投稿日: 2014/03/25 11:01:26
NEWSLETTER3月号 巻頭コラム
市民が決める脱原発の道
安倍政権は再稼働路線を加速する兆しである。それにしても再稼働を進める勢力から3・11の教訓は何か、何をどう変えるのかという見解を聞いたことがない。3・11の福島原発事故はなかったかのごとき姿勢である。「何事も学ばず、何事も忘れず」これが原子力ムラ“復活”の精神であろうか?
ところで「3・11と8・15」を比較しながら、何が変わったのか、何が変わらないのかと問い直し、現在の日本社会が直面しているテーマをえぐり出そうという論議が始まっている(『3・11以後、何が変わらないのか』岩波ブックレット)
「原発敗戦」(船橋洋一著・文春新書)も福島原発事故を「第二の敗戦」ととらえ、「変わらない」日本社会の特徴、組織や文化の在り方などを報告し、興味深い論点を出している。
「しかしぼくには、彼らが反省して態度を変えるとはとても思えないのだ。この三年で東電や経産省や肝心の時に敵前逃亡した保安院などの体質が変わっただろうか? 同じ人々が同じ組織で互いに庇(かば)い合って、省益・社益を守っている。この三年間の隠蔽(いんぺい)とごまかしと厚顔無恥を見ていればそれは歴然。変わる見込みは『永遠にゼロ』だ。船橋さんの周到な情報収集と鋭い分析を尊敬しつつ、そこからぼくは別の結論に至る――国土の脆弱(ぜいじゃく)性だけでなく、文化と国民性から判断しても、他の国はいざ知らず、我々は原発を動かすべきではない、と」(池澤夏樹:朝日2014年3月4日)
私を含めて多くの人々が池澤の苛立ちに共感する。絶望的現実がじりじりと拡大しており、再稼働を押し上げているからだ。「決めるのはわれわれだ」とする問答無用の権力である。しかし、だからと言って池澤のように断言していいのだろうか?
福島原発事故以来、政府がどう言おうと70%以上の人々が原発はいらないと判断している。
これが人々の事故から学んだ最大の教訓である。
日本の原発情勢の特異性は、政治が原発推進といっても、現実は稼働原発はゼロ。ドイツは政治が原発ゼロを掲げても、現実はまだ稼働原発があるという点だ。常識的なことだが、重要な点だ。池澤の主張のようにこの特異性に立脚して徹底拒否でゼロへの道を進むことはできるだろうか?なかなか難しいと思う。
ゼロを希望する人々自身が原発ゼロで社会運営を安定的にすることができるのか、不安と懐疑を持っているからだ。この不安と懐疑の心と、もう原発はいらないという心が矛盾し動揺しながらも同居している。再稼働路線はこの矛盾した心につけ込んでいるに過ぎない。政府が原発を稼働させても、人々の同意と支持があるわけではない。大義のない政治は一時的に勝利しても永続化することはない。そう思う。
問題はこの原発ゼロへの思いを、どう具体的に原発ゼロ社会へ進むのかという「卒原発のプログラム」であり、脱原発依存社会への構造的諸改革による制度政策の変革プログラムとその力である。この領域に踏み込む市民運動・社会運動と政治勢力の成長が希望への道だ。日本では徹底した批判精神の上にこそ、変革的な動きの源流を見出すことができる。日本では池澤のように(支配層の)危機意識は「永遠にゼロ」だから、原発を動かすべきではないとの、徹底した批判精神にとどまってはならない。どんなにゆっくりでも市民が決めるという原点から脱原発への歩みを進むべきではないか。
(運営委員 山田勝)