投稿日: 2020/01/10 9:01:22
今年を振り返って、私にとって一番記憶に残る事件はハンセン病熊本地裁判決であった。政府内の厚労、法務、文科省さらに最高裁の根深い強硬な反対意見を押し切って控訴断念した勝利判決の確定であった。判決は「元患者への隔離という国策が家族への偏見と差別という社会構造を作った」と批判し、「就学、就労、村八分、結婚差別などの人生の被害をもたらした」として、家族にも固有の被害・損害を認めその補償を命じた。(判決の意義の全体像は『現代の理論』2020冬号:八尋光秀論文)
戦前の日本政府は1907年「癩予防に関する件」との法律を作り、1931年改正した。当時でも世界の動向と逆行する強制隔離政策(全患者を療養所に強制的に入所させる政策)を開始した。全国の自治体で癩撲滅運動が展開され、癩病患者とその家族にとって恐怖の時代が続いた。戦後1953年癩予防法に改正されたが、終生隔離撲滅主義の思想と運用は変わることがなかった。癩病に関する医学的知見は大幅に修正されており、少なくとも1960年以降は隔離の必要がなくなっていた。
政策の変更はようやく1996年「らい予防法」が廃止された。あれからさらに20余年。つまり国策の転換は事実上軽視され続けてきた。近代日本国家が国策によって推進してきたハンセン病患者に対する隔離政策の結果、日本社会の中に深刻な、根深い差別と偏見の社会構造が出来上がっていた。政府・自治体主導であったため、政治がこの差別と偏見の構造を一段と強固にし、社会を覆うことになり、今日に至っている。政府の責任も重要であるが、私たちにも責任があり、自戒すべき重要なテーマである。
さて、私はこの近代日本国家の癩病患者に対する「終生隔離撲滅主義」の国策批判という視点の重要性を踏まえたうえで、この問題を別の角度から取り上げ続けていた沖浦和光の思想的地平を想い起すことになった。私は新天皇即位に関連し大嘗祭は中世後期から近世に至る220年間行われていない歴史があり、その期間、即位灌頂という仏教儀礼(密教だが)が即位礼の中で行われていたことを指摘した。つまり、神道儀礼による即位礼の独占は明治維新になってからの出来事であるに過ぎず、神道儀礼は古くからの即位礼の伝統ある儀礼との主張は全く歴史の偽造に過ぎない。
問題はこの天皇と密教仏教との深い結びつきは、ハンセン病と深い関係がある。江戸時代の士農工商という身分差別の下に、エタ・非人という身分が存在した。この身分序列と社会のあり方は日本社会の構造的な骨格をなしていた。この非人の範疇に癩病者は位置づけられていた。「千年余にわたる癩差別の歴史を解明する」として沖浦和光は次のように指摘した。「非人宿以来癩を病んだものに対する隔離と差別という施策を実施し、受け入れてきた思想の根底には穢れの観念があった。ビンズー教の影響を強く受けた密教仏教を中心とした、10世紀ごろから貴族社会に広がったこの思想は、特定の事象や人物を不浄視しそれとの接触をタブーとした。
その帰結は地域共同体からの排除であり、世間からの隔離であった」「律令格式に見られる当時の国家権力の政策を分析するとともに浄・穢観に基づく差別観念の宗教的、イデオロギー的実態についても究明していかなければならない」(『沖浦和光著作集第四巻』現代書館)。私はようやく沖浦和光のこの問題地平に至りついた。今後のテーマにしたいと思う。なお、日本の宗教史の中では、仏教勢力が見放した癩病者に対し、その救済に向かったのがF・ザビエルなどのキリスト教徒であった。癩病者とその一族の中にキリスト教は普及し、その人々の流れは島原の乱で虐殺された村人たちに至り、また隠れキリシタンの中にもあった。ローマ法王の訪日で思い出した。(運営委員 山田勝)