る」。本来的な意味は、低いところから高いところに移動することを「上る」その逆を「下る」というものだが、天皇の都(みやこ)に行くことを「上る」その逆を「下る」ともいう。高い低いは関係ないのである。「天下り」も同じである。空から舞い降りることをではない。「生まれる。」に同じで、分娩のことだけではなく、きずなが「生まれる」、発明が「生まれる」のように、今までなかったことが現れること、知らなかったことを知ることなども「生まれる」という。こういう比喩的表現を字面のとおりにとってはいけない。
また、古事記の神代の記述は、長年口伝されたものである。いうなれば伝聞証拠の最たるものである。その間に聞き間違い、言い間違い、時間の経過による記憶の変遷、意図的な内容の変更(誇張、歪曲も含む)が加えられ、本来あった事実とは異なるものとなっている部分があることは疑いない。
そのため、古事記には、字ずらのとおりでは、奇想天外、荒唐無稽で到底信用できないものがあるが、根も葉もない創作、世迷い事が、長年、天皇家において、信じられ、口伝されてきたとは考え難い。そこには口伝のもとになる事実があったはずである。それを見出すことに努めなければならない。
古事記を解読するときに留意しなければならないこと その3
古事記が書かれていたときの日本の地理と今とは異なる。
今の地理を前提に考えたのでは古事記を理解できない。「そんなわけないじゃん。」と誤った評価をすることになる。
一つは、縄文海進。昔は今より海面が高かった。
二つは、紀伊半島は、年々隆起している。昔はもっと低かった。
大阪湾は今よりずっと深くまで海で、河内湖を形成していた。
神武東征で神武天皇は「浪速の渡」(なみはやのわたり)を越えて湾に進入し楯津(古事記編纂時の「日下の蓼津」)に上陸したとされている。今の地理を前提にするとありえないと思えるが、当時の地形に合致している。
また、奈良盆地の中心には奈良湖があり、大阪湾とつながっていた。
だからこそ、奈良は、やまと と呼ばれ、みやこ が置かれ、日本の中心となって栄えたのである。
今の地理、地形を前提に古事記を理解しようとしてはいけない。当時の地理を前提にすれば古事記が事実に沿うものであることがわかる。