イメージ・コレクション其之十一

『It's only a paper moon』


1933 年に作曲されたこの表題の曲は、同年の映画『テイク・ア・チャンス』、そして 1973 年の『ペーパー・ムーン』の 主題歌に使われた。一説によれば、G・メリエスの『月世界旅行』(1902 年)に出てくる、顔のある月と三日月に座る女神 の二つのイメージが合わさり、この大ヒットした映画公開後のアメリカで記念写真の背景書き割りとして流行したものがペー パー・ムーンと呼ばれたという。

「ただの紙製のお月様」、闇に幻影を映し出す装置にも昔は紙製のものがあった。18 世紀後半長崎にもたらされた幻燈は、 レンズと金属筒と灯油ランプを組み合わせた精巧な装置であったが、これを模倣した日本の幻燈は前回の『座敷影絵』に見 たように木製の簡単な作りで「風呂」と呼ばれた。後には複数の風呂を用いる芝居仕立ての幻燈見世物(江戸では写し絵、 上方では錦影絵)となり明治まで隆盛を誇った。また明治初期には西洋幻燈が再渡来し(注)、木製の風呂と金属製幻燈は併 用されていたが、その発明当初から幻燈スライド(江戸以来「種板」、明治の一時期には「映画」とも呼ばれていた)は洋の 東西を問わずガラス板が用いられていた。ところが最近みつけた木製の『軽便幻燈器』(図 1)の種板は紙製で、絵柄は木版 刷りに手彩色であった(図 2)。 おそらくは明治初期、幻燈の再渡来から間もない時期に製造されたと覚しい子供向けの玩具である為に、まだ高価であっ たガラス板ではなく紙で作ったのであろう。明治 20 年代には家庭用の小型金属製幻燈も製造され始めており、使用される 種板も全てガラスなので、これはごく短い期間に存在したきわめて稀な作例だといえよう。 しかしスライドはおろか幻燈本体まで紙で作られた時代がある。昭和 15 年 7 月 7 日、商工省・農林省令第二号「奢侈品 等製造販売制限規則」が施行、この「七七 ( しちしち ) 禁令」と呼ばれた法律のもと、戦時下に子供の玩具に金属を使用す ることが制限されて木製さらには紙製の幻燈が製作された。それ以前からガラススライドにかわってセルロイド製の幻燈ロー ルフィルムも登場していたが、これも硫酸紙など半透明の紙に絵を印刷したフィルムになる。その代表的なものに日本幻燈 機があり、大型は木製で小型は紙製の本体にフィルム送り部分は木製、レンズ筒は大小どちらもベークライト製である(図 3)。 紙フィルムは木製コアに巻かれて紙箱に収められていた。 幻燈の内容もいかにも戦時下らしく、スパイの国内暗躍への警戒を宣伝する『国民防諜』であるとか、アジアに貪欲な魔 手を延ばすアメリカに対する長期戦への心構えを説く『百年戦争』(図 4)といった類が多かった。東亜映写機などはレンズ 以外は全て紙製で(図 5)、そのスライドも「狭い職場も笑顔で広い」「戦に勝つのだ、増産だ」と、戦時統制経済下の生活 標語めいた内容になっている(図 6)。子供の幻燈遊びにまで国家の号令が及ぶのでは却ってその逼迫感が曝露されているよ うなものだが、そんなことを考慮する余裕も失われていた時代であった。

七七 ( しちしち ) 禁令以前にも紙製フィルムはあった。ただしこれは幻燈ではなく家庭用小型映画のフィルムで、日本独自 の発明であった。昭和 9 年に登場した「レフシー家庭映写機」というもので(図 7)、紙製フィルムに実写映画はモノクロで、 アニメーションの多くはカラーで印刷されている。映写のしくみは透過式ではなく、紙の表面に光を当てて反射光を投影した。 モノクロ映画しかなかった時代に家庭でカラー・アニメーションを楽しむことができたのである(図 8)。レフシーが世に出 るや直ちに大阪のメーカーが同様の反射式紙フィルム映写機「家庭トーキー」を製造、こちらはその名の通り映画に同期さ せてレコードをかけるというものであった。


注:イメージ・コレクション其之五 『視る欺瞞』参照。




図版 所蔵:松本夏樹

撮影:原田正一

デジタル制作:福島可奈子


図1

図2

図3

図4

図5

図6

図7

図8 『無敵凹平の怪賊退治』