イカ天が噛みきれない
イカ天が噛みきれない。
かじりついてから30秒は経っている。歯でぶつ切りにしようとしても、のこぎりみたいに引き切りしようとしても、全然だめだ。まったくゴムみたいで、筋が一本も切れないんだ。これほんとにイカか。
「まだ噛んでんの」
「んー、んーんーんんん」
うん、ぜんぜんだめだ。
呆れ顔のユウスケはうどんを食い終えて、ミニカレーも食い終えて、水も飲み終えていた。
「俺ぁ行くよ?」
ここのフードコートがら空きなんだからそんな急がなくてもいいだろうが。と思うが俺のイカに付き合わせる気もあんまない。
「んんんっんん」
先行ってて。
「んんんんんんんっんんんんん」
俺このイカ食ってから行く。
ユウスケは鼻で笑って、食器を戻して帰った。
しかしこのイカ、あまりにふざけてるぞ。噛みついたままもう2分は経ってるのでは。切れなさすぎだろ。お前イカじゃねえだろ。醤油をかけた衣も口のなかでずるむけて、完全に裸のイカだ。お前ほんとにイカじゃねえだろ!渾身の力を込めて箸で引くが進捗なし、かといって歯のみの力による切断は見込めない。
「んんん」
イラつきすぎてうなり声が出てしまい、隣でアイスを食ってる女子中学生に笑い者にされる。
人目を気にすることをやめ、しばらく格闘した。
噛みきれない。
永遠にこのイカ天は噛みきれないのではないか。
「ん……」
イカにすら力で勝てないという悲しさ、虚しさ、しかしここまで噛みついてしまった自分への呆れに負けそうになる。
左腕の時計を見ると(右手でイカを食いながら左手を見るわんぱく小僧みたいなポーズは結構恥ずかしい)、もう10分も経っていて、授業が始まってる。とたんにどうでもよくなってきた。学業が。
目の前の難問(イカ天)から目をそらして応用線形代数の単位をとったところで、世界を豊かにするようなモノ作りができるのか?できるわけないだろ。逆にイカに負ける男に何ができるんだよ。
てかいいかげんにしろ!!諦めの悪いイカ天だな!!
ひたすらガブガブしていると、うどん屋のおばさんの視線が気になってきた。俺に構わずうどんを茹でてくれよな!!
こうなったらいよいよ退けなくなってくる。俺は長期戦に備え、猫背をやや伸ばし、足を開いて戦の姿勢を整えた。こうすることで余計な疲労を軽減し、全ての力をイカに注ぐことができる。
集中してイカを噛み、筋を切るように歯を擦る。
くそ。くそ。くそ!!焦るな俺!!相手はイカ天だ!!
俺は目を閉じて集中した。イカになくて俺にあるもの、それは頭脳だ。力で押すばかりでなく解決の糸口を探すんだ。切れそうな筋を当てれば勝ちだ……。
……。
鉄壁の……イカだ。
わかってはいた。
もうかぶりついてから40分たとうとしている。
人が勝てるイカじゃない……。
だが、俺は?
俺はこいつに負けるのか?
イカとか人とか肩書きはこの際どうでもいい。
俺は、こいつに、負けるのか?
負けたくない。
ここまで本気で勝負したんだ。俺の諦めでこの勝負が終わるなんて、嫌だ。
俺はこのイカ天を噛みきるんだ。
そしてここをあとにする。
終われないんだ。
それまでは……。
たとえもう1時間半がたっていたとしても……。
ほたるの光が流れてきた。
どんぶりのつゆは、もう完全に冷めている。
俺は深いため息をついた。あごが完全に疲れて、ややおかしくなっている。冗談じゃなく真剣にあごが痛い。
噛みに噛まれたイカは、まだ、俺の口のなかにいる。
「あのう」
見ると、うどん屋のおばさんが俺の横に立っていた。
「んん」
はい。
「もうそろそろ、閉店なんです」
「んんんんん」
すいません。
「あの、そのイカ、まだ食べます?」
「んん、んんんん」
はい、食べます。
おばさんは困った顔で、両手を頬に当てた。
「えーと、とりあえず、閉めちゃっても大丈夫ですか?」
「んっ、んん、んんんんんん? んん」
えっ、ああ、しめるんです? はあ。
すると電気が半分消されて、掃除業者とかが入ってきて、閉店前のフードコートの隅で俺はイカをぐにぐにしていた。
「えーと、いいんですか?」
掃除のおじさんが聞いてくるんで、イカを口の前にホールドしたままうなずくと、電気を完全に消された。
そして、俺だけが残った。
真っ暗なフードコートのなか、イカの味だけが、わかる。
味気ない。
昼から噛んでた、イカの味。
真夜中のイカは、自分の口の中のような味がした。
噛みきれないかもしれない。もしかしたらほんとうにずっと。日が上っても噛みきれないかもしんない。
俺バカなのかもしんない。こんなイカ吐き捨てるのが普通かもしんない。
でも、それはできなかった。
だってずっと噛んでたから。
顎の疲労が、なぜか一気に体へ流れ込んできた。
俺はイカを食ったまま眠りについた。
明るくなっていた。
まだ誰もいなかった。イカだけが俺の口のなかにいた。
噛むとめちゃくちゃ顎がいたかった。起き抜けの変な味もした。でも、俺は、噛むしかなかった。もう、噛むしかなかった。
世界は俺とイカをおいて回ってる。
俺とイカだけをおいて地球が回っている。
諦めるという選択肢はない。
噛みきるまで、俺に朝は来ない。
俺は目を閉じ、丁寧に歯の立てかたを吟味した。
角度。力。形状。全てのパターンを試したわけではないだろう。なら俺に諦める資格はない。
噛みきる。
……それだけだ。
さくり。
歯応えが、俺の脳に響いた。
みるみるうちに裂けていく。
歯を弾くように切れていく。
舌が新しい断面に出会う。
それは天啓より眩しかった。
難問を解いたギリシャ人の気持ちだった。
エピローグのように、一口のイカが、咥内に転がり込む。
エウレカ!!俺は……
イカ天を噛みきった!!
「んーーー!!!」
誰もいないフードコートには白い朝日が差し込んでいて、
名もない戦士である俺のガッツポーズと、
かじられたイカを照らしていた。