投稿日: 2021/01/25 5:11:18
あけましておめでとうございます。コロナ禍が全国的に感染者拡大となり、緊張を強いられる新年を迎えました。菅政権の失政により2度目の緊急事態宣言のもと収束が見通せません。会員の皆さまのご健勝を祈念しNPOご支援をお願い申し上げます。
学術会議次期会員推薦候補のうち6名の任命拒否事件の背景にあるものは何か、戦前の京大・滝川事件と美濃部達吉「天皇機関説事件」との歴史的な因縁を感じて平野貞夫氏(元参院議員)は『現代の理論』21冬号で「菅政権で日本はファシズム国家になった」と断じた。菅首相は答弁に詰まると「選挙で選ばれたから」と自分を正当化する言葉を吐くが、その意味は形だけの民主主義・選挙で政権についた後、ファシズムの本性を出してくる「カムフラージュ・デモクラシー」だと分析する。第二次安倍政権がそれであり菅はそれを継承したたというが、私は任命拒否事件の根底に統治システムとしての「首相機関」を継承したのではないかと分析する佐藤優氏の指摘(手島龍一・佐藤優『菅政権と米中危機』中公新書ラクレ、20.12)をヒントに内調(内閣官房調査室、日本のCIAとして占領下に組織された内閣官房調査室=内調(日本のCIAとして占領下に組織されたのちに内閣情報調査室に名称変更、室長は内閣情報官)の公安警察と連携した諜報活動intelligenceの謀略性を帯びた統治支配の問題の観点から考えてみたいと思う。
菅首相は衆院予算委の質問「6人の除外をいつ、だれから聞いたのか」という質問への答弁で「(6人除外の)決裁をする前、多分、杉田官房副長官からだと思います」と答えた。その後に、6人除外を指示したとみられる政府の内部文書を野党側要求に応じて内閣府が約200枚の資料を参院予算委理事に示した。資料には内閣府が任命の決裁文書を起案した「令和2年(2020年)9月24日」の日付と「外すべき者(副長官から)」という文字が手書きで記され、下の部分は黒塗りになった文書が明らかになった(朝日、20.12.12朝刊)。政府側は「副長官」が杉田氏であることは認めたものの黒塗り部分は「人事に関すること」として説明を拒否した。加藤官房長官は「「外すべき者」とは、6人を任命しないとの総理の判断が内閣府に伝えられ、それを事務方が記録したものだ」と説明した(朝日、同)。キーマンは杉田和博官房副長官であることが明白になった。杉田和博とはどういう背景と経歴を持った人物なのか。
杉田は警備公安警察畑を一路歩んできたとされる(以下は、ノンフィクション作家・森功「学術会議任命拒否キーマンは政権に居座る公安奉行杉田和博の正体」サンデー毎日20.11.29号の論述を参考にした)。杉田は、東大法学部を卒業後1980年に警察庁警備局外事課の理事官になり、外事関係の仕事に従事したが82年中曽根内閣の後藤田官房長官の秘書官を務めて官邸とのかかわりを持つようになった。その後は警備局公安1課長、警務局人事課長、92年に警察庁長官官房総括審議官になり、国松孝次警察庁長官体制の下で警備局長の要職に就任したが、国松長官狙撃事件に遭遇して大失態を犯したものの、97年4月内閣官房内閣情報調査(内調)室長に就任した。内調室長は森内閣の中央省庁再編による内閣法改正で内閣情報官と改められ政令ポストから法定ポストに昇格し、杉田は初代の内閣情報官に任命されたのちに、内閣危機管理監になったがこの危機管理監は官房長官を補佐し危機管理に関する機能を総括するポストになった。
杉田は2004年に危機管理監を退官して内調の外郭団体に天下り政権中枢から外れたが、第二次安倍政権発足とともに2012年に事務担当の最高位の官房副長官として政権中枢にカムバックした。さらに第二次安倍政権が2014年に設置した内閣人事局(680人の幹部官僚の人事を決定する)の第3代目の局長にも17年8月に就いた(初代局長は加藤勝信=現官房長官、2代目は萩生田光一=現文科大臣)。菅内閣発足でも重用・留任した。政務担当ではない事務担当の杉田が人事局長に就いたことは幹部官僚に極めて大きな忖度圧を及ぼすだろう。今回の6名の任命拒否には、各省庁の幹部官僚人事案を検討する人事局の任免協議制度を当てはめて所管外で違法に立案した疑いがある。諜報活動を軸とした統治をやめさせなければならない。(理事長 古川純)