投稿日: 2019/09/27 8:51:03
新天皇・徳仁の「即位礼正殿の儀」が10月22日に迫る中、靖国神社が昨年秋、神社創建150年に合わせた参拝を当時の明仁天皇に求める「行幸請願」を、宮内庁の宮中祭祀を担う掌典職宛に行ったが、検討されることもなく断られたとの記事を共同通信社が配信したのは、8月中旬であった。
1978年の「A級戦犯」合祀強行を契機に、恒例だった天皇の靖国参拝が途絶えて久しいが、それでも靖国神社の側から天皇の参拝を求める「行幸請願」を提出するのは、極めて異例だった。請願を行ったのは小堀邦夫宮司だが、彼は神社の部内会議で「陛下が慰霊の旅をすればするほど靖国神社は遠ざかっていく」「陛下は靖国神社をつぶそうとしている」などと発言、それが天皇批判と受け取られたことの責任を取って退任している。だが小堀宮司の危機感は、神社としては当然であろう。
というのも靖国神社は、戊辰戦争の官軍側戦死者を弔うという明治天皇自身の意向で創建され、以降も天皇が中心となって戦死者を「慰霊・顕彰」することが、その存在意義の核心だからだ。ところが肝心の天皇は靖国に参拝しないばかりか、各地の戦跡をたどって戦没者を慰霊する「慰霊の旅」を繰り返したのだ。この行為は「神霊(みたま)は靖国神社にのみ存在し、靖国神社以外の場所では『祀る』ことはできない」という、靖国の教義とも言える「神霊単一説」の天皇自身による拒絶であり、だからまた靖国神社の存立基盤の公然たる否定と言っても過言ではない。
この「靖国神社存亡の危機」は、明仁天皇が目指した「戦後象徴天皇制」のひとつの到達点を示している。と同時に、「統帥権を総覧する大元帥陛下」を戴く立憲君主制が解体されて以降の皇室が、「新たな立憲君主」として延命するための衣替えを着実に進めてきたことをも示している。言い換えればそれは、「天皇の戦争責任」に焦点を当て、主に昭和期の強権的天皇制を批判するという「近代天皇制批判」の運動に、近代天皇制の成立過程を批判的に検証する、だからまたこの国の近代化過程を批判的に検証する、新たな歴史的視座が必要となりつつあることを突きつけていると思うのだ。
「明治維新150年」の昨年と前後して、「王制復古」や「戊辰戦争」を批判的に再検証し、その歴史観に異を唱える言説が多く現れた。それは戦前、戦後を通じて少しも変わらなかった明治維新の歴史的評価、すなわち「日本の近代化に不可欠の偉業」といった「勝者の歴史観」を真剣にとらえ直し、今なお「脱亜入欧」の理念に振り回されて混迷を深めるこの国の、未来の形を考え直す試みを始める契機かもしれない。
「御一新」はなぜ、王制復古・天皇親政を唱えたのか?
「討幕の内戦」はなぜ、蝦夷地開拓を提唱した「蝦夷共和国」を問答無用で軍事的に制圧したのか?
そしてこの国の近代化過程はなぜ、共和制をことごとく押しつぶして君主制に突き進んだのか?
そして自由民権運動はなぜ、秩父困民党を「共和制の萌芽」とは評価できなかったのか?
近代化の再検証は、新たな論理的課題も浮かび上がらせる。(運営委員・佐々木希一)