投稿日: 2015/07/17 9:33:54
『NEWS LETTER』 7月号 巻頭コラム
表現の自由 ヴォルテールを超えて
「表現の自由」がまた話題になっている。自民党議員と作家百田尚樹の、基本的人権の何たるかを弁えない低劣不埒な発言のためである。
表現の自由が問題にされる時に必ずといっていいほど引用されるのが「私はあなたの意見には反対だが、あなたがそれを主張する権利は命をかけて守る 」というヴォルテールが言ったとされる言葉である。この言葉が語り継がれてきたのは、賢人ヴォルテールにふさわしい箴言であり、本質をずばりと突いていると考えられたからだろう。
沖縄の新聞は「左翼勢力に完全に乗っ取られている」「つぶさないといけない」という暴言に即して言い直せば、さしずめ「読売新聞と産経新聞は琉球新報と沖縄タイムスの普天間基地の辺野古移転に関する意見には反対だが、両社がそれを主張する権利は社運をかけても守る」ということになろう。表現の自由を存在理由(レーゾンデートル)とする新聞社としては当然の義務である。
ただこの言葉には、その後の人権思想の発展から見れば限界もある。というのは、命をかけても戦うことになる相手がはっきりしていないからである。フランス革命やアメリカ独立戦争などで切り拓かれた近代市民社会の歴史は、基本的人権・表現の自由を確立するためには時の権力、なかんずく国家、と戦わなければならないことを示した。現在、先進国のほとんどが憲法で基本的人権・表現の自由を保障し、国家権力は基本的人権・表現の自由を犯してはならないと定めているのは、こうした市民の側からの戦いの結果である。
日本国憲法も「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する」(第21条)、「この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であって、これらの権利は、過去幾多の試錬に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである」(第97条)と明言し、「天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ」(第99条)とその遵守を義務付けている。従って、政府与党の国会議員の、マスコミを懲らしめるには広告を出さないようにするのが一番などという発言は、単なる暴言にとどまらず明確な憲法違反であり、応分の処分が科されて当然なのである。
しかし、 表現の自由の潜在的脅威は国家権力だというところに留まっていれば、百田尚樹にも表現の自由がある、という議論の余地が残る。現代においては、国連の世界人権宣言は「すべて人は、人種、皮膚の色、性、言語、宗教、政治上その他の意見、国民的若しくは社会的出身、財産、門地その他の地位又はこれに類するいかなる事由による差別をも受けることなく、この宣言に掲げるすべての権利と自由とを享有することができる」と、社会的弱者やマイノリティの権利擁護を謳っている。総理の友人として知られる百田尚樹が、日本にある米軍基地のほとんどを押し付けられ苦しむ弱い立場の沖縄県民を不当に侮辱する権利はない。彼もまた厳しく非難されて当然なのである。現在では弱者や少数者に対するセクハラ、パワハラ、ヘイトスピーチなどは裁判による処罰の対象になっている。
表現の自由はこれだけで終わらない奥の深い問題でもある。元少年Aが書いた『絶歌』の出版は果たして表現の自由のうちなのか? この場合、擁護されるべき弱者は誰なのか?
(運営委員 牧梶郎)