赤星 信子

赤の赤星

情熱的で力強い画風 ~描き続けた75年~

赤星信子 (旧姓・直村信子)

1914年(大正3年)2月2日、当時中国の大連にあった南満州鉄道株式会社のエンジニアとして勤務する父・盛之助と母・とみの次女として生まれました。絵と音楽を好む快活な少女時代をを過ごした信子は、、その後福岡にもどり、福岡女学校(現・福岡女学院)に進学、同校の絵画同好会である「パレットクラブ」で絵の楽しみを知った。福岡女学校を卒業した翌年の福岡女流展で1位になり、さらにその翌年には独立展で初入選を果たし、画家になることを決意した信子は、洋裁の勉強をするという名目で上京し、女子美術専門学校洋画師範科(現・女子美術大学)に入学するとともに、児島善三郎や林武のもとで画技を磨き、孝と同様、独立展で入選を重ねた。

〇孝との結婚

孝と信子の最初の出会いは、博多の美生社で開かれた独立系の作家による研究会であったと考えられるが、上京した後も共に池袋に住み、互いに絵描きを志す仲間として親密な交流を続けていたようである。しかし、転機は、1941年(昭和16年)における孝の庄招集であった。福岡県の久留米で衛生兵の任務に就くこととなり、別れを余儀なくされたことが絆を一層ふかめたのか、その間も手紙を交わしては、互いを心から支えとしていたようである。そして、悪化する戦況から身を守るため、信子は東京から福岡に帰郷し、姉が勤務する古賀の病院に身を寄せたのであるが、そこで一時帰宅を許されて古賀の実家にいた孝との久方ぶりの再開がかない、終戦目前の1945年(昭和20年)5月に結婚することになった。

※赤星孝と赤星信子展 図録より引用しました