カビ
僕はその光景を見た時、まるで床に穴が開いたように感じた。
猫のように、体中の毛穴という毛穴が開いて、
自分の体温がスウッと下がるのがわかった。
スタンドミラーの木枠に、柔らかい緑色の丸い模様がついていた。
よくみると、1ミリもない小さい塊の集まりだ。
雨の日の波紋のように、その丸が広がっている。
下に行くにつれて、緑の波紋はグラデーションのように広がって――
――その威風堂々とした広がりようは実に立派で、
あたかも初めから付いていた模様のような顔をしていた。
僕は一瞬騙されて、それが何か理解できなかったけれど――
――いや、これは――カビだ。
僕の持っていたクイックルワイパーと一緒に、心臓と呼吸と感情が静止した。
……おぞましい。
こんなにおぞましいものを見たのは久しぶりだ。
実家の台所まで小さい蟻が何百匹ものぼってきたときのことを思い出す。
あと、小学校のクラスで飼っていたら、寄生虫にやられたモンシロチョウの幼虫。
ハロウィン時期にYoutubeで見た、腕に蓮コラの特殊メイクをして喜ぶ女子高生……。
走馬灯のように、今までみた気持ち悪かったものベストテンが脳裏を駆け抜ける。
おかげでこんなカビの帝王みたいなカビを目の前にして何をする気も起きない。
こんなのもう事故じゃないか。大怪我だ。保険証を持って病院をまわりたい。
しばらくクイックルワイパーを持って立ち尽くしていた21歳男性の僕は、
我に返ったのか返ってないのかわからないような頭でゴム手袋をした。
……いや、カビは胞子をとばすんだ。うかつに手は出せない。
胞子ってどうすればいいんだ。濡らすのか? なあ、どうして高校生物で菌はろくにやらないんだ。
やっていたら僕は元来冷静なほうなんだから、事故にも遭わずに賢く対処できたに違いない。
ああもう嫌だ、保険証を持って病院をまわりたい。
とにかく部屋の中で見つけた「除菌」という頼もしい勲章を付けたリセッシュを握りしめ、
その威風堂々たる彼等にひとふきした。
ほわりと、軽くてはかない、白い煙が舞うのが見えた。
それにより、僕の心は完全に折れた。
それが胞子かどうか定かではない。高校生物で菌を学んでいない僕に同定する能力はない。
僕は黙りこみ、ゴム手袋を静かにとり、手をよく洗い、寝た。
それで起きてから思ったけど、僕は元気なカビたちのとばす胞子を一晩吸い込み続けたのだ。
ああ。保険証を持って病院をまわりたい。
次の日晴れていたのが幸いだった。
とりあえず修羅の形相で水拭きした姿見を裏向きでベランダに立て、
帰宅まではお天道様にまかせることができた。
休み時間にいつもつるんでいる仲間達に話すと、特に女子群がいっせいに笑った。
「イヤ~~~! 無理~~~!」
「一人暮らしの男の部屋って冗談抜きにヤバいよね」
「藤原竜也だってクイックルワイパーすんのに?」
彼女達はさらに言葉のナイフで僕をメッタ刺しにした。情けというものが欠片もない。
例えば僕が流行りのメンヘラとかだったら、彼女たちに対して
『僕だってクイックルワイパーはするんだ!』と逆上しながら刃物で切りつけたかもしれない。
僕は悲しい顔で財布から保険証を出して眺めて見せたが、誰にも意図は通じなかった。
「お気の毒に」
一方僕の彼女は、僕の姿見にカビが生えた件について心から同情してくれた。
僕の彼女は素晴らしく賢くて滑舌が良くて、異様に端的な言葉を使うから、
話しているとまるでTOEICのリスニングテストを受けてるかのような気分になる。
「アルコール消毒するといいよ、その後の掃除にも使えるし。あと、帰りに除湿機を買ったら?」
ともかく僕の彼女は周囲と比較しても最も建設的な提案をしてくれた。
「言われてみれば確かにそうだ。あ、じゃあ、帰りに一緒にヨドバシ見に行かない?」
彼女は以前充電器を欲しがっていた。そして一緒に食事をしたかった(それに家で食事をしたくなかった)。
「ごめんね、これからバイトなの」
「ああ、そうだったっけ?」
「時間がずれて、これからなの。私は家電に詳しくないし、栄藤君と行ったら?」
残念。これもTOEICによくある展開だ。
指名を受けた栄藤君(家電好きな彼女の後輩)をつかまえて、ヨドバシに行った。
「まあでも、これですよ。普通に考えて」
「ん~いや……空気乾かすだけなのに?」
「カビを根絶やしにするんじゃなかったんですか?」
性能重視の決断を下し、重い足取りで出口へ向かう。
「じゃ、俺はこれで」
栄藤君がエスカレーターから降りた。
「なんかまだ買うもんあんの? 今日のお礼で多少出資するよ」
ひょいとつられて降りる俺を見て、栄藤君はやや困った顔をした。
「や……今日は買いませんし」
栄藤君は電子楽器売場に行き、電子ピアノの椅子に座った。
「これひきに来ただけなんで」
「ふーん」
てろてろりんと洒落たジャズをひきだす栄藤君の後ろで、その耳についた細長いピアスを見た。
僕の彼女はジャズ研でピアノをやっていて、栄藤君とはたまに連弾で組むと聞いている。
挙句に彼女から嬉しそうな顔で、栄藤君とは相性がいいと言われると、流石に心象はよくない。
夜のバーを思わせるような潤った音でピアノを奏でる背中は、
鏡にカビが生えて精神がまいっているような僕とは違う世界に生きている気がした。
「栄藤君の家ってカビとかはえんの?」
「はえますよそりゃ、風呂場とかは」
栄藤君はピアノを止めないで答えた。
「へ~、意外だな」
悲しいことに僕は、昼に自分をメッタ刺しにしてきた彼女達をイメージしてしまった。
「だって人間が快適に感じる環境ってカビも好きだって言いません?」
「そうなのか、僕は風呂場に住みたくはないけどな……」
「あ、先輩は風呂に住みたいって言ってましたよ。バスボムがどうとか……」
彼女は風呂でスマホをしたり変な石鹸を溶かして遊ぶくらい、長風呂が好きだ。
僕は栄藤君をうりっと押し出すように、四角い椅子に腰を下ろした。ピアノが止まる。
「あーれー。なんで僕の彼女の風呂事情を知ってる?」
「なんでって本人が言ってたからです」
栄藤君はどうもずっと、ひきながら笑いをこらえていたらしかった。
「無理ですよ俺、あんなTOEICみたいな人と付き合うの」
僕は頷いた。
「僕もそれは常日頃思ってる」
その後、栄藤君におごって、解散した。
最寄駅で、改札機にピコーン! バターン! と止められた。
僕が持ってるのはSuicaじゃなくて、保険証だった。
なんだか、疲れた。
大きい除湿機を抱えて、自宅の玄関にヨロヨロ入る。
待ちきれない僕はサンタさんからの贈り物のように急いで梱包を開け、説明書を丁寧に読んだ。
組みたててスイッチを入れる。
狭い部屋に鎮座した立派な除湿機から聞こえてくる電子音や駆動音、色とりどりのLEDの光が、
素晴らしく頼もしく感じられた。
ベランダの姿見をおそるおそる見ると、拭いて干したのでカビの姿はなかった。
しかし染みが薄く残っていて使う気になれない。残念ながらこのカビマンションとはおさらばだ。
数年間、特に見目麗しいわけでもない男の姿見を勤めてくれた恋人と別れるのは寂しくもあるが、
今はゾンビに噛まれてゾンビ化した恋人なので、僕は市のHPを開いて粗大ごみ回収の申し込みをした。
スッキリしてシャワーからあがると彼女からLINEが来ていた。
僕が栄藤君のおかげで無事除湿機を買えたことを報告すると、喜んでくれた。
それから君の風呂事情の話になったと言うと、恥ずかしがっていた。
「まさか、一緒に入ったこととか、言ってないよね?」
「言うわけないよ。でも今度の週末、うちで一緒に入ろうか」
「なるほどね、新しいパターン」
彼女は電話口で笑っていた。口ぶりはいつも通りだけどその含み笑いがすごくセクシーだ。
こういう話を仕掛ければ、彼女は途端にTOEIC世界の住人ではなくなるってことは、僕だけが知っている。
「綺麗にしとくからさ」
電話を終える頃には、僕はもうそこそこに大丈夫になっていた。
本日の大きな買い物のレシートを家計簿に貼り付けてから、
保険証を財布の一番奥のポケットへしまい直し、眠った。