投稿日: 2018/01/05 14:30:39
この数週間、日馬富士の暴力が引き起こした事件がテレビのワイドショーなどマスコミを席巻してきた。左翼からみれば、これは始まった臨時国会でのモリカケ問題を覆い隠そうというマスコミの意識的策謀だ、いうことになろう。しかし私自身は、興味を持って毎日この一件を報じるテレビを眺めていた。というのも、この一連の騒動には様々な「日本的なるもの」が顔を出し、日本社会の縮図を見る思いをしていたからである。
事件は横綱日馬富士が前頭貴の岩の頭部を酒席で強打し、相当な怪我を負わせたことで始まった。貴の岩は相手が横綱なので理不尽な暴力もじっと我慢していたという。これは地位の高い相手には逆らえないという「日本的序列社会」に特有の意識である。また貴の岩が殴打されるに至った前段として、先輩力士を蔑ろにする発言が問題にされたともいう。そうだとすれば「出る杭」として「見せしめ」に打たれたということになろう。
日馬富士の方は打擲の動機として、愛弟子に礼節や礼儀を教える「愛の鞭」だったと弁明している。指導を徹底させるためには「体罰」も許されるという日本スポーツ界の風潮が、序列意識と結びつくといかに危険な結果をもたらすかの実例である。幼児虐待で逮捕される親たちも常に「しつけ」を口にするが、似たような構造といえる。
貴乃花親方が相撲協会に断りなしに暴行傷害事件として警察に訴えたことが問題を複雑にした。相撲協会にまず報告して対処を決めるのが組織人として当然ではないかという批判が殺到した。日本の全ての組織が重んじる「組織の論理」である。これに対して、貴乃花親方が問題を相撲協会に任せなかったのは、「臭いものに蓋」で、事件は「なかったこと」にする「隠蔽体質」を懸念したからだとの声も上がった。貴の花親方がそうまで相撲協会を信用しないのは、それまでの協会運営の方向を巡っての「派閥抗争」が背景にあるのではないかとの解説もなされた。
日馬富士の涙の引退表明から、貴乃花親方への風当たりが強くなった。稽古熱心で後輩の面倒見も良く、自らは法政大学の大学院に入学するほど向学心もある、何よりもまだまだ現役としてやっていける横綱日馬富士の引退を惜しむ声の反映でもあろう。「判官贔屓」は貴乃花から日馬富士へと移ったのである。
ところが『週刊新潮』が爆弾を投げた。モンゴル「互助会」の存在の暴露と、その「八百長(星の貸し借り)」への関与を仄めかしたからである。親方の指導に従ってガチンコ勝負に徹してきた貴の岩を、モンゴル互助会の幹部連中が日頃うとましく思っていたとすれば、今回の過度の暴力も「制裁」ということになる。また貴乃花親方の、八百長の温床となりやすい「同郷意識」からなるモンゴル互助会と、この際徹底的に対決するという姿勢ももっともに見えてくる。少数意見を主張し続ける貴乃花親方の姿勢は評価できるが、モンゴル勢と対決することで相撲「道」を追求し過ぎれば、ナショナリズムに陥る危険も生じる。
この騒動で 改めて感じるのは、日本における「健全な個人意識の不在」であり、「和をもって尊しとする」ではなく、異を議論するのが尊い、との文化を創り上げることの大切さである。そのためには日々日常において私自身その努力を続けるしかない。
これが日馬富士騒動を楽しんだ私自身の自戒といえよう。(運営委員 牧梶郎)