いぬ



いぬになりたい人間は多いと思う。なんたっていぬの生活は最高なのだ。やめられない。

人間の皆様へ、いぬであるぼくの一日をご紹介しよう。


まず朝になると、ご主人様が起きだすので、ベッドのなかでそれをじゃまする。

肩にあごをのせたり、首のにおいをかいだり、撫でてもらえるように手の下に入り込んだりと、趣向をこらしてじゃまをするのだ。ご主人様は喜ぶ。

興がのってくると甘噛みしたくなるんだけど、そうするとご主人様は怒るので、ほどほどにしておくのがいい。

特にうちのご主人様はキレイ好きで、夜のうちにシャワーをあびているので、あまりよだれまみれにすると後で冷たくされる。


ご主人様は冷蔵庫からごはんを出して、チンして食べる。起き出したご主人様の素足はきれいで、朝日をうけるとレースのカーテンみたいに真っ白にひかる。

ぼくはまだご主人様と寝てたいんだけど、ご主人様はぼくの餌代を稼ぎにお仕事へいくから、そこはかしこいいぬになるべきだ。ぼくはねぼけながら、ご主人様の回りをぐるぐる歩き回ったりすりすりしたりして、一緒にいたいのをアピールする。

するとご主人様の食べる手作りくるみパンを、ご主人様の手からもらえることがある。待て、と言われたらちゃんと待って、よし、と言われたら食べる。これがとてもおいしい。嬉しくてご主人様の指までべろべろになめてしまう。待てできてえらいねと頭を撫でられると、そのまま押し倒して顔までべろべろ舐めたくなるけど、ぼくはかしこいいぬである。


かっこよくておしゃれな服を着て、髪をセットしてびしっとメイクをして、そういうときもぼくは絶えずそばにいる。

毎日つくづく大変だなあと思いながら、ご主人様の背中でねぎらいのくんくんをする。化粧品の匂いはあんまり好きじゃない。ご主人様そのもののにおいが一番すきだ。

いぬにとっては見た目なんてそんなに大きな問題じゃないし、なにもしなくてもご主人様の全てが大好きなんだから、そんなに鏡につきっきりしてないでほしい。

早く仕事して早く帰ってきてクレンジングをしてほしい。


ご主人様が出掛けるときはもちろんお見送りをする。毎朝いってらっしゃいのキスをするけど、ここがとても肝心だ。

以前、お見送りのときに急に寂しくなって唇をぺろぺろ甘噛みしたことがあったけれど、ご主人様の口紅がとれてしまったようでとてもおこられた。それまではご機嫌でメイクをして、完成を確認する笑顔も綺麗だったのに、口紅がちょっとぼくについただけであのおこり顔……。

いぬなのでぼくは学習する。唇の先にくっつけるだけのキス。

ご主人様はキリッときめた格好で、どんな男も振り向くような華やかな笑顔をぼくに向けて、ドアを閉めて仕事にいった。ご主人様はこれから電車にのって会社についたら、てきぱきと完璧に仕事をこなしてくる。


さて、家に残されたいぬのぼくだが、これからが非常にいそがしい。

ご主人様が出ていくとそれだけで破壊的な眠気に襲われて、これからの全てを投げ出してまたベッドにもぐりこんでしまいたくなる。


そんな自分を鼓舞して、ごはんを食べる。まるで鳥かハムスターのえさみたいな、カリカリしたグラノーラだ。

ご主人様が週末に気まぐれで作ってくれたものの、正直甘味が足りなくてあまりおいしくない。でもご主人様のくれたものは、ありがたく食べるのがいぬだ。


それから、シャワーを浴びる。シャワーは嫌いだ。シャワーは本当に嫌いだ、めんどくさい。寝たい。寝たい。ドライヤーも面倒で嫌いだ。でもちゃんとやる。ご主人様の撫で心地に関わるからだ。ちなみにシャンプーもご主人様が選んだものだ。こだわりらしい。


そしてサッパリしたぼくは、パンツをはいてシャツをきて、ベルトをしめる。このあたりでやっと頭が起きてきて、チラシのアプリを見ながらコーヒーを飲むという、いぬらしからぬ芸当ができるようになる。朝の10時だ。近所のスーパーで牛肉が安い。なんとなく青椒肉絲をたべたい。自転車にのって、肉と筍、ぼくの得意な中華スープの材料とトイレットペーパー、それからビールも一緒に買ってくる。


買い物から帰ったら洗濯物を干して、料理だ。野菜は野菜用のまな板で、肉は肉用のまな板で切る。ぼくがご主人様のいぬで本当によかったと思うことは星の数ほどあるけれど、キッチンが広く、料理道具が揃っていて、それでいてあまり使われておらずすべて綺麗だという点は大きい。パン焼き機まであるので、最近ぼくは毎朝のパンまで焼きだした。中華鍋をゆすりながら思う。料理好きのいぬにとってはまさに天国。ご飯を作り終えると、明日朝のご主人様がチンして食べられるように耐熱ガラスの容器につめて眺め、満足感に浸る。


それから簡単に家の掃除をして、ぼくらの大切な鉢植えに水をやり、あとはしばらくまったりテレビを見る。サッカー以外の運動はあまり好きじゃないけど、ご主人様の買ってくれた筋トレグッズで数回だけ腹筋したりする。


月曜の授業は3限だけなので、いつもこうしてぎりぎりまでまったりして、いつもドタバタ出ていく。ぺたんこのリュックをかごに投げ入れて、スピードをだして自転車をこぐぼくを、マダムにつれられたチワワが見てくる。ホントのいぬになれたらどんなにいいだろう、大学なんて関係ないいぬに……。


9号棟の2階。セーフ! 教授にセーフじゃないとか言われ、頭を下げながら席につく。そしてすぐ寝る。


授業終わり、起きて、研究室によって、さっきの授業の先輩ノートをコピーする。

授業内容は過去の真面目な先輩がすべてPDFにして、ラボ内HDDで共有してくれているのだ。


それから、先週回した実験の結果整理。それだけで帰ろうとしてたけど、実験条件が気になったのでもう一度データ処理のプログラムを回し直して、教授に見つからないうちに退散。

なんであんな条件のまま実験したんだ?先週のぼくは……。あっ、わかった、先行研究の条件がそうだったから……。でもそれじゃ……。

……いや、あまり考えないようにしよう。ぼくはいぬなんだから、難しいことを考えると気が滅入る。


夕闇のなか自転車をこいでいると、風にのってキンモクセイのにおいがして、なんだか切なくなる。一昨年の今頃は後輩の子と遊び回っていたことを思い出したのだ。

今のご主人様とはかなり違うタイプで、甘えん坊だった。お菓子をあげるふりをしてじらしたり、ふざけて叱ったりくすぐったりすると嬉しそうに笑って、まるでこいぬのような子だった。


キンモクセイのにおいからやや逃げるように帰る。

部屋は暗い。

ご主人様が帰ってくる前に風呂を掃除して、映画の録画をしておく。まだ、ご主人様から連絡はない。

寝室の掃除を少し丁寧にしてくる。まだ連絡はない。掃除はしてしまったので、残っていた材料で気まぐれにクレープを焼く。まだ連絡はない。

また帰り時間の連絡を忘れているのだろうか。抗議の念をこめて寝室にいき、ベッドのご主人側に寝そべってにおいをかぎながら連絡を待つも、昨晩のあれそれを思い出して気がすんでも連絡はなく、あげくは真ん中に寝そべったままスマホゲームのガチャを引くか引かまいか悩んでいると、やっとヒールの音がしてきた。連絡はまだないのに!


玄関へ小走りでかけより、ドアを開けてご主人様の腕をつかんで、驚き笑ってるご主人様を胸のなかに引き込み、抱き締めた。

いつもの髪の香りへの愛しさ、会いたかった気持ちが、まるでいぬが甘えているような鳴き声になって、喉から絞り出てくる。

ご主人様は鞄を玄関に置いてから、ぼくの背中を撫でてくれる。

ああ、尻尾がほしい。

首輪もほしい。

ぼくはまた完全ないぬにもどって、しばらくなにも言わずにご主人様を抱きしめる。


それから一緒に、昼に作った青椒肉絲とさっき焼いたクレープを食べる。ビールも買ったと言うと、ご主人様は喜んで、ぼくの髪をわしゃわしゃと撫でくりまわした。撫でられるのはとても気持ちいい。ふたりで一缶のみながら、ぼくはもう一度撫でてほしくてビールを口移しした。ご主人様が正直にまずいと言うのがおもしろくて、何度もした。


ぼくはアルコールを少しでもとるとすぐ眠くなる。ぼくのことを寝室に連れていきベッドに転がしたご主人様は、ぼくに覆い被さって、夜のうちにシャワーをあびるように囁く。

嫌いなシャワーもご主人様と一緒となれば話は別、ご主人様と服を脱がし脱がされ洗い洗われとなれば浴びたさはやまやまだけど、あいにくぼくは5秒後には夢の中だ。

だから朝は我慢してた、いってらっしゃいのキスをしながら、夢心地へとろけていく。


そうして、次の朝もご主人様が起き出すのをじゃまするところから始まるわけだ。

おわかりいただけたであろうか。いぬの生活は忙しいけど、やはり最高。

なかなかやめられないのだ。