小雨の時計






仕事を終えて出ると小雨だった。

繁華街の光がにじむ交差点を曲がり、高架下の路地に車を止めた。

着信するとすぐ切れて、黒の中折れ帽の男が向かいのコーヒー店からひょいと出てきた。


「またあ、いい車のってますね」

ドアを開けると助手席に乗り込んでくる男は、両手に女子高生が飲むような飲み物を持っていて、

味は桃だのマンゴーだのヨーグルトだのと説明して、一つを僕のドリンクホルダーにガンと置いた。


僕は桃もヨーグルトも好きだけど、マンゴーは嫌いだと言うと、

『なら』マンゴーの味はしないと話を変えたので、絶対に飲むまいと思った。


この男は、店を持たない時計の修理師だ。店だけでなく、技術にもまるで現実みがない。

スナフキンがムーミン谷から出てきて東京都品川区に住んだらこういう風貌になるのだろう。


僕が腕の時計を外して渡すと、店主は小さなバッグから出した手袋をはめて受け取った。

「ああ。またあ、針が溶けてますね」

男が帽子のつばを手首で押し上げ、何やら箱のような器具に時計をはめ、

ダッシュボードにクロスをしいて修理を始めた。


車の外、小雨が降り続けている。店先の照明や車のライトが、細い雨に色をいれる。

「またあ、仕事ばかりしてたんでしょう」

心持ちバックライトを抑えて仕事のメールを見ていた僕は、そのまま生返事をした。

「すうぐ溶けるんですよ。そういうことしてると」


男をちらりと横目で見ると、背中を猫のように丸めて、狭い車内で器用に修理をしている。

帽子の下から覗く、パーマをかけた横髪が邪魔して目が見えないが、時計に集中しているのはわかる。

叱っている横で客がまだ仕事をしていることには気づいていないのだろう。


気まぐれに、針が溶けないようにするにはどうすればいいのか、聞いた。


「人の時計に回されすぎなければ、こんなにすぐ溶けませんよー」

男はなぜか、嬉しそうに僕を見た。そして笑顔のまま僕の手元のスマホをがしっと掴み、後部座席に放る。

会社の端末だと文句を言っても、男は道具箱からピンセットを取り出して、前に向き直るだけだった。


「ずうっと梅雨ですね。もう7月も終わるのに」

男はピンセットを持ち、まっすぐフロントガラスの向こうを見つめている。

ヘッドライトに照らされた夜の雨が、金色の光になって落ちていく。


「でも空にとっては、暦や人間の都合なんて関係ないわけです。だからこうして」

男は何を見ているかわからない。目前までピンセットの先を持ち上げたかと思うと――

微動したその細い銀色が、小雨の一粒が描く軌跡のような金の針をつまんでいた。

「溢れる程、時が余ってる」


男がちらりと僕を見て、時計に視線を落とす。筋の目立つ手は、意外と繊細な仕事をする。

「ひとは一本の針を大事に使うしかない。それもすぐに溶かして、慌てて代わりを探す始末です」

雨だった針がひとひら、男のピンセットに導かれ、僕の時計の中央に収まった。


――男から時計を受け取った頃には、小雨はしっかり強くなっていた。


手持ち無沙汰な僕は、結局桃とマンゴーの味がするドロドロの飲み物を飲みきっていたし、

仕事着のまま目の前で息をのむような魔法を見せられてしまい、

男のおすすめの飲み屋の話を聞き(気にはなるけどこの男に会いたくないので行かないと思う)、

サビしか聞いたことのない意味不明な流行歌をラジオでフルで聞いてしまい、

まあまあ疲弊していた。


「まあ、のんびりやってください。では、またぁ」

この雨の中出ていこうとするので、せめて駅まで送ると言うと、男はなつっこい笑顔で礼を言った。


気まぐれに、なぜ店を持たないのか――なぜ雨の日に、客の車の中でしか仕事を受けないのか、聞いた。


「一人になれて、静かで、雨が外を全部にじませるでしょ」

男は、若者の歌に合わせて膝を軽く叩きながら言った。

「時計を修理するには、そういう雨が要るんです」

答えが腹落ちしない僕は、そのまま生返事をした。







ノベルゲーム化して、ブログに書きました。