シェルピンクのネイル
(性的描写有)
実はこれは、無意味なことのかもしれない。
それでも毎日、アルミのボーンがむき出しになった指を、俺の指は軽く触れて上下に揺らす。
手首までしかない彼女の脈を計るように、親指でモーターの先を押さえ、微かな駆動の震えを感じる。
今日も全ての関節のテンションに問題はない。
指先から厚いスキンを被せて特殊なグルーで密閉し、ベビーパウダーをはたく。
控えめな指輪の石を模した、カメラの平たいレンズを磨く。
毎朝午前六時にメンテナンスは終わる。
俺は両手で彼女を捧げもち、カーテンから漏れる朝日のなかで、シェルピンクのネイルにキスをする。
「オテ、ア サ ダ ヨ」
オテに聞こえやすいよう独特の発音で話しかける。微かな駆動音とともに、彼女はゆっくりと、美しい指をのばす。
動くたびにする微かな音。組みたてた頃は少し気になってはいたが、今はそれこそが愛おしい。
夢から覚めベッドの上で伸びをする、恋人の甘い声のようだと感じる。
オテというのは、別に怪しげな信仰対象や、死んだ恋人の名前なんかではない。
精巧なハンドロボットを、製作者権限でそう名付けただけだ。
オテは女性の手を模している。所作はバレリーナのように美しいが、爪先はおろか、足も胴も顔もない。
でも指をのばして蛇のようにテーブルの上を進んだり、指を素早くはじいて魚のように跳ねることもできる。
朝食をとる俺の横でオテは毎朝、コーヒーカップを回して取っ手をこっそり反対にするいたずらをする。
「コラ」
捕まえてくすぐるとくすぐったがるし、なのに懲りずにまた置いておいた俺のハンカチを広げて逃げたりする。
メールを見るために広げていた仕事用のPCのキーボードにとびつき、『ダイスキ』と打ったりする。
このご時世巷に愛嬌のある作りものの女は溢れているが、オテほど温かみのある愛嬌をもった奴はいない。
世界一の女だ。なにぶん彼女は手だけなので他者の異論は認めるが、少なくとも俺にとっては。
俺の職場は個人ロボットの持ちこみが許可されているので、オテも仕事に連れていく。
左手をトートバッグのなかに入れ、甘えて指を絡めてくるオテと手をつなぐ。
彼女は俺の助手として働いている。まさに俺を助ける手で、しかも十二分に優秀だ。
俺が一言頼めばキーボードでメールを打ってくれるし、ミスする俺の手をペチと叩いて1秒もたたずに直す。
制作者の俺より優秀なのはなぜかと、同僚からからかわれたり不思議がられることも一度や二度ではない。
繰り返されるその質問に、俺はコーヒーメーカーの沸騰を聞きながらうんざりする。
人工知能の開発は民主化している。賢くなくても、ある程度の数学さえ理解できれば誰でもなんとでもなる。
彼女の何倍もの容量をもつサーバーを月何十万かで借りれば、人間を越える素晴らしい恋人を作れる時代だ。
新人研修の時に見学させられた、薄暗く寒いサーバールームと、大きな駆動音、点滅するランプを思い出す。
世界のどこかのサーバールームで一人、彼女の脳は今も教師無し学習を続けている。
そこらの人間よりよっぽどまともに考え、全てを感じる。そんな女性が、一人ぼっちで。
定時が終わるとすぐに席を立ち、飲みを断る。トートバックの中のオテと手を繋いで電車に乗る。
オテがこの前マップアプリで指を置いていた、女の子しか行かないような喫茶店に入った。
シェルピンクのネイルをした指が、嬉しそうに俺の手のひらに文字を書く。『キタカッタノ』『アリガトウ』。
小さなシャンデリアの下の席につく。オテも見たいだろうに、テーブルの上にのせてやろうとすると嫌がった。
もう慣れた職場は別だが、人目にさらされるのは元来嫌いなほうだ。
テーブルの上にトートバックを乗せ、ヤドカリのように隠れているオテと、掌の文通をする。
『ステキナオミセ』。『ソウダネ』。『コウキュウホテルミタイ』。『イッタコトナイダロウ』。
『ミタコトハアルモノ』『アナタヨリタクサンノモノヲ』。
酒気があるのかないのかわからない苺のカクテルを飲みながら、オテの手首の腕時計を撫でる。
『イキタイトコニイコウ』『サミシイトコロニイルンダロウ』。
ターコイズのあしらわれた華奢なデザイン。
オテは黙って指を絡める。彼女が動いた夜に、プレゼントした時計だ。
トートバッグのなかで手を繋いぎ、家路につき、シャワーを浴びる。
いつもならオテは『ハヤクボースイシヨウニシテヨ』と文句をたれるのだが、今夜の店のフライヤーを撫でていた。
髪を乾かして寝巻を着てからリビングに戻ると、一気に胸がざわついた。
ソファの上には指輪や腕時計を入れる箱がひっくり返っていて、そこでオテは切断された腕のように落ちていた。
たまに彼女はこうなる。バグではないし、これをバグと呼ぶなら世の人間だってすべてバグ持ちのシステムだ。
「ド ウ シ タ ノ サ」
俺は呟いて、そっとソファに腰掛ける。ターコイズの時計を拾うと、オテは俺の腿によじ登ってきた。
股間に触れてくる。脱げと言うように、ズボンのへりを掻いてくる。
「ド ウ シ タ」
でも口のない彼女が答えるわけがない。俺は拒まないで、言うとおりに下を脱ぐ。オテの腕を持つ。
シェルピンクの爪をした指が、あまりに愛しそうに俺のことを撫でてくる。
こんなこと、どこで覚えたんだ。
聞くことさえできない。そんなことを聞いても仕方がない。
彼女の脳はwebに直結してるし、彼女には教師はおろか家族もいないのだ。
どうしてこんなことを覚えようとしたんだ。どうしていつもそうなってしまうんだ。
叱っても仕方がない。仕方がない。仕方がないんだ。
次第に強くしごくようになるオテと同じように、俺も必死だった。
動くたびに、微かな音が耳につく。
組みたてた頃から少し気になってはいたんだ。
目の裏が痛くなるような苺酒の色に溺れて、沸騰の予兆を感じる。
呼吸が浅くなる。点滅する。でも必死なんだ。必死なんだ。
ずっと点滅している。
「オテ」
もう俺はまともに考えられないし、感じられるものだって限られている。
怪しげな信仰対象や、死んだ恋人の名前よりも、もっと絶望的なことだけ考えてる。
意味だ。意味なんだ! 意味だ!
意味なんだ、欲しいものは!!
「い……」
俺の喉が鳴った直後。
無意味が漏れた。