02 メッチルイの丘

メッチルイの丘01(1890年の旭川市街図;旭川市史より)

その昔,旭川駅前にチャシ*があったことは,現在ではあまり知られていません.

そこには全長200m,比高約15m**という丘があり,チャシコツ(砦跡)がありました.

上図の「ツコシヤチ」(古いので逆方向読みです)と示してある場所です.

メッチルイの丘02(義経台跡の碑:ボレアロ=プー original)

当時のアイヌは「メッチルイ」と呼び,和人は「義経台***」と呼んでいたといいます.

メッチルイとは石狩アイヌ****の大酋長の娘の名でした.

十勝アイヌが上川に攻め入った*****ときに,十勝アイヌの若者に恋をしたメッチルイが仲間を裏切り,父である大酋長に殺害されるという事件がありました.戦いが終わったあと,上川アイヌはメッチルイを悼み,戦場となったチャシのある丘を「メッチルイ」と呼んだのだそうです.

仲間を裏切ったメッチルイを記念する.不思議なことです.

よほどメッチルイが愛された人であったのか,あるいは裏切られても,皆が涙するようなドラマがあったのか,この伝説を採録した近江も詳細は残していません.


メッチルイの丘03~05(標柱:ボレアロ=プー original)

さて,この丘は1896(明治29)年から始まる鉄道-旭川駅の建設に伴い,削られて消滅******してしまいました.削ったときに出た土砂はすぐそばの忠別川の埋め立てに使われたそうです.

今となっては,この丘がどのような地質でできていたのか,それを知る術はありませんが,北海道立地質研究所(2009編)の上川盆地断面図を見ると,旭川駅前付近は基盤の中生界が深く,旭川層が厚く埋めており,比布~当麻方面で見られる古生代末~中生界のメランジ堆積物の残丘であったとは考えにくいです(なんのことやら,と思う人もいるかと思いますが,このあたりは“当麻残丘群”(未工事)あたりで説明しようかと考えています).そうすると,南にある神楽岡丘陵(あるいは東にある東神楽町の“新”義経台)の地質とたぶん同じような火砕流堆積物ということになるでしょうか.

メッチルイの丘04(神楽岡丘陵:グーグルアースより)

メッチルイの丘05(“新”義経台:グーグルアースより)

これらの丘陵は,鈴木(1955)は更新世の溶結凝灰岩として一色に塗っていましたが,研究が進むにつれて,池田・向山(1983)では,上川盆地周辺の火砕岩類は「雨月沢火砕流堆積物」(松井ほか,1968),「美瑛火砕流堆積物」(池田・向山,1983)の二つに分けられるようになりました.この時,美瑛火砕流堆積物は古地磁気層序の検討によりオルドバイ事件(1.87~1.67Ma)の中であることが明らかにされています.

さらに,西来ほか(2017)は,美瑛川中流域~下流域の火砕岩は約70~80万年前であることを指摘し,美瑛火砕流とされているものは二層以上の地質ユニットで構成されることを明らかにしています.ということは,消えてしまったメッチルイの丘は,約70〜80万年前の火砕流堆積物であった可能性が高いということになりましょうか.

メッチルイの丘06(「メッチルイの丘」のあった場所の現在のようす:グーグルアースより)

JR北海道の施設が建ち並び,丘のあったことはまるでわかりません.

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* チャシ:(chási=砦;館;柵;柵囲い:知里,1956).チャシコツ(chási-kot)は砦の跡.桑原・川上(2015)はチャシが造られたのは主に16~18世紀であり,アイヌ文化の成立に関係があるとしています.

** 全長200m,比高約15m:宮下通5~7丁目付近(4~6丁目の異説あり)という記述と,明治23年旭川市街図より推定しました.比高は宇田川(2005)より引用.

*** 義経台:この台地には,アイヌ神話の英雄神の一人・オキクルミの伝説が残されていたらしいです.その上で,オキクルミと源義経は混同されていることが多く,このチャシでおこなわれたアイヌの神事の最中に「ギケイコウ(義経公),〃」と合いの手が入るところから,それを聞いた和人がこの丘のことを「義経台」と呼び始めたという話があるようです.なお,東神楽町の東神楽神社がある台地は,現在「義経台」と呼ばれていますが,それは消滅した義経台に似ていたからだともいわれています.

**** 石狩アイヌ:ここに登場する「メッチルイの伝説」の初出(近江,1931;1954)には確かに「石狩アイヌ」とあります.しかし,村上(1959)では近江(1931)を引用しながら「上川アイヌ」となり,これらを引用した宇田川(2005)は,このちがいに注意を呼びかけています.

***** 上川に攻め入った:アイヌの伝承では,十勝に限らず北見やそのほかのアイヌ(あるいは異民族も含めてか)が上川に攻めてきたという事件が頻繁にあらわれます.上川には攻め入る理由があったのか,あるいは当時のアイヌ社会の状態を示しているのか,興味深いところです.上川盆地に住んでいるアイヌには十勝方面につながりが深いグループ,石狩方面につながりが深いグループ,それとは別に北方系のグループがあるといわれていて(瀬川旭川博物館館長講演),上川アイヌという言い方が正確なのかどうか知りたいところです.これは空想ですが,上川盆地には大量のサケが遡上していたので,これらを獲るために,各地からアイヌのグループがやってきて,一時「争い」になったのではないかと思っています.そして,本来は秋になると集まってきたアイヌたちが,その一部が冬になっても故郷に帰らずに,住み着いたものかもしれません.こんなのは上川アイヌと各地のアイヌのDNAを調べれば,裏付けがとれると思いますが,過去のアイヌ研究者は悪いことばかりしており,信用されていないので無理でしょうね.

****** 削られて消滅:じつは,この時までに,この丘の上には和人が建てた神社がありました.この丘の下の通りだから「宮下通」の名が起こり,丘が消えたあとも宮下通りの名が残りました.「宮」そのものは何度か移転をくり返したあと,上川離宮建設予定であった神楽岡に移設して「上川神社」を名乗っています.