投稿日: 2016/01/20 8:52:51
2016年の新年=申(さる)年が明けました。申年といえば過去を振り返って政治も経済も波乱の年となるといわれていますが、すでにサウジアラビアvs.イランの国交断絶事態の悪化や北朝鮮の4度目の核実験報道が飛び出してきて、国連と世界の証券市場に衝撃を与えています。私たちは情勢をウォッチし続けたいと思います。NPOを代表し今年も皆さまの一層のご支援とご協力をお願いいたします。
昨年はNPO活動の理論と実際に深い関係のあった先達が亡くなりました。5月に松下圭一さん(政治学者、85歳)、吉川勇一さん(元べ平連事務局長、84歳)、そして10月に篠原一さん(政治学者、90歳)の3人です。なかでも個人の自発的自律的市民運動のあり方について私は吉川さんにたいへん学びました。どこかのべ平連(「ベトナムに平和を!市民連合」、1974年解散)に属したことはありませんでしたが、べ平連と接点のある支援者が多かった反戦自衛官裁判支援活動の現場で、およそ多様な「普通の」市民がパートタイムで市民運動をやることの受け止め方と結社のルールのあり方をいわば「背中を見ながら」よく学びました。これは今でも活きていると思います。
本NPOの新しい変革の理論を考えるオルタクラブが「市民社会論」をテーマに取り組んだ活動の中で私は、松下さんの(ジョン・ロック1690年著である)『「市民政府論」を読む』(岩波現代文庫版、2014)を読むという報告を担当しました。なかでも私が強く印象付けられ報告でも強調したのは、訳語にあらわれた思考問題であり、①Governmentは「国家」や「統治」ではなくCivil Governmentを「市民政府」(松下初訳)と訳すべきであるように「政府」であること、②Nation、nationalは「国家」ではなく「国民」を意味すること、ロック(1632-1704)がstateの語を避けたのはそれがマキャベリ(1469-1527)のstato(君主の軍事=傭兵隊や政治機構=家産官僚)に由来し君主の権力装置の意味であって人民は含まれていないからであること、③Commonwealthは「国家」ではなく「公共社会」(共和社会)であり「〈公〉としての〈私〉がヨコに連合して社会という〈公〉を新たにつくっている」こと、の3点でした。個人ー市民ー市民社会=公共社会ー市民政府という構造を今の日本で理解することの重要性を学びました。
篠原さん逝去の報を知ってから歩いていた神保町の古本屋さんで偶然目にした篠原さんの本に『日本の政治風土』(岩波新書、1968)がありました。50年近く前に出された本ですが、篠原さんは日本の「政治風土」(政治的カルチャー、政治に対する態度〉として「なる」の論理をあげています。作為のバネになるような終末論を持ち「する」の論理を導き出してきたユダヤ人を一方にあげながら、日本人は現世主義で状況の見方が極めて楽観主義的、すべては予定調和的で、人為に関して「果報はねてまて」という「なる」の論理の思考が特徴的だといいます。丸山真男『日本の思想』所収の「『である』ことと『する』こと」に似ていますが、「なる」の論理は状況に逆らわず見通しを持たずにただ進歩に身をゆだねる、という素朴な信仰を意味します。これは「市民」ではありません。しかし篠原さん、見て下さい!昨年8月30日「国会前10万人大集会」に「戦争法案は廃案に」「アベは辞めろ」「民主主義ってこれだ」というコール・アンド・レスポンスの声をあげて集まった12万人の老若男女(全国津々浦々でも同様の集会あり)の登場は、「する」論理を自分の論理とした「市民」が澎湃として行動を起し「市民社会」が姿を現し「政府」をつくり変えようとした、ということではないでしょうか。(理事長・運営委員 古川純)