投稿日: 2015/09/15 10:05:59
追悼・鶴見俊輔さん~日本社会を凝視した「厳しく優しい」眼差し
戦後日本の安全保障政策の大転換を謀る安全保障関連法案が参議院での審議で大詰めを迎えているが、その安保法案が強行採決の末に衆院を通過した4日後の7月20日、京都市内の病院で鶴見俊輔さんが逝った。享年93歳だった。
べ平連(ベトナムに平和を!市民連合)の運動に魅せられてベトナム反戦運動に参加し、その後は一連の学園闘争や反戦・平和運動へと身を投じることになった私のような「全共闘世代」にとって、鶴見俊輔は小田実と並ぶアジテーターであり「行動する知識人」の代名詞であった。だから高校3年生のとき、べ平連のシンボルであった「殺すな!」バッチを制服に付け、当時は校則で生徒に短髪(3分刈の坊主頭)を義務付けていたプロテスタント系私立学校に3カ月ほど通いつづけたこともある。クラス担任の教師が、困惑気味に「バッチをつける意図」を問い質してきたことを思い出す。
だがその後の私は「ロシア革命史観」というか、新左翼運動では、解釈はバラバラでも圧倒的多数派であった「ボルシェビキ・レーニン主義」という革命理論に夢中になり、「自己決定」や「市民自治」を尊重する、当時の「統一と団結」至上主義というべき組織論とは明らかに異質なべ平連の先進性や、「日本的現実を凝視する」鶴見さんの姿勢に対する共感からは無自覚のうちに遠ざかったのだと、いまさらながらに思う。実際の私は、民間中小労働運動の経験を通じて「官公労組中心の総評労働運動に対する漠たる不信」を抱えながらも、「政治権力の革命的奪取」を至上の目標に闘いつづけたからだ。
もちろんこうした闘いの延長上に、日本社会の「革命」どころか「進歩的変革」すら達成できないことは「総評・社会党ブロック」の解体過程で明らかとなり、「社会主義国家・ソ連邦」の崩壊がこれに追い討ちをかけた。
こうして私は、「マルクス主義と土着」という自らの初心的テーマに立ち返って「日本的共同体の再評価」に向かい、そこで30年ぶりに鶴見さんとの再会を果たしたのだ。
「……思想としての優劣の評価を、原理上の一貫性ならびに原理のとらえかたの独創性をものさしとして下すならば、日本人の思想は、劣ったものと考えられるだろうし、現にそういうふうに日本人の思想を評価する動きが、明治以後の学者・著述家の間では主流になってきた。/…(中略)…原爆を相手の上に落すというふうなことは、相手を人として見知らぬという条件ではじめて、やりやすくなる。/見知らぬ人びとに対して適用する原理としての思想をとらえる立場は、有効であり、能率があるとしても、そういう流儀の思想のそなえやすい残酷な側面にも、もっと私たちは眼を見ひらいているようでありたい。そのように考える時に、明治以前からの日本の農業社会がとくに部落の中でそだててきた思想は、もっと大切にされてよい」。鶴見さんが、1977年に再刊された守田志郎著『日本の村―小さい部落―』の巻頭に寄せた一文である。
そう!鶴見さんは「民衆が生活する現実の社会」をいつも「内在的に」批判する厳しくも優しい眼差しを持っていたように思う。それは今年7月に晶文社から発行された『昭和を語る』にも貫かれている。この本で彼は「特攻」は間違っていたと断じると同時に、「その間違いに対する敬意をもっています」とも述べているのだ。
鶴見俊輔さんの「現実の社会に対する内在的批判」という姿勢を心に刻むことで、「行動する知識人」の死を悼みたい。(運営委員 佐々木希一)