新年
(いつかの即興小説に加筆)
鼻の頭をきゅっとさせる、冷たい空気。
朝日がもやを金色に染めて、もやが朝日をミルク色に溶かす。
いろんな色が滲む草の露玉を、らくだ色のブーツで蹴飛ばして。
私はここ毎日、山道を分け入って、その家に向かう。
お寺の隣にある、竹の林に囲まれたおんぼろの平屋。
小さいころはコミュニティセンターとして使われていたけど、
新しい複合施設ができてからもう誰もこなくなった。
そして、今日も誰もいない。
毎日毎日、誰にも秘密で通い妻をしているのに。
不満な気持ちで長いマフラーに頬をうずめると、
眼鏡が白くくもる。ますます気分が下がる。
急に北風がふいて、竹を鳴らした。
私が髪に指を通そうとして上げた肩に、
黒の重いコートがかけられた。
振り向くと、黒っぽいセーターの男の子がいた。
黒のジーンズ。黒の眼鏡。黒いぼさぼさの髪。
使い古した黒い大きいキャリーケースの取っ手をしまっている。
黒ずくめで、背丈ばっかり高くって。
「……寒うござんす」
そのくせ声はぼそっと小さくて、うんと低い音色。
あとすっごく日本人っぽい、眉毛の濃い、冴えない顔。
でも私は嬉しさを隠せなかった。
「そうだね。……おかえり。寒太郎」
寒太郎は、私が小さい頃からこの家を持っている。
どうやって手に入れたかは知らないけど。
私達は冬になるとこうして集まって、
誰もいない古い家に入り、掃除をする。
「イタチのヤッコがバイクに轢かれて死んじゃった。あとでお墓行こう」
玄関と軒先を掃きながら、
私は寂しいことから順番に話した。
開け放した廊下の雑巾がけをしながら、
寒太郎はひっそりと悲しそうな顔をする。
「たぬきのハナちゃんが子供を産んだんだよ、たっくさん」
座布団にカバーをかけながら、
私は一番の吉報を言った。
囲炉裏の灰ならしをしながら、寒太郎は笑わないけど、
でも喜んでるのがなんとなくわかる。
不器用そうな大きな手が灰の上を掻いて、
籐籠のような繊細な模様を描いてく。
大騒ぎのテレビや、親戚のおじちゃんたちの相手。
お正月は少し疲れる。小さいころからそう。
その手の描いてく模様を見ると、年が明けたんだって思う。
やがて私の声(寒太郎は全然しゃべらない)をききつけて、
ぶち猫のゴローたちが今年も一目散に走ってきた。
どんどん動物たちは集まってくる。
ほとんどのお客さんは冬眠の最中だから、ねぼけまなこ。
ハクビシンの姉妹に、コウモリのいたずら軍団。
ノウサギのおじいちゃんと一族たち。
たぬきのハナちゃん一家もきて、
こだぬき達ははじめての人間の家におおはしゃぎ。
「冬でござんす」
寒太郎はたまに主人らしく玄関に出てきて、
ポッケに手を入れたまま皆にぼそっとあいさつした。
やっとかえってきたのって、リスのレンが不機嫌そうに冬毛を立てた。
「おかしいよね。この家の主人なのに、どこか行っちゃうなんて」
次々と玄関先に来る皆を、割烹着のまま招き入れながら、レンのあたまを撫でた。
でも知ってる。どうして寒太郎が、冬にしか帰ってこないのか。
世界のどこかはいつも冬だから。
冬には暖かい家がいるから。
熱いお茶を入れた湯呑とおもち。
うんとぬるい白湯の器とどんぐりを沢山。
お盆にのせて台所から戻ると、
火箸で木炭をいじっていた寒太郎と目が合った。
寒太郎は目をそらす。
私が小さいころからそう。
私は小さいころからずっと、
寒太郎の冴えない横顔を見ている。
「雪でござんす」
寒太郎の低い声が、そう呟いた。
私も外を見た。
朝は晴れていた空が薄く美しく曇って、
竹林に乾いた雪が舞っていた。