やきそば





やきそばをぶちまけた。

悲しい。

レンジで温めて取り出そうとしたら手元が狂った。今、ホカホカのやきそばが床で湯気をたてている。

悲しい眺めだ。

悲しくてとても掃除などできない。食欲があるのかないのかもわからん、何の気力も起こらない。

俺はテレビを消し、やきそばを床に放置したまま寝た。


翌朝、部屋はソースの匂いだったけど、そんなことはどうでもいい。

「……」

レンジの前で、見知らぬ褐色の女が寝ている。

「……」

眉間をもみながら考えるけど、昨日はやきそばをひっくり返したショックで寝たことしか覚えてない。限界を越えたのか、腹は減ってない。

すやすやと寝息をたてているから、最悪、国際的な殺人事件に巻き込まれることはなさそうだ。最悪でも国際的な浮気問題とかだろう。嫌だな。ああ、窓の外、いい天気だな……。

「……」

現実と向き合う(?)ために身支度を整えてスーツを着る。そうっと褐色女を跨いで玄関へ。

「……」

起きる気配もなく、眠りこけている褐色女を見ながら、狭い玄関で革靴をはく。

馬鹿馬鹿しすぎて口に出すのも嫌だったが、しかし昨日の出来事から考えると悲しいかなもっとも論理的な結論がどうしても頭を離れない。

「やきそば……」

褐色女がもぞっと動いたのを見て、俺は必死に玄関から這い出て鍵をかけ、階段を踏み外しそうになりながらも降り、なんとか出勤した。

弊社のメンタルヘルス相談窓口はどこなのか?!


退勤。

……そういやメンタルヘルス窓口のこと忘れてたな。

ぼんやりした頭で夕飯を買い、家に帰る。

「おかえり」

褐色女がしゃべれるようになっている。しかも日本語か。

いや、やきそばは日本の料理だし、当たり前?……なのか?

「なーにこれ、またやきそば買ってきたの」

俺の持ってるビニール袋をかっさらっていく。よく見ると俺の部屋着を勝手に着てる。

「餌になるかもと思って……」

褐色女は、緑色の瞳(キャベツからきたカラーリングではなかろうか)でキッと俺を睨んだ。

「あんた、犬飼ったら犬食べさせて、ハムスター飼ったらハムスター食べさせるの?」

喋るやきそばに常識を問われても腹が立つだけだ。

「しかも、餌って。私、やきそばなんだけど。ペットじゃないんだけど」

「ああ。お前はやきそば。ペットじゃない……」

頭が狂いそうな会話なんだ。

「やきそばはふつう餌も要らないし、ふつう喋んないもんな……」

俺が着替えながら言うと、褐色女は世界一イラついた顔で俺を睨み付けている。

やきそばをチンして取り出すと、褐色女がやきそばの皿をバシンとひっぱたいた。

宙を舞うやきそば。

べしゃりと洗濯物の上に着地する。

「ほら、やきそばだって生きてるよ」

「迷惑だな……」

その日は珍しく、平日に洗濯した。


「おかえりー。また買ってきたの」

褐色女は勝手に人の漫画を読んでいた。進撃の巨人をほっぽりだして俺の夕飯を覗きこむ。

「最近、なんでか連日でやきそば食いそこねてるから」

「なんでだろね」

「ほんとなんでだろな……」

レンジで温めて、慎重に守りながらテーブルに持っていく。

褐色女はどうしてもやきそばをはたき落としたいらしく、俺の背後でシャカシャカ動いて狙ってくる。

「お前はやきそばに恨みでもあんのか」

「ないよ。あたしやきそばだし」

「同じ民族なら守れよ、やめろ」

そう言われると自分でも理由がわからないらしく、褐色女はしばらく考えてから、大きな緑の瞳で俺の目を見た。

「あんたがやきそば落とした時の悲しそうな顔が、可愛くなっちゃったのかも」

思考が停止した俺の手から、勢いよくやきそばが弾け飛ぶ。

「っしゃオラぁ!」

ベッドに着地するやきそば。

「活きのいいやきそばでしょ」

「……」

「手伝うからさ」

その日はめずらしく平日に万年床を洗った。


「おかえ……また買ってきたの?!」

「だって、昨日も食べ損ねたじゃん」

今日はひっくり返されまいという気概でスーツのまま構える。

すると褐色女は、急にぺたんと座り込んだ。

「……なんでさあ、あたしを食べないんだよ?!」

紅生姜のように鮮やかな唇が歪み、透明の涙をこぼしてわんわん泣き始めた。

俺は構えをとき、脱力した体で、純粋な疑問を口にした。

「お前、食えるの?」


やきそばはある日突然、あるべき姿に戻る……わけでもなく、褐色女のままだった。

女の形をしてる以上、床で寝かせ続けるわけにもいかないので、必然的に横で寝ることになっていた。褐色女が出現した日からそうだった。

だからといってセックスとかキスとかしなかった。

やきそばなのに、俺は知らないふりをしてずっと食べなかった。


褐色女がやっと泣きやんだ。泣きながら叩き落とされたやきそばを片付け、ベッドで動画を見てると、背中にくっついてくる褐色女が何か言いたげだ。

振り返り、キスをしてみる。

「……」

げっ、マジでやきそばだ、こいつ。

「ファーストキスなのに、ソースの味しかしないんだけど……」

なんでそっちが被害者面なんだよ。

「100%お前のせいじゃん、てか宿命だろ」

「あんた歯磨いてないでしょ、半々だよ」

「そうかよ……」

こうなると萎えるとかそういうレベルではない。背を向ける。

「寝るの?」

「ん」

「食べないの?」

「性欲ゼロ。むしろマイナス」

仕事の疲れもある。

「何が性欲だ、バカ。やきそばだと思って食べろよ、あたしのこと。あたしを食って、まともな生活しろよ」

まともと言われて、やけに腹がたってくる。

しゃべるやきそばが何を言ってるんだ? 人の夕飯を何食分もぶっとばしたこいつが?

シンプルに迷惑すぎる居候なのに? こちらは毎日真面目に出勤して疲れて帰ってくるだけの身なのに?

変に血の気がのぼった俺は、女の上に乗り上げた。

暗闇に紛れる褐色の首もとに噛みつく。

炒めたキャベツの甘み。青海苔の香り。

濃いソースの酸っぱい風味に、唾液が反応した。


朝、起きる。

褐色女は、消えていた。

やけに部屋が明るいのは、窓を半分覆っていた雑誌や服の山に、昨日やきそばがふっかかり、掃除したからだ。

起き抜けに足を降ろす位置にスリッパをおけるようになったのも、ここに落ちたやきそばを処理したからだ。

シワだらけのまま着てなかったジャケットも、やきそばをかけられたせいでクリーニングしてある。

……いい朝なのかはわからない。

ただその朝から、部屋は明るく、ベッドは広く、俺は腹が減るようになった。


レンジから取り出した、湯気の立つやきそばを頬張る。

「……うめ」

やけに大人しく皿に収まるやきそばを見ると、なんだか力が抜けた。