2019年5月発行

映画のイコノロジー飛行新聞 Die ikonologische Flugzeitung des Kinos Vol.2-2

(承前)アレクサンデル6世はユダヤ系ポルトガル人のボルジア家当主ロドリゴであり、権謀術数と金の力により教皇位に就いたが、これは1492年のイザベラ女王によるレコンキスタ、イベリア半島からのイスラム勢力一掃とユダヤ人の強制改宗もしくは財産没収後の国外追放(非改宗ユダヤ人は処刑)という苛酷な処置から、永年営々と築いたボルジア家の権益を守る意図によっていたであろう。

かくして日本人の海賊和冦を名乗る明人王直の硝石売り込みの隠れ蓑としてポルトガル人が火縄銃を種子島にもたらした。王直は既に以前からジャンク船より大型のダウ船(南宋の平底船に由来し、アラビアの東方貿易に使われ、その造船・航海術に学んだ西欧は大航海時代を迎えた)で長崎で私貿易を行っていたが、明の監視の目を避けるために敢えて種子島を選んだといわれる。琉球貿易の途上で種子島にいた堺商人が火縄銃の情報を直ちに堺に伝え、やがて堺は鉄砲鍛冶の本場になるが、信長や秀吉に重用された千利休はおそらく火薬商売のフィクサーであったのだろう。茶道の袱紗捌きはミサの聖杯を拭く仕草と全く同じであり、余人を容れぬ為の茶室の中で硝石売買の密議を凝らす際に、異国の事情に通じている風を装うには最適の所作であったろう。戦国大名が先を争って茶の湯に走ったのも、粉体工学の三輪教授によれば茶臼が均質で微細なパウダー製造に当時最適の道具であったからだという。硝石は潮解現象を起こすので戰の前に木炭、硫黄と共に粉に挽かねばならない。三輪教授は各地に茶臼山の名称が残るのは、家康の全国統一の後、各地の大名が軍備放棄の意味で茶臼を割って埋めたことに由来するとしている。茶の湯の道の侘び寂びも一皮剥げば、死の商人と権力亡者の血塗られたマネーゲーム、茶道具の名物も利休の仕掛けたゲーム参加資格証に過ぎないのかも知れない。

和冦頭目の王直や千利休のような軍事産業を牛耳る国際的な存在は、それ以前から明や朝鮮との交易を通じて暗躍していたと考えるのが妥当であり、応仁の乱(1467〜77年)以降は地侍の武力に押され弱体化した朝廷とも繋がる師匠連とは、そうした者たちであったのではないだろうか。つまり非常在民「異形」の日本人のみならず、国禁を犯して密貿易する明人や李王朝に敗れて賤民とされた高麗人、東南アジアの海路を熟知する海上生活者などの遊行民集団とそれを束ねる者たちである。(続)


松本夏樹

図1:富山県五箇山の合掌造り集落、図2:塩硝土の積み込み断面図、図3:塩硝を煮詰めるための道具、図4:塩硝