投稿日: 2014/08/20 9:12:56
「永久革命」としての民主主義と「他者感覚」
今年は丸山眞男生誕100年であり、3月には「記念の会」が開かれた。NHK・Eテレは「日本人は何をめざしてきたのか 知の巨人たち」第3回で「民主主義を求めて~政治学者・丸山真男」(著作でも眞男と真男がある)をとりあげた(7/19)。丸山は1996年8月15日、82歳で逝去した。番組では丸山の長男・彰氏(1946年生れ)が日大闘争のなかで日大全共闘に参加してバリケードの中に入ったことや、彰氏が1968.10.21新宿騒乱事件で機動隊に蹴られ前歯を折ったというエピソードが紹介され、父・眞男が(最後まで闘う姿勢を変えない)彰氏に「これ以上展望が開けない」と発言して全共闘から退くよう迫ったことも証言された。
父は東大闘争の教官側・体制側に居たわけだから、当時の全状況の中で両者の応答をより深く探りたいような気もするが、私の関心は、丸山の静岡・三島庶民大学の講義や長野・信濃教育会の講演内容、定年前の1971年3月に丸山が東大を去った(彰氏は父は「自責の念と失望をもって」と述べた)あとに各地に招かれて開いた勉強会(いわば「丸山塾」)での話にある。丸山は、デモクラシーとは(しろうと市民の)「パートタイム政治参加」であること、民主主義は「制度、運動、理念」であり、「永久革命」としての民主主義(あらゆる国は民主化の過程にある)をくり返し語った。1995年、阪神淡路大震災とオウム真理教事件の年の12月、教え子たちの開いた会合で81歳の丸山が語ったのは(音声のみ)、「オウムは他人事とは思えない、自分の青春時代は日本中オウムだった」、「他者感覚がない」(同じ仲間としか話さない、ヨコに話をする機会をもたない)ということだった。
丸山の著書で私が学生時代から長いあいだ読み続け法学部2年次生の基礎文献講読で数年にわたって(嫌がられながらも)読み継いできたのは、『日本の思想』(岩波新書、1961)、その収録論考の中でも「『である』ことと『する』こと」(1958.10、岩波文化講演会)である。丸山は学生時代に末弘厳太郎先生の民法の「時効」の説明で「権利の上に長く眠っている者は民法の保護に値しない」(請求する行為によって時効を中断しないかぎり債権者であるという地位に安住しているとついには債権を喪う)ことを学んだが、その論理がはらむ重大な意味は何か、と問う。例えば徳川時代の出生・家柄・血族関係・年齢(年寄)・同郷・同族・同身分という「である」=属性の価値に対して、近代社会で何かをする目的のかぎりでとり結ぶ関係や制度、機能集団(会社・政党・組合・教育団体など)は本来的に「する」論理・価値(「業績」)に基づいている。
これを政治の世界に適用するならば、「民主主義とはもともと政治を特定身分の独占から広く市民にまで解放する運動として発達したもの」であり、「非政治的な市民の政治的関心によって、また『政界』以外の領域からの政治的発言と行動によってはじめて支えられる」ということになる。いまや反原発・脱原発・再稼動反対のアマチュア市民=主権者が官邸前デモに、経産省前広場テントにパートタイム政治参加・政治的発言の行動をしている「永久革命」としての民主主義の時代である。世襲政治屋ばかりの「である」政界?が何ら「する」政治の業績!をあげえていない、というべきではないか。(運営委員 古川純)