05 満州国の首都であった長春(新京)に住んでみて

加藤正宏

 満州国の首都であった

長春(新京)に住んでみて

(七十年前に中国東北地区に

満州国が建てられた)

加藤正宏

 耳が痛い、いや目が痛いというべき記事を長春市の『新文化報』という新聞で、目にした。「これは世界史上でもごく珍しい滑稽な『外交』である。」と強烈な指摘である。この前段は次のようなものである。「一九三二年、偽満州国成立後、前後してドイツ、イタリア、スペイン、『自由インド』、フィンランドなど、ファシズム枢軸国に占嶺されたか或いはファシズム傾向をみせている一群の国家との間に、偽満州国は外交関係を樹立した。当時、長春市の東西万寿路(今、東西民主大街一帯)は『大使館区』となり、ドイツ、イタリア、シャム(タイ)の国々はここに大使館を建てた。これらの国と異なるのが、南京の汪精衛偽政権と偽満州国間の外交関係であり、日本の侵略者によって操縦された、もともと同一国土内の傀儡政権同志の外交樹立であった。」

 中国で「偽」を被せて呼称する「満州国」は日本の歴史教科書でも「政治の実権も日本人が握る傀儡国家であった」①とあり、「汪精衛偽政権」についても、彼を「日本軍の占領する地区に迎え、一九四○年、新しい国民政府をつくらせた」②とあるように、これらの国家成立の歴史事実認識は当然日本人の歴史教師として私は有していた。だが、今回、「珍しい滑稽な『外交』である。」と指摘されて、これらの政権と日本の関わりを私は改めて考えさせられてしまった。

 この記事は、溥儀の宮殿付近一帯が整備されて庶民の住居が取り壊されていく過程で、庶民の住居の後方に隠れていた汪精衛偽政権の駐偽満州国大使館が姿を現したことを紹介し、この建物を取り壊すべきか保存すべきかを問い掛けたものであった。

 ラスト・エンペラーとして知られる清朝最後の皇帝愛新覚羅溥儀を執政(後に皇帝)として建国されたのが満州国である。その首都が長春で、当時は新京と呼ばれていた。この都市も、社会主義市場経済の進展する中で、当時の古い建物は取り壊されて新しい高層の建物に次々と姿を変えつつある。そんな中、『偽皇宮』と呼ばれる溥儀の宮殿は、博物館として保存され、建物の前の記念碑には江沢民総書記の字で《『九・一八』③を忘れる勿れ》と刻まれ、反面教師の役割を担ってきている。見学した小学生の費瑤は作文の最後に「・・・自国を強大にし、恥辱を受けぬようにせねば。」④と書いていた。現在、汪精衛偽政権の駐偽満州国大使館も反面教師の役割を担うべく、整備が進んでいる。

 二〇〇〇年の九月から吉林大学の外語学院に専家として迎えられ、日本語を教えて二年が経過しようとしている私は、もともと兵庫県の県立高校の歴史の教師であり、この都市と日本の関わりに強く心が惹かれてきた。その関わりを示す遺構が私の勤める吉林大学そのものにも見られる。

 吉林大学は私が赴任する数カ月前に長春市内の吉林工業大学・ベーチュン医科大学・長春科技大学・長春郵電学院を統合して、中国でも五指にのぼる新たな規模の大きい吉林大学となり、その建物や敷地は市内各所にあって、吉林大学の中に長春の町並みがある感じさえ与えている。そして、この大学の校舎や敷地に満州国時代の建造物をいくつも見ることができる。解放大路(康仁大路)面した本来の吉林大学の建物の一つは満州炭鉱会社のそれだし、この敷地内に神武殿ある。吉林工業大学の校務楼は満州国の官吏を養成する大同学院の建物(解体されて新しい建物が建設中)であったし、中央警察学校の建物は未だに外観はそのままである。ベーチュン医科大学の建物として使用されていたのが新民大街(順天大街)に面した満州国期の国務院や軍事部(部は日本の省にあたる)、司法部、経済部、交通部の建物であり、文化広場の北面に建つ長春科技大学の建物は満州国の新皇宮建設途中の基礎の上に建った校舎である。

 本来の吉林大学と吉林工業大学の敷地内道路のマンホールの蓋には「新京」の文字が刻まれているが、学生たち全く意識することもなく、自転車や自らの足でこの蓋を踏みつけて通っている。国務院であった建物の四階にある総理大臣の執務室が「偽満州国国務院旧址展覧館」になっていて、見学することができるようになっている。動いてはいない当時のエレベーターと、その横にある大理石の階段には満州国の紋章が刻まれているが、薬品の匂いがぶんぷんする実験着を纏って、この階段を上り下りする学生たちの目には、この紋章もただの図柄にしか映らないようだ。展覧館になっている部屋の様子も知らないようだし、知りたいとも思っていない者がほとんどのようである。ことさら、満州国のなになにだと意識に上らせる必要が彼らには無いようだ。だから、展覧室に日本から贈られたれた満州国当時の冷蔵庫とオーブンが、総理大臣の張景恵の胸像ともに展示されていることも、学生たちは知らない状況だ。

 これら満州国時代の建物の多くには偽満州国の旧址であることを示す重要文物保護単位の石板が嵌め込まれ、愛国の為の反面教師たらしめようと、政府が意図していることは窺えるのだが、それを受けとめる若者との間に温度差が起きている感がある。

 昨年九月一八日の午後九時過ぎ、長春ではサイレンが三○分間にわたって、唸るように市内全域で響き渡り続けた。九・一八事変の七○周年目にあたるこの日、沈陽(瀋陽)でもハルピンでも同じようにサイレンが鳴り響き、様々な政府主導の儀式が催された。

 今年の三月一日には、満州国建国から七○年経過したことになる。ところで、私の学生の中には、私の祖母は満州国時代にやってきた日本人だという中国人学生が居る。また、清明節に、中国人の父親の墓参にやってきた元残留孤児の娘さんにも出会った。また、私の出会ったかぎりでは、当時、日本人と生活の場を共にしていた中国人の中に、日本人に反感や敵対意識をことさら持っている老人はいなかった。庶民(中国風には人民、老百姓)レベルでは、多くの中国人や日本人が、大局的な歴史視点(国家による侵略、被侵略)を当時は欠いたまま、国を動かしていた連中とは全く異なり、生活現場でのごく普通の人間的な交わりを持っていたように思われる。

 大きな負の歴史に翻弄された日中両国の庶民が、このような歴史の中でも、人間的な交流を生んでいたのだ。この流れを絶やすべきではない。そのためにも、満州国に対する大局的な歴史視点を、中国人だけでなく、私たち日本人も持つ必要があろう。今年の三月一日は建国七○周年にあたる。満州国建国の歴史に目を向けてみようではないか。

(2002年2月)

註①「高校日本史B」実教出版189頁

註②「高校日本史B」実教出版197東

註③ 柳条湖事件(1931年9月18日)

註④「長春晩報(2001年6月17日)

補足

*2002年3月1日

長春では何も政府主導の儀式はなく、新聞も一行すら、満州国の建国に言及したもの

なかった。

*一年目に大学から部屋を与えられ、私が住んでいた建物は当時のタイ大使館であった。










汪精衛政権の大使館



江沢民の碑と偽皇宮



溥儀の住んだ偽皇宮



















旧満炭



旧経済部



旧国務院



旧交通部



旧軍事部



旧神武殿



長春科技(現吉林)大学



旧司法部



旧中央警察学校



満州国の紋章

マンホールの蓋「新京」