2019年4月発行

映画のイコノロジー飛行新聞 Die ikonologische Flugzeitung des Kinos Vol.1-3

(承前)『風立ちぬ』の菜穂子が向かう富士見高原療養所は、堀辰雄の小説にもその名が出てくるサナトリウムだが実在しており、スイスのローザンヌやダボスで行われていた裸体日光浴サナトリウムを導入した療養所所長の正木不如丘博士が、結核の治療に特効があるとして日光療法を用いていた(正木不如丘『日光療法』、至玄社、昭和3年)。この時代、ある種のオカルト運動に根差した裸体日光療法が流行しており、正木の口吻はまるで古代の太陽信仰のようでもある。また二郎と菜穂子がその畔で語り合う森の中の冷泉浴場にそっくりなものが、レーニンもヘッセも滞在したスイス・アスコナのモンテ・ヴェリタのサナトリウムに今もある。このサナトリウムは神智学信奉者が設立したもので、自然食品と日光浴が推奨された。ハラインのサナトリウム経営者でもあった神智学者フランツ・ハルトマンらは、この地に太陽光による色彩治療施設を持つ「神殿」を計画していた。

二郎がホテルで紙飛行機を折るときに口ずさむ「誰が風を見たでしょう、僕もあなたも見やしない、けれど木の葉をふるわせて、風は通りぬけてゆく…」という詩は、画家ダンテ・ガブリエル・ロセッティの妹クリスティーナ・ロセッティの詩で、西條八十が訳して1921年6月の『赤い鳥』に発表した。クリスティーナは熱心な敬虔派のクリスチャンで、この詩も『ヨハネによる福音書』第三章「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞くが、それがどこからきて、どこへいくかは知らない。霊から生まれる者もみな、それと同じである」に基づいていると言われる。彼女は兄をはじめとするラファエル前派の画家や詩人たちのミューズ的存在であった。『風立ちぬ』は空を飛ぶことに憑りつかれた堀越二郎の物語であると共に、この映画の細部に周到に配置されたもので暗示される、時代の象徴的病であった結核とサナトリウム文学のミューズとして出現し、風となって消える菜穂子の物語でもある(完)。

『悪魔の発明』についてはまた稿を改めて述べてみたい。

松本夏樹

左図:裸体日光療法中の子供たち(正木不如丘『日光療法』より)、右図:ダンテ・ガブリエル・ロセッティ『受胎告知』(1850年)