05 突哨山の石灰岩

突哨山南端(Google Earthより)

「04 当麻残丘列」で少し触れましたが,ここでは突哨山の石灰岩について説明したいと思います.

突哨山の石灰岩岩体は,地元では石灰山(いしばいやま)と呼ばれ,古くから石灰が掘られていました.工業的な意味での突哨山石灰石の情報は,浅田政広(2003)「上川開発と石灰工業ー突哨山石灰石鉱山史」に詳しいので,そちらを見てください.

比布町~当麻町付近の地質図(道立地質研究所,2009編より)

この突哨山には“地獄穴”と呼ばれるアイヌの伝説があるそうです.これはアイヌの世界観のひとつで,日本人がイメージする「地獄」へ通じる穴ではなくて,この世とは別のもう一つの世界(“死者の国”と考えると近いかもしれない)があって,そこへと通じる「通路=穴」と考えるとよさそうです.上記,浅田(2003)はこの伝説について微妙な表現*をしていますが,ここではそういう伝説があるとだけしておきましょう.

突哨山の地獄穴(の残骸といわれる穴:ボレアロプーoriginal)

現場に行ってみると,たしかに「穴」がいくつか残っています.むかしはもっと大きく,人が通れる穴であったといいますが,石灰石の採掘によってこのようになってしまったのだそうです.産状はわかりませんが,鍾乳石もあったらしく,作業員が勝手に持ち出した鍾乳石を路上で売っているのを社長が目撃した,とかいうエピソードが残っているそうです.

石灰岩体の発見

突哨山石灰岩体の発見がいつごろであるか,まただれが発見したのか,ということについて,「新旭川市史」には1)ライマンが1873(明治6)年に発見した,2)白野夏雲(開拓使職員)が1889(明治22)年に発見した(自筆の石版画があるといいます),3)1887(明治20)年9月23日付の「北海新聞」に,白野夏雲がすでに上川の石灰岩を発見したという記事がある,という三つの説**を挙げてあります.

浅田(2003)は,発見者は白野夏雲,発見年は1889年と結論しています.また,鉱業史については,浅田が詳しく示しているので,興味のある方はそちらをどうぞ.

残念なことに,浅田は文科系の研究者なので,石灰岩体自体の地質学的情報はほとんどありません.渡瀬正三郎(1930)のスケッチがあるくらいです.これによりおおまかな露頭の構造がわかります.灰白色石灰岩と暗緑色片状頁岩,暗緑色珪質砂岩がやや不規則な境界をもって混在している様子が見て取れます.

渡瀬正三郎(1930, fig. 8)

なお,V-3)には「鍾乳洞の発見」について記述があります.

地獄穴の伝説をヒントに,当時の旭川市長・坂東幸太郎一行の探索隊が石灰石採掘現場を調査したところ,六ヶ所の穴を発見し,なかには人間が入れる大きさのものもあり,鍾乳石もあったとされています.またこれは,中頓別の鍾乳洞***に次ぐ,道内二番目の発見であったそうです.

突哨山の地質年代

渡瀬(1930, fig. 4-7)

突哨山石灰岩からの化石の産出を報告したのは,前記,渡瀬(1930)です.その図には任意に切られた岩石薄片中の微化石のスケッチが示されています.それらは「有孔虫」や「ウミユリ」の茎とされています.スケッチからすると,第六図は放散虫かもしれません.

その後,鈴木 醇・北大教授は1/5万地質図幅説明書で,この石灰岩について説明し,「種々の放散虫…を多量に含有する部分がある」述べていて,また「突哨山中,石灰岩の周囲にある珪質岩中には数種の放散虫を含む」としています.(鈴木,1957)

猪郷ほか(1974)は,突哨山の石灰岩からコノドント化石****を発見し,Paragondolella polygnathiformis (Budurov and Stefanov)であることを確認しました.このことから突哨山の石灰岩は三畳紀後世であることを示しました.

P. polygnathiformisは栃木県葛生から(猪郷・西村,1984),北部北上・木沢畑層から(吉田ほか,1987),岡山県津山市・鏡野コンプレックスから(山岡,1992)も産出していて,ヨーロッパのコノドント層序に使われる種でもあり,三畳紀後世と見ていいであろうと結論しました.

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* 微妙な表現:浅田(2003)は更科(1955;1971;1981)によって記録されたアイヌの地獄穴伝説について紹介したとき,この三つに収録された伝説は「ほぼ同一である」としています.しかし,別の著者らによるアイヌの伝説集(須藤隆仙,1971;日本伝説拾遺会,1973;浜道人,1976;1978,更科・安藤,1977;阿部ほか,1985;1989)には,「いずれもここに紹介した話は収録されていない」とわざわざ断っています.わざわざ断った意味は不明です.もしかしたら,この伝説の存在には疑義があるのかもしれません.アイヌの伝説だとかアイヌの歌だといわれながら,よくよく調べると和人の創作だったという例もないわけではないので,よくよく注意が必要なのかもしれません.

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注の注:以下に引用文献を調査.

須藤隆仙(1971)北海道の伝説.山音文学会.

表題は「北海道の伝説」ですが,中身は「道南地区」だけです.いささか羊頭狗肉の感あり.したがって,“地獄穴”の伝説が収録されていないのは当然のようです.

浜道人(1976)北海道・ロマン伝説の旅.噴火湾社.

浜道人(1978)続北海道・ロマン伝説の旅.噴火湾社.

両著には,たしかに“地獄穴”の伝説はありません.しかし,内容をよく見ると,これらの話題は,開拓開始以降の「和人の伝説」がほとんどです.これでは“地獄穴”伝説の存否の検証には不適切でしょう.話題に関しては旭川付近に限れば「神居古潭のおいはぎ橋」と「永山の杖の木」しか触れられていません.続編(浜,1978)ではひとつもありません.さらに,公平に見ても,この本自体は旅行ガイドブック,現在でいうパワースポット案内的なもので,旅行エッセイ的な文章が続きます.学問検証的なレベルまで引き上げるには相当な努力が必要でしょう.

日本伝説拾遺会(1973)日本の伝説1.教育図書出版 山田書院.

「日本の伝説1」で「北海道/東北」とありますが,どういう方針で集められた本なのか,よくわかりません.ただの観光写真集の様な気がします.図書館に納められるであろうことを目的とした図書なのか.また,浅田の引用文献表には「教育図書出版」とありますが,実際には「山田書院」が出版社名で「教育図書出版」というのは社名の飾りのようです.実に怪しい.内容も「伝説」ではなくて「近現代史のエピソード」であり,なにか別の観光グラフ誌の表題を変えただけみたいです.眺めている分には楽しい人もいるかもしれませんが,伝説の調査には意味がありません.したがって,地獄穴の伝説がないのは当たり前.また,著者の「日本伝説拾遺会」というのは,ほかに出版物が見当たらず,この本を出版するためにつくられた仮の団体のようです.

見つからず(日本の古書店でお探しください)

更科源蔵・安藤美紀夫(1977)日本の伝説17.角川書店.

この書には,「突哨山の“地獄穴”」の伝説が含まれています.しかも,更科編と安藤編の両方にあります.これは浅田(2003)の誤読です.ただし,この本は過去に更科が集めて発表してきた,たくさんの伝説を編集して読み物風にしたもので,例によって話者や伝説の採集地などは示されていず,伝説の解析にはあまり参考になるものではありません.

阿部敏夫ほか(1985)日本伝説大系,第1巻.みずうみ書房.

この書には,「突哨山の“地獄穴”」の伝説が含まれています.浅田(2003)の誤読でしょう.この書は上記5書と異なり,本格的な伝説研究書の立場にあるようです.伝説の採集地のみならず,類似の伝承も網羅してあり,末尾には(総)解説もあります.残念ながら,基本伝承はどういう方針で集められたものか,またそれらは系統的に収集されたものなのかもよくわかりません.末尾の解説には「北海道の民俗学研究は、近年ようやく端緒についたばかりである。…(中略)…十分な展開をみることができなかった。」とあります.これからだということなのでしょうが,アイヌの文化は日々失われつつあり,これまでに残された資料のみで“アイヌの文化を語る”ということになれば,どこまで復元できるのか,他人事ながら心配になります.

阿部敏夫ほか(1989)日本昔話通観,第1巻.同朋社,.

この書には「突哨山の“地獄穴”」についての記述があります.この書は本格的な伝承解析を目的としているらしく,部外者の私にはその分け方や目的はわかりませんが,たしかにあります.メインの話は日高国沙流郡での収録ですが,類話として二つの「突哨山の“地獄穴”」の話が収録されています.

上記のように,浅田(2003)が存在を否定した「“地獄穴”の伝説」は,たしかにその例が各書に記述されており,なにゆえ浅田が否定したのかは不明です.

** 三つの説:1)ライマンについては,その行動はできる限り調べてありますが,記録にある限りでは,これはあり得ません.2),3)については,実物での確認が不可能なので,「そういうものがある」という前提で論を進めます.どちらも正しいとすれば白野夏雲が発見したということになります.また,3)が成立している以上2)は記述(あるいは解釈)がおかしい,ということになります.現物を確認したいものですが,こういうものは好事家にも歴史家にも“お宝”なので,部外者の私に見る機会があるとは思えません.市史編纂室(もしあるのなら)などで「重要な市の史料」として公開してくれるのを望みます.

*** 中頓別の鍾乳洞:高清水(2009)によれば,この鍾乳洞は新第三紀中新世中期~後期の中頓別層中の「石灰質岩層および石灰質砂岩層」に発達するもので,化石の検討から中新世中期後半~後期(約14.8-5.4Ma)と推定されています.通常石灰岩体といえば,サンゴ礁をイメージしますが,この石灰岩岩体は「中~高緯度地域の陸棚の比較的冷水の環境下で形成される炭酸塩岩堆積物を意味する“冷水性炭酸塩岩”」という非常に珍しいものです.

**** コノドント化石:なお,コノドントについては説明しません.ググってください.