2019年4月発行

映画のイコノロジー飛行新聞 Die ikonologische Flugzeitung des Kinos Vol.1-2

(承前)ナウシカとは違い、『風立ちぬ』は実在の人物でゼロ戦の設計者である、堀越二郎を主人公とする物語だが、二郎と菜穂子のストーリーはフィクションであり、堀辰雄の小説『風立ちぬ』に材を採っている。1938年に出版されたこの小説で、堀はポール・ヴァレリーの詩『海辺の墓』の一節を文語調で「風立ちぬ、いざ生きめやも」と訳した。だから関東大震災の日に汽車で上京する二郎が菜穂子とこの一節を原語で語り合った後で二郎は口語直訳で語るのである。この「海辺の墓」という主題は、二郎がデッサウのユンカース社視察旅行で泊まるホテルにも暗示されている。一瞬だが部屋の壁に掛かる絵が見える。これはアルノルト・ベックリンが1880年代に幾枚も製作した「死の島」の絵であり、画家が幼い娘を亡くしたことから描いた作品とされ、フロイト、レーニン、ヘッセ、ヒトラーもこの絵を愛したという。特に第一次大戦後のドイツでは多くの家にその複製画が飾られていた。ベックリンの大きな影響を受けたのがウィーン分離派創始者の一人フランツ・フォン・シュトゥックであり、その弟子であったのがヴァシリー・カンディンスキーとパウル・クレーの2人で、共にバウハウス創設のメンバーであった。そしてバウハウスはのちにデッサウに移るのである。

菜穂子が二郎に二度目に避暑地で出会うシーンも、また彼女が描いている油絵も、フランス印象派を髣髴とさせ、彼女の幸福感を表現しているが、その後の悲劇性は「死の島」と「海辺の墓」、そしてサナトリウムのテーマで表現されている。避暑地のホテルで出会うドイツ人カストルプは「ここは魔の山」と言うが、彼の名もトーマス・マンの『魔の山』の主人公の名前であり、これもサナトリウムを舞台とする小説である。カストルプが「最後のドイツの煙草」と言いながら吸うのは、パッケージのデザインからゲルベゾルテだとわかる。一服するその灰の燃え方は、このオパール巻の煙草の特徴を忠実に描写している。またホテルでカストルプがピアノを弾きながら日本人の滞在客たちと共に合唱するシーンがある。これはドイツ映画『会議は踊る』で、やがて失恋に終わるとも知らず幸せに酔う、靴屋の娘を演じるリリアン・ハーヴェーが歌う劇中歌『唯一度だけ』である。当時大ヒットしたこの歌を日本のインテリや富裕層ならばドイツ語で合唱することも可能だったろうと思わせる。このカストルプのモデルは在日「フランクフルト新聞」記者リヒャルト・ゾルゲであり、ソ連のスパイとして逮捕処刑された人物である(続)。

松本夏樹

左図:アルノルト・ベックリン『死の島』(1880年)、右図:クロード・モネ『戸外の人物習作(左向き)』(1886年)