クッキー缶をずっと宝物にしている
クッキー缶をずっと宝物にしている
コンフィチュール
バレンタインは先月無事に事なきを得た。
「事なき」というのは、
私は同級生の航樹くん(チョコが嫌いで、苺が好きと言ってた)に
告白するために手作りクッキーを真剣に何度も練習して、
一番いい出来になったいちごジャムサンドクッキーを
きちんと綺麗にラッピングして持っていって、帰り道で
心臓をどきどきばくばくしながら告白したのだけど、
航樹くんの返事は「朝の会の前に那奈ちゃんから
チョコ貰って両思いになったけど、それでもいい?」だったので
「それはだめ」と答えてクッキーをきちんと持って帰ってきたのを
指してる。これは「事なき」で良いと思っている。
それよりも、持って帰ってきたクッキーを自分で食べたら、
とっても美味しかった。
バターも砂糖もたっぷり入れるクッキーは、さっくりと上手に焼けている。
色も素敵。ぽってりと香るような黄金色。
白い砂浜みたいに表面はさらさらとなめらかで、焼き色も完璧なグラデーション。
なにより、可愛い。いちごジャムを塗ったクッキーに、
真ん中を型抜きしたクッキーを乗せるから
まんなかの窓から赤いいちごジャムがのぞいてる。
それが宝石のようにきらきらしていて、両想いになれますようにっていう、
二月の私の『ねがいごと』が閉じ込められているみたいだった。
見てるだけで素敵すぎて、ため息が出る。
三月、私は何もあげてない航樹くんからの
変なお返しを断って、クッキー作りに明け暮れていた。
ジャムクッキーは「コンフィチュール」とも言うみたい。
コンフィチュールはジャムより果肉が残ってサラサラしてるもので、
フランス語でおしゃれだからこう呼ぶようにした。
お母さんに教わりながらこれを手作りしてみたら、またびっくりするくらい美味しい。
スプーン一杯だけで、こんなに口いっぱいの苺!
これをクッキーに使うなら、もうすこし硬めのビスケットみたいな生地に
してもいいなと思って、レシピ本をいろいろ探して生地も変えてみたら
本当に美味しい私の「コンフィチュール」ができちゃって、素敵がとまらない!
それからはずっと研究の日々。自分のために焼いて食べるクッキーが
こんなに可愛くて美味しくて素敵なんて、どうして気づかなかったんだろう。
でもこれを気づかせてくれたのは(あれから勝手にずっと気まずそうにしてる)航樹くんだから、
あくまで『お友だちとして』、お礼にまた焼いてあげようかとちょっと悩んでいる。
ラングドシャ
「写真部って何人だったっけー?」
「……5人だけどー。もしかしてまたなんか焼いてんのー?」
妹から呆れられてるのに、兄は張り切った大声を返してくる。
「やべえよ、めちゃくちゃ焼ける!」
私は腹式呼吸で息を吸って、はっきり言った。
「私もう持っていかないからね。部活はお茶会室じゃないって、
部長にもチクッと言われたから!」
「あー? 聞こえねー」
しかたなく台所へ行く。
焼きたてお菓子の甘い香り。クッキーを網の上で冷ましてる。
「部長にチクッと言われたから」
「へー(笑)山根さんクラスでは大人しいのにそんなこと言うんだー」
部長、と聞いたとたん、兄が顔を隠すようにオーブンを覗きにいく。絶対聞こえてた。
見えてますけど。そんな嬉しそうなにやけ顔して。
部長のこと好きなら私を経由しないでほしいんだけど。
ていうか部長も、私じゃなく兄に直接言ってほしいんだけど。
ああモヤる。妹は蚊帳の外でやってほしいんですけどー……。
冷ましているクッキーは丸くて薄いラングドシャだった。
癪だけど上手い。均一に揃った形と、上品な白から甘い茶色へ
グラデーションする焼き目は、ふと写真をとりたくなるほど綺麗。
「一個いい?」
「駄目」
「は?」
オーブンの中をしきりに覗いてた兄が、ゴトンと鉄板を引き出した。
「見ろ見ろ見ろ」
「何、どうせくれないんでしょ……ぶ」
負け、笑った。
鉄板には2列くらい綺麗に焼かれたラングドシャのあとに、
琵琶湖みたいにびろーんと広がった生地が、美味しそうに焼けていた。
「なんでここから急に、ブッサイクなクッキー」
「生地多すぎたんだよ。これお前に食わせようと思って」
「はあ?」
スマホのカメラを起動する。
焼き上がったオバケみたいなクッキーは、生地の中の砂糖や
バターが溶け出したように、しゅわしゅわして、少しキラキラしている。
胸の中に強制的にじゅわっと染み込んでくるような、甘くて優しいにおい。
カショ。
きれいな焼きたてクッキーだけ映るように、窓際の自然光をたっぷり入れて写真をとる。
結局、丸く綺麗に焼けたものは明日、学校で写真部で崇められてから、一瞬で食いつくされる。
私は部長にちょっとお小言を言われる。
でも、そしたら「兄に言ってください」って言う。
部長は言葉に詰まると思う。
「あー割れた、でかすぎたか」
困る部長は可愛いと思うよ。
「あは、下っ手くそ」
「兄に向かってなんだその態度は」
でも、ブサイクでばかでかい、一つしかないやつは、
今日私の胃袋に入る。
メレンゲ
「ねえ、味見してよ」
海外ドラマに出てくるセレブはこんな喋り方をする。
華と棘がある声が講義室に響いた。
真珠が溶け込んだように光るアッシュグレーの髪。
贅沢に長い睫毛から覗く垂れ目を細めて、私に笑いかけている。
「味見?」
彼女は最近、よく私の隣に座ってくる美人。
今日もふわっと隣に座る彼女は、小さな鞄から小さな缶を出す。
生クリームを絞り出した形の砂糖菓子。白にピンク、ところどころ薄紫や黄色が
混じったきれいな色で、夢の中の貝殻標本みたいだった。
「メレンゲ焼いたの。おひとつどうぞ」
急に出てきたメレンゲクッキーに圧倒されている私の口へ、彼女は一粒押し込んだ。
「お味はいかが?」
的確に甘いのに、すぅと消えていく。
た、食べたのに……。
「無い……」
回答すると、とたんに彼女は私の肩で笑い転げた。
「味、無いの?!」
艶めく髪から強い薔薇の香りがする。
「味はある……甘いね」
「ねえ、ちゃんとして。もう一個食べて」
彼女の指が、夢の中から出してきたようなお菓子をまた一つ。
「はい。おいしい?」
「おいしい。すぐ溶けてなくなっちゃう。すごいね」
「ふふ、ふふっ」
彼女は顔を覆うようにして笑った。
「ねえ、どうしてそんなにかわいいの?」
きれいなネイビーのネイルの指の隙間、深い森の中のような睫毛の奥、
真珠が溶けこんだようなやわらかい光が、私を覗いている。
自惚れでもなんでも良いけど、
一種の恋をされていることくらいは、さすがにわかる。
たとえば百貨店で並んでいる指輪は、これと同じような視線を知っているだろう。
私は昔から、希少なアクセサリーとして見られる。
男の平均を望むでもなく超えてしまった身長、
女を真似ると気が引ける声や服、性をごまかす長さのパーマの髪も。
友達と彼氏の役割を兼任できるのも、彼女のおしゃれの一部になれるのも。
希少なただの飾りに、女の子はすぐ恍惚としがちだ。
なのに手に入れて満足したら、しゅわりとその執着を失って、
次を欲しがるのも女の子だ。
「もう一つ、欲しい」
甘えれば、華奢な指が私の口へメレンゲをひとつ入れる。
目を閉じて真剣に味わうふりをすると、彼女の小さい笑い声が聞こえる。
でも、やっぱり甘いだけで、ひとつふたつでもうたくさんだと思う。
早く飽きて。
私の手を離して、本物の男の手を握りに行った華奢な指たちの影を、
瞼の裏で思い出している。
早く飽きないかな。
甘さを残さないで、消えてほしい。
ディアマン
縁切りにいいお寺が鎌倉にあるって澤島が言って、
あれよあれよとこの話が決まったんだった。
浮気されし伊勢は男と縁を切りたいし、
バリキャリし澤島は旧職場と縁を切りたいし、
既婚事務職わたくし葉山は実家と縁を切りたいので。
お互い、なんて丁度いい友人なんだろう。感謝感謝。
女三人で歌うように言いながら参拝して、
洒落たベーカリーを巡って、非日常のホテルに感嘆する。
どうせ伊勢の男の話ばっかすんだろと思ってたけど
初手の澤島の職場の話が重くて、ずっとその話ばっかしてた。
つか労働ってさ。労働ってさ、なんだろうね。
実家もさ、男もさ、結局全部、女の労働じゃないのかね。
私達、女の仕事して、死んでくのかね〜。
ベーカリー巡り戦利品のバケットも完食して、
カヌレもなくなって、二人ともワインで寝落ちたりけり。弱すぎ。
私は外のバルコニーに出て、オーシャンビューっちゅう、
とっぷり暗い海を眺めながら、クッキーを囓ってる。
バタークッキーのまわりにしゃりしゃりのグラニュー糖がついている。
でもさ、友人もさ、女の労働なんだよね。
って誰も言わなかったな。
伊勢、もう聞きづてでもわかるほどの既婚者と付き合ってる。
でも、不倫でしょそれ。って言いまくると泣くしな。
澤島は結婚で辞める人のこと、すっごいバカにしてた。
私たしか言ったよな、寿退社するぜって。
20になる前は生き別れなんじゃないかってくらい、
嫌いな先生も好きな曲もかぶってたのに。
なんかずっと薄っすら寂しいし、お互い隠すけど羨ましいし、
そのくせ元気なさそうにされると、いっちょ前にこっちも元気なくなるし。
指についた、きらきらの砂糖に目を落とす。
疲れるんだよな。死んだら泣くけどさ。
みんな思ってるんだろうな。でも縁切りはさ。
なんか一番、違うし。
指先のきらきらを舌に移すと、きらりと舌の上で消えた。
暗い海の上、星座が見えると気づいた。
ああいう感じでいい。
黙って離れて、静かで綺麗で、どっちがきれいとか汚いとかなくて、
そういう星になれればいい。
星と星を結んでも全然そうは見えないけど、それぞれに光っていることだけは確かで。
遠く美しい神話によって体をなして、どんなに長い年月でも細く繋がる距離がいい。
夜空を見上げて、もう消えた砂糖の名残を、舌の上に探した。
星の後味のように。女友達の寝息のように。
歯を磨く前に。
ショコラ
これはいつのだ?
棒状の不思議な生き物のように、練ったココアクッキー生地が、
冷凍庫にいる。
まだ焼いていなかった。
空にしたはずの冷凍庫に転がる1本を見て、力が抜けた。
ああ……。
引っ越しに向けて、私は一カ月前から梱包・掃除・住所変更手続きなどの
準備スケジュールを計画した。
毎日残業後、どんなに仕事でへとへとでもそれを遂行した。
しかし本日残業から帰り、明日の引っ越しに向けて完璧に整えた
がらんどうの部屋で最後の荷造りを完了させ、既に掃除済の水回りを簡単に見回り、
冷蔵庫の最終チェックをしたところ、見つけたのだ。
頑張った後のご褒美と考えていた、
ほろ苦いクッキーの生地を。
私は掃除した床に座り込んだ。というより、崩れ落ちた。
暗澹とそびえ立つ段ボールのむこうに、
見慣れない角度の窓ガラスと、星が見えた。
もう、引っ越しは明日だ。
いいや明日じゃない、今日の7時間後には業者が来る。
クッキーを呑気に焼いている時間などない。捨てることになるだろう。
食べ物を捨てる――こうならないように計画していたのに。
ああ……。
死にたい……。
……――。
――気づくと、クッキーを焼いていた。
頭を抱える。なぜそうなる。私は本当に馬鹿だ。
寝れなくなった真夜中のワンルーム、赤いオーブンの光と律儀に並ぶクッキー、
ただよってくる甘い香りに頭痛がするようだった。
焼きあがるのに本来は15分、でも現実は最低30分はかかる。
中心の焼けたクッキーだけを取り出しながら、端のクッキーを中心に寄せて
何度か焼き直す必要がある。
クッキーが焼けたら、それなら、焼きたてはいくらか食べるべきだろう。
さっき歯を磨いたのに。もうこんな時間なのに。
シンクは最後の掃除をしたのに。
スポンジもさっき捨てたのに。
冷めるまで待ってから容器に入れないと。
容器類は全部段ボールに入れたのに。
明日は忙しいのに。早く寝ないといけないのに。
すぐにこの部屋を出ていけるようにしていたのに。
胸の中で、ここでの生活に、何度も別れを告げたのに――。
オーブンの中をのぞくと、赤い光の中、
クッキーが息をするように膨らむ。
……なぜクッキーなんか焼いたんだろう。
濃厚な空気を吸って、疲れたため息にする。
なのに、香りは肩を抱きに戻ってくる。
チョコレートのにおいは充満して、
段ボールに押し込んだ感情をふわりと浮き上がらせて。
勝手に開いて、まきちらしていく。
灯していく。
オーブンの中のような、薄暗いワンルームに。
ブールドネージュ
朝起きると台風一過で、台所の窓の向こうはけろりと秋空だった。
起き抜けの頭で、おもむろにオーブンに手を伸ばして、予熱を始める。
成功。
その瞬間、居間も洗面所も白い光に満ちて、洗い立てのように見えた。
その勢いで無塩バターを細かく切って冷蔵庫に戻す。
薄力粉と粉砂糖、アーモンドプードルと少しの塩を
フードプロセッサーで回して、冷たいバターと卵黄も入れてまわす。
ゴムベラで練ってまとめて、小さく丸めて天板に並べていく。
朝起きたら一息でやろうと決めていた。
きらびやかな雀の声を聞きつつ焼き上げたら粗熱を取り、
まだあたたかくて脆い、素肌のクッキーに粉砂糖を纏わせていく。
優しく。
それでも欠けるものもある。
砂糖は少し溶ける。こすれ合って滑らかになる。
しばらく外していない結婚指輪の女の指が、粉砂糖の袋の中で生地を転がす光景を、
(真っ白だ)
とまるで他人事みたいに眺めていると、薄化粧はそれで十分になっている。
冷ましながら道具類を洗って、シャワーを浴びて、バターの香りが残る指で化粧をする。
化粧水と保湿、下地とコンシーラーも……最後に粉砂糖のような無色のパウダーをはたいて
晴れた日の光を肌に溶かし込む。
水筒に白湯を入れる。ブールドネージュをいくつか小さな紙袋に入れて鞄に入れる。
残りの横に「あとで仕上げするから、食べるな!」と書置きをして、
スニーカーをつっかけて玄関を開けて、洗いたての空のもとに出た。
結婚なんてする前から、数えきれないほど喧嘩はしてる。
道路も街路樹もカーブミラーも、世界中が濡れて輝いていた。
数えきれないほど私は泣いて、あの玄関から出ていった。
金木犀はすっかり散って、側溝の網に溜まっていた。
台風だから出ていけないことを気の毒に思ったのか、またはもし出ていかれたら
探しに行くのが大変になると思ったからか、昨日の夫は歯切れが悪かった。
公園のベンチでプードルの散歩を眺めながら、唯一の食糧を口に入れた。
冷めてしっかりして十分甘く、これ以上砂糖をかける必要なんてない。
でも、私はちゃんと帰る。
帰って、ちゃんと化粧をするし、させる。
もう「話し合い」なんてしない。お互い歯切れが悪かったとはいえ、昨日散々した。
あとは無色の甘い粉をくぐらせて、お互い少し欠けたまま、優しく滑らかになって――。
最後の一つ。粉砂糖はすっかり生地になじんで見える。
(私も強くなったものだ)
とまるで他人事みたいに思いながら口に入れると、ほろりと脆い。
やっぱり、私はこのお菓子が上手だと思う。
化粧をするとうんと甘くなる、少し強くもなる、このお菓子。