国側抗弁PickUP

ここでは、各親権関係国賠訴訟における、国側の反論主張をPickUPし、公な見解と捉えて内容を精査、その真意について確認する。(※公式見解として、個人事件においても利用できる可能性も有り)

尚、齟齬や矛盾点があればそこも確認する(別途まとめる予定)


①『面会交流』集団訴訟(上野先生 他)における国側主張

●国『面会交流が権利として認められているかや、それが別居親の権利として認められているかについては学説上も議論が分かれており・・・』

<当事者目線より>

面会交流権は、学説上、定まっていないからという抗弁で学者次第というもの。逆に「学者が口を揃えて権利」と言えばとなるが、色んな説(学び)があるから学説であるところ、だから保障されるものではないでは詭弁の類。これではペンディングとしか言いようがない。であれば海外の研究も含めたところで、どうなのかという判断を求めたく、税金を使って海外の調査しているのであれば尚更として、反論したいところ


②『離婚後単独親権違憲』訴訟(作花先生)における国側主張

LINK:論点一覧(訴訟HP)

こちらの訴訟については、上記LINK先にて論点整理がきちんとされているので参照願いたい。国の主張骨子としては、親権は基本的人権ではない(憲法上保障されるものではない)とのもの。

●国『親権は「社会的責務」である』

●国『離婚後共同親権でも連れ去りはなくならないし、連れ去りは親権者指定の決定的要素とならない』

●国『裁判所は後見的立場から、親権者としての適格性を吟味して父母の一方を親権者と定めている』

●国『仮に離婚後共同親権が導入されるなら、親権の内容や共同行使の方法等の検討が不可避』

●国『離婚後共同親権にしたとしても、監護者をめぐる争いは残る』

●国『親権喪失は要件が厳格で、共同親権で問題が生じた場合に利用するのは困難』

●国『親権を失った親も再度親権を得る可能性があるから、不平等ではない』

●国『親権者を一人にすることよって適時適切な親権行使が可能となり、子供の利益となる』

●国『親権を持たないことを面会交流の制限理由とする規定はない』

<当事者目線より>

これら主張は基本スタンスといったところで共通。他の訴訟でも使い廻ししており、この辺りは続く国賠の中でも同様に主張されてくると思われる。

少し注目しているのは『親権喪失は要件が厳格』という点。それが離婚という一事でもっても喪失するのだが、その一事は厳格ではなく、「親権者としてなんら適格性に問題なくても」喪失要件が同様に満たされるというもので合理性もさることながら、厳格要件による喪失者と同列に扱われるのは、ある意味逆差別になってはいないのかと反論したいところ。

それから『離婚後共同親権が導入されるなら共同行使の検討が不可避』という点については、それが国の責務なのであるから何を主張しているのかといったもの。むしろ回避思考に傾倒していたという証拠にすらなっている。そもそも共同監護は先の民法改正時に予定されていたはず(既に成っていて然るべきのところ、怠慢としか言いようがない)。

『離婚後共同親権にしたとしても、監護者をめぐる争いは残る』というのも、上っ面論理でしかなく、まず「親権争い」という不毛な争いが無くなること、つまりオールオアナッシングでなくなるという意義は大きいと考えられないのであろうか。勝ち負け、それに直面するからこそ、互いを非難し合うという、極めて非建設的な協議が繰り広げられているのであり、そこに熱くなってしまう。互いに親権を失わないというベースで、監護等について協議するのでは大違いで、より建設的、例えば幼少期においては一方が、思春期においてはもう一方がなど、また子の意向も含め、よほどそちらの方が未来志向型で、子の福祉に資するものになるとは考えられないのであろうか。


③『養育権』集団訴訟(稲坂先生、古賀先生、富田先生)における国側主張

●国『仮に原告らの主張する「養育権」の存在を前提としても、その侵害の原因は「他方親の意向」によるものと思われ、国に対して賠償を請求し得る根拠が不明である。』(答弁書-10頁)

●『原告らは、「子の利益」(民法766条1項)という判断基準では不十分である旨も主張するが、法文の要件がある程度抽象的であることはままある』(第1準備書面-9頁)

<当事者目線より>

前者の主張は暴論といったもので、例えば個人情報が流出されても、それは流出した者による侵害行為なので、国に責任は無いといった理屈。仮の話としているとしても、逆にそれが「真に存在する権利」と認めた上での話なのであるから「他から侵害されない為の法規定は不可欠であった」とされない謎。「養育権」という権利が学説や海外事例等から認められれば、とても通る理屈ではない。

後者の主張は『抽象的であることはままある』とは、そうかも知れないが、具体的になっていないことを問題としているわけであるから、抽象的なままで是とする根拠を出せてないのでは話にならない。「子の利益」といっても、それが如何なる犠牲を払ってでもという極論は危険で、例えば「未成年者の一時的な意思を利用した断絶状態」を追認する形で判断されるようでは、駄目で、未成熟な子どものその時の意思だけでなく、先々の経済的な面であったり、そもそも父母から等しく愛情を受けられることを基本基準で考えられなければおかしい。


④『子の連れ去り違憲』集団訴訟(作花先生)における国側主張

●国『未成年者略及び誘拐罪は、行為の主体が親権者であるからといって、その適用が排除されるものではない』(準備書面(1)-6頁)

●国『(民法766条は離婚前において類推適用されると認めた上で、同条の)考慮要素として、他方の親の同意を得ずに子を連れていくことについて法文に具体的に明示されていない』(準備書面(1)-7頁)

●国『(離婚前)766条の類推適用により、父母の一方を監護者と定め、子の引渡しを命じる審判をすることができるとする学説(略)等がある』(準備書面(1)-7頁)

<当事者目線より>

一つ目は、未成年略取誘拐が連れ去りにおいても成り立つというもの。二つ目は、連れ去りが考慮要素とされないとされているが、そうすると、特に前置きの離婚前(親権有り)において、安易に類推適用して良いのかということに疑問が残る。つまり「同意」の上での子も含めた別居においてならまだしも、「同意」もない状態から、この直接条文でもないものを適用させてはいけないものとなり、この場合における「子の監護に関する申立て」というのは、手続き上に問題があると示唆しているようにも見えてくる。三つめは、その離婚前の類推適用についてであるが「学説」から導き出せるというもので、ここの学説は絶対的なものだから引用されるのであろうか。学説を前面に出す場合とそうでない場合のラインが不明瞭に感じる。