脱皮少女 (2012年作を加筆修正)



肘を曲げると、ピキ、とその奥が鳴るようになった。

そろそろ固くなる時期だった。

そう気づいて、私は手帳を開いた。そのあとにしなきゃいけないことを、電車の中、ゆれゆれの字でメモ欄に書いていく。

臼井さんと牧島さんたちにお礼を言うこと。その手土産に公民館近くのパン屋に行くこと。

体調が戻らないに決まってるから奈美たちと遊びに行くのを断る。くそー。でもしかたないか……。

本とDVDを返す。弟からメールが来てた数学の課題のヘルプ。あとなんか親孝行。それもパン屋でいい。

そんなもんだ。固くなり始めている手の甲を押えながらゆっくり手帳を閉じる。

電柱についた、モンシロチョウの卵みたいな灯りが白い。


アパートまで歩いていると日比谷から電話だ。中学の頃一緒にフルート吹いてただけなのに縁が切れない。

中学の頃の縁なんて、夏の汗みたいな匂いのもの、誰でも切って捨てたいだろうに。でもなんだか切れない。

でもこいつも、あれだから。

脱皮するひと。


「やっほう」

――何?

「今、絶賛脱皮中」

――サナギの中に携帯持ち込んでんの。壊れるよ。

「うん、あの~、俺、ちょっと」

――何。

「なんだろ、羽生えそう」

――……自慰でもしてんの?

「んなわけあるか。やってるとき電話する趣味ないから」


真っ暗な空き地のどこかで、秋の虫がジージーと鳴いている。


「いやマジで比喩じゃなく。背中ちょっとかゆくて、なんか出てるっぽくて」

――はあ?

私はすっとんきょうな声を上げながら鍵を探して部屋に入る。

「そういう反応なのかあ……。お前はまだ、こんなのなったことない?」

――知らないよ、そんな現象。

電気をつける。朝起きたそのままのシンクにベッド。冷え切った私の物という物。

片手でメイク落としをつまんで引き出すと余分に1枚でてきた。まったくもう。冷たいシートで乱暴にメイクを拭い取る。

――で、どういう? 色は?

手の中で垢の色みたいなファンデーション。

「え? うーん……」

――こらっ、危ない、動かなくていい、じっとして。


「死んだらどうしよう」

日比谷の声に冷たさと、寂しさを感じる。


秋だからかな。それとも蛍光灯の下だからか。


――どうしようね……。

私の声も冷たい。部屋も冷たい。肌も冷たい。

――でも私もこれから、今これから脱皮するから切るよ。私忙しいから。

「葬式っていくらかかるんだ?」


切った。


葬式のことを考えながら、服をすっかり脱いで、私はベッドにもぐった。

洗い物と洗濯は脱皮後の自分に丸投げ。


ふとももがすっかり乾いていた。

体のあちこちが痛い。


固まり始めてたのに動いてたから、体のあちこちが割れたんだ。脱皮コンディション最悪……。

暗闇の中、私はわざとあーあと小声でつぶやいた。わざとひざにあごなんかくっつけてみた。


やがて脱皮していく。

じっとしていればいい。

私の表面の細胞という細胞が、自分が古い皮と新しい皮のどちらに属するかを理解している。

だから、私自身は――なんだって脱皮なんかするんだしなくちゃいけないんだ人間と昆虫の狭間を生きなくちゃいけないんだなんてふてくされているだけの私は――じっとしているだけでいい。


固まって遊離する不純物。

私はいつも高校の科学の実験を思い出す。

頭が熱を持って、ぼうっとする。

イメージが飛んでいく。かすめてからすっと溶ける。細く引き伸ばした冷たいべっこうあめみたい。

どんな昔のことも最近のことも平等均一に。甘く苦い。匂いがする。光る。割れる。

今日のお昼のカレーピラフに入ってたグリーンピース。

子供のころ葬式で見た蝋人形のようなひいじい。

夢の中で訪れた薄暗いショッピングモール。

理科の教科書にあった変態過程の写真。

サナギの中で惨めなほどぐにゅぐにゅの蝶。


私はふっと目覚めた。でも、まだぼうっと動かなかった。視界はぼやけていた。


私を包む古い皮はすっかり柔らかくなっていて、朝はすっかり明けている、と思ったらもう昼だ。今日の午前損した。

ぴり。

手ごたえのない皮の破れ目から、私は這い出た。

ずたずたにしてもいいんだけど、慎重に出るのはくせだ。贈り物の包装紙と一緒。

そのとき、背中にさわりと何かがふれて、ゾクッとした。

……。

スタンドミラーの前で、裸で立ち尽くした。

私の背中は白く光った。

目の前で倒れているへろへろの古い私の背中は、グロテスクなほど青い蝶の羽が生えていた。

皮の私から生気を吸い取ったように立派だ。よく乾いていると見えて、ぴんと開いて部屋の足場をなくしている巨大な青い羽は、誇らしげに私を見上げる。

昼の秋の光に、羽はきらきら輝いた。


電話をかけた。生きてるかな。

「おはよう。生きてるわ。皮に生えた、きれいよ。見る?」

――いい。どうする? これ……。

「売る? テレビに出るかも」

――やだよ……。

「つーか俺たち何者なの」

――うん。なんかもう、どうでもよくなってきた。

そういうと奴は笑った。なんだ。何か楽しいの。

「うん、どうでもいいな、もうこうなったら」


私はうん、うんと言いながら手帳を開いた。

臼井さんと牧島さんたちお礼。手土産パン屋さん。奈美たち遊び断る。本DVD返す。数学ヘルプ。親孝行(パン)。よし。

で、まず洗濯。洗い物とごはん。ゴミも捨てなきゃ。

いつもどおり、皮は紙袋に入れて可燃。羽も可燃。

そういえば脱皮のときはメイク落とすだけ無駄だ。やめよう。


全部終わったら、本とDVDを持って外に出よう。

新しい肌も心細いだろうから、昼のあったかい日差しをやりたい。