洗剤
母さんに遊ぶ場所を伝えて夕方の5時には帰らなければいけない。
もしも遅刻したら、遅刻した時間だけ正座だった。
父さんの稼いだお金で買って貰ったものを、無くしてはいけない。
鉛筆カバーを無くしたとき、見つけるまで学校に行けなかった。
父さんや母さんの言う他人の悪口に口答えしてはいけない。
他の家の子になりたいのがばれたら、また夜に外に出されるからだ。
帰宅後に必ずでる腹痛と蕁麻疹が少し落ち着いたら、家事をしなければならない。
家事は家族の義務で、両親は学生より何倍も疲れているからだ。
その日も掃除のため、私はトイレに入り、鍵をかけた。
便器の前に腰を下ろし、格子戸のはまった曇りガラスの夜を見あげていた。
物思いにふけるのをやめ、洗剤をもつ。
ゴム手袋をとった素手に、少し垂らす。
家事は永遠に終わらない。
母さんの名言だ。
なぜ家事は終わらないのか知ってる。
生きているからだ。
掌で光る青い洗剤はとても綺麗に見えた。
私は神様とお酒を酌み交わすような神妙な気持ちで、
手のひらから洗剤を啜った。
次の瞬間、がんと殴られたような痛みが頭に響いた。
スイッチが入ったように、
便器にしがみつき、
豪雨のような音の嘔吐をした。
激しい頭痛と頑なな生に負けながら、
私はずるずるとトイレの床に横たわった。
便器の下にあるネジカバーに埃が溜まっているのを、
無言で見ていた。
永遠なのだから終わるわけない。
私は頭がおかしい。
まわりの人が言ってくれないのは私が避けられてるから。
私には医者か教授か公務員になるべきだ。
普通の企業ではいじめられて自殺する。
下宿をしてはいけない。
散歩に出てはいけない。
私を一人にすると死ぬ。
私は頭がおかしい。
私はボイスレコーダーを買った。
泣く父さんからの徹夜のお説教で、徹夜で反論をした。
泣く母さんにとられた自分の通帳と携帯をひったくった。
家を出る最後、母さんは泣きながら私の服と鞄を引っ張った。
食卓に座ったまま動かない父さんの背中が小さかった。
母さんは言っていた。
子供は動物なのだと。
名言だと思う。
私は初めて、自分の部屋に鍵をかけた。
靴のまま玄関に座り込み、
格子戸のはまった曇りガラスの夜を見上げた。
かけた鍵の響きに、心が溶けていく。
涙が溢れてきた。
息を大きく吸う。
有り余る酸素に、肺が痙攣する。
溶けていく。
後悔と安堵の洪水は、
あのトイレで啜った洗剤のような色だ。
頭痛がするほど苦くて、
涙が出るほど綺麗だ。
そのとき、生きたから。