02 旧瀋陽北駅

加藤正宏

旧瀋陽北駅   加藤正宏

 現在の瀋陽北駅は中華人民共和国の成立後に計画され、第一期工程が竣工して、開通したのが1988年だそうだ。この時から旧瀋陽北駅の使用は停止された。路上の古本市などで入手できる80年代前半までの瀋陽市内交通図などを見てみると、現在の瀋陽北駅の南に位置する恵工広場が旧瀋陽北駅の東北東に描かれて、現在の瀋陽北駅はまだ描かれていない。旧瀋陽北駅は現在の駅とさほど遠くはない。実際、現在の瀋陽北駅から歩いてみて、20分強というところである。恵工広場から南に見える高架道路沿いに西に行くと、北京大街に北三経街つながる所に行き着く。高架道路に南接して、この二つの道路はつながっている。そこには中華人民共和国の国章が目立つ瀋陽市人民代表大会常務委員会の建物がその二つの道路に挟まって建っている。

 この目立つ建物から北三経街と交叉する総站路を西へ、つまり高架と平行に西に数分行けば、旧瀋陽北駅、現在の瀋陽鉄路分局に到達する。また、政府の建物など気にせずに高架道路下の道路に沿って、そのまま西へ行くと、南側に旧瀋陽北駅の裏面からの姿が見えてくる。バスなら、現在の瀋陽北駅から604路、502路で、3つ目前後の総站路バス停を降りれば、旧瀋陽北駅、現在の瀋陽鉄路分局の前に立てる

 旧瀋陽北駅は日本が経営する南満州鉄道の「奉天駅」に対抗して、奉天省(中華民国)が投資した官民合弁の奉吉線(現在の瀋吉線)の駅として建てられた物で、西欧的な外観を持つ、その待合室であった大ホールは蒲鉾型の屋根を持ち、その最も高くなっているとろは地上から18メートルの高さがある。横幅は16メートル、長さ30メートルだそうだ。その屋根を支える両側の半円形の部分は採光を考えたガラス張りになっている。西欧の、列車が発着する駅が想起される造りである。

 この建物が竣工し、遼寧総站と名付けられ、列車が開通し走り始めたのが1930年のことであった。翌年の1931年には満州事変が日本の軍部によって引き起こされ、日本が中国に侵略していく15年戦争の泥沼に入り込んで行った年である。この事変のきっかけとされているのが、南満州鉄道爆破(柳条湖)事件という、戦争の口実を引き出すための日本軍の自作自演の爆破事件であった。

 中国ではこの日の日付から、九一八事件と呼び、教科書で教えられるだけでなく、この日9月18日前後には、政府やマスコミの音頭で「国の恥を忘れず、中華を振興させよう」のスローガンの下に行事が組まれる。今年も、18日の午後9時18分から一斉に一般市民も参加して、サイレンと警笛が3分間鳴らされた。

 爆破事件であった場所には、現在、九一八歴史博物館が建てられている。212路や298路バスに乗れば行ける、市内の東北にある。

 事変後、遼寧総站から奉天総站に改称し、1934年には満鉄管轄下に置かれて北奉天駅と改称されていたこの駅も、日本の敗戦後の1946年には瀋陽北站と呼ばれるようになって、88年まで東北の客運駅としての役割を果たしてきていた。

(建物の数値は『瀋陽市建築業志 二 』中国建築工業出版者社1992年出版の453頁に記載された数値を引用させてもらった。)


(2004・10・12)

「20  瀋陽東站(旧奉海站)に出かける」も参照