宮島の厳島神社は、社伝では、推古天皇元年(593年)、当地方の有力豪族・佐伯鞍職が社殿造営の神託を受け、勅許を得て御笠浜に市杵島姫命(いちきじまひめのみこと)を祀る社殿を創建したことに始まるとされる(wiki)。以降、代々、厳島神社の宮司は佐伯氏が行っている(一時的に藤原氏にとられたことはあるが・・)。
佐伯氏は、安芸国造である飽速玉男命(あきはやたまおのみこと)の子孫である。飽速玉男命は、 饒速日命が東征した際の随身の一人、天湯津彦命(あまのゆつひこのみこと)の5世の孫とされる。天湯津彦命は、安芸津彦神社で祭られている安芸津彦と同神とされる(なお、飽速玉男命の子孫がなぜ佐伯氏を名乗るに至ったのかについては佐伯直参照)。
飽速玉男命は、速谷神社に祭られている。その宮司は厳島神社同様に代々佐伯氏が行っている。佐伯氏はその後朝廷から安芸の田所職(たどころしき)に任じられて、田所(たどころ)姓を名乗るようになり、安芸国の国司に任命されている(田所明神社)。
田所明社がある広島市府中町は、安芸国府があったところで、神武天皇東征のおりには、多祁理宮(タケリノミヤ・古事記)又は埃宮(エノミヤ・日本書紀)がおかれていた。神武天皇はここに7年滞在されたとされている(多家神社・たけじんじゃ)。なお、神武天皇は、宮島にも立ち寄ったとの伝承がある(神武天皇東遷経路 安芸埃宮)。
さて、天湯津彦命が何者かについてはよくわからないが、安芸は素戔嗚尊系の出雲族の支配地であったから、出雲系の豪族である可能性が高い。その子孫の佐伯氏がなぜ厳島神社の宮司をするのかもよくわからないが、市杵島姫命が宮島に来たという伝承があることから、天湯津彦命は市杵島姫命の子孫なのかもしれない(父は饒速日?猿田彦?)。