赤星孝

白を基調

理知的で構築的な画風

赤星孝(1912-1983)

明治45年粕屋郡古賀町生まれ。福岡中学校を卒業後、昭和7年に上京、武蔵野美術大学で学んだ。同年独立展に初入選し、昭和15年に独立賞を受賞、昭和23年に独立美術協会会員となった。昭和16年召集され、久留米で4年間の兵役生活を送る中、戦時下の必勝美術展覧会会合で坂本繁二郎に出会い、これを機に八女のアトリエを訪れるようになり、私淑した。終戦後帰郷し、同22年に上田宇三郎・宇治山哲平、久野大正、山田栄二らとともに「朱貌社」を結成し、同24年の福岡県美術協会再興に参加するなど、福岡の美術界活性化に貢献した。同36年から38年にかけてと44年の二度渡欧し、パリ、南仏、イタリア、スペインなどを巡遊する。この時の地中海イビサ島訪問が後の活動に多大な影響を与え、白を主調とする幾何学的な構成の作品につながった。昭和58年、71歳で死去した。

美の神に憑かれたがごとく 絵画一筋に生きた画家 赤星孝(あかぼし・こう)

明治45年7月1日、現・古賀市青柳生まれ。本名・孝夫。

昭和23年、独立美術協会会員となる。

昭和36年・昭和43年に渡航。2回目の渡航時に滞在したスペイン領イビサの美しい白壁造りの町並みに魅せられ、以降、白色を基調とした作品を発表する。

昭和58年10月18日、死去。享年71歳。

※「赤星孝」の読み方について

これまで慣例的に「たかし」の読みを用いているものが多いが、作家本人が意図していたのは「たかし」ではなく「こう」という読み方であったというご家族からの申し出があり、「こう」と表記しています。

少年時代・画家を志す

「青柳の赤星医院」、「やけど治療の赤星」と聞けば懐かしく思われる方も多いのではないでしょうか。画家、赤星孝(本名・孝夫)は、1912(明治45)年7月1日、青柳で代々医院を営む父弥太郎、母るいの長男として生まれました。

幼い頃から感受性が強く、絵を描くことが大好きで、少年時代から自転車の荷台に水彩画の道具を積んでは青柳の丘や古賀の海に出かけ、写生してまわったという孝は、旧制福岡中学校3年生(15歳)のときには、既に家業の医者は継がず画家になることを決心し、4年生になると、親に黙って通学定期を払い戻したお金で、油絵の道具一式を買いそろえてしまったそうです。

また、この頃から福岡市中島町(現・福岡市博多区中洲中島町)にあったという画材屋の美生社に頻繁に通うようになり、ここで、修猷館の学生で、後に独立美術協会で所属を同じくする山田栄二(洋画家・独立美術協会会員・故人)ら画家を志す仲間と知り合い、ともに芸術への情熱を燃やし、互いに腕を磨きあっていきます。

美に憧れる情熱は日増しに高まり、昼も夜もデッサンや油絵に憑かれたように没頭したという孝は、中学5年の3学期に入ると、さらなる画家修業に励むべく、卒業式を待たずに東京へと旅立ちました。

孝は自身の中学時代について、「両親は、医者にならぬ息子を嘆いたが、自分の進む道を早くから決め、まっしぐらに歩いた私の中学時代は、しあわせだったというべきだろう」と回想しています。

青年時代(その1)・九州画壇の再建

17歳で上京後、美術研究所に通いながら、20歳の時には、川口軌外、児島善三郎、里見勝蔵、林武、三岸好太郎など、当時の人気画家が多数所属した美術団体、独立美術協会主催の第2回独立展に初出品初入選の快挙を果たしました。同年、武蔵野美術大学に進学し、昭和15年には第10回独立展で最高賞に当たる独立美術協会賞を受賞するなど、精力的に制作活動を行っていた孝でしたが、昭和16年に召集され、4年間、画業の中断を余儀なくされます。しかし、配属先の久留米で運命的な出会いがありました。所属部隊内の美術協会の設立に関わったのをきっかけに、梅原龍三郎、安井曾太郎と並ぶ戦後洋画界の巨匠、坂本繁二郎と知り合います。当初から、孝の作品を評価したという坂本とは、以降、坂本が亡くなるまで、互いの作品を率直に批評し合うなどして交流を続けました。孝は坂本の美に対する姿勢から多くのことを学んだと言い、またその親密さは、坂本が晩年に眼病を患った際、孝から手術を受けるよう説得してほしいと周囲から依頼されたというエピソードからも伺えます。 昭和20年、学生時代からの知り合いであった画家、直村信子と結婚した孝は、現・古賀市青柳や福岡市中央区地行に暮らし、西部美術協会、福岡県美術協会の再建や画家仲間たちと美術団体「朱貌社」を結成するなど、戦後の九州画壇の復興に尽力します。またこの頃、芥川賞作家、火野葦平の新聞連載小説「燃える河」の挿絵を担当したことをきっかけに、火野と交流を深めた時期もありました。さらに昭和20年代の後半からは、多彩な才能を発揮し、本の装丁や新聞・雑誌のカットの仕事なども手掛けるようになります。

青年時代(その2)・2度の渡欧

昭和29年に再び活動の場を東京に移した孝でしたが、昭和36年から2年間、単身パリを中心に生活します。ヨーロッパの街中を歩き回り、昼夜を忘れて描き続けました。戦前の福岡時代からの画友であった野見山暁治も、この時期パリに滞在しており、頻繁に連絡を取り合い、行動を共にすることもしばしばでした。この2年間の密度の高い時間が、後の孝の画業への重要な転機となりました。帰国後は、意欲的に作品制作に取り組み、所属する独立美術協会主催の独立展へも大作出品を続けました。

昭和43年には、2度目の渡欧。今度は1年間、地中海の島々を巡ります。特にスペイン領イビサの美しい「白」壁造りの町並みに魅せられた孝は、溢れるように作品の発想が沸き立ったといいます。 事実、帰国後は、この「白」を主調とした作品が相次いで誕生します。後に「白の時代」とも呼ばれるこの時期の作品群は、孝の独創的な画法をより精密に磨き上げた時期に他なりません。白を基調とした100号、200号のキャンバスから感動を生み出すためには、構図の構成力はもとより、白色の中での色調と線が織り成す調和が絶対条件になります。この「イビサ」シリーズを原点にし、「弾奏」「シシ」など、孝は次々にシリーズ作品を展開します。

晩年・美に生きた半生

昭和49年、60歳を過ぎ、これまでと環境を変えて、新たな気持ちで作品制作に取り組みたいと思うようになった孝は、故郷古賀にアトリエを構えます。約30年ぶりの故郷した古賀で、孝は、幼い頃のように古賀の浜などへスケッチに出かけ、次回作品の構想に思いを巡らせていました。

しかし、これから古賀で新たな代表作を発表しようとしていた矢先の昭和50年、孝は病に倒れます。以降、残念ながら次の大作を見る機会はありませんでしたが、孝は病床でも、体力の許す限り小品の制作を続けたといいます。まさに、その一生を美の追求に捧げた孝でしたが、昭和58年10月18日、71歳でその生涯に幕を下ろしました。

※古賀市有名人図鑑より引用しました。