78年(15期)

1. 第15期メンバー

• 桂川 悦二郎(副将、ドイツ語)

• 佐藤 啓樹(英語)

• 廿楽 彰夫(経済)

• 長谷川 清(主務、経営)

• 安川 彰(英語)

• 渡邉 俊哉(主将、ドイツ語)

• 渡辺 正文(副務、英語)

• 北田 敦子(マネージャー、フランス語)

• 長谷川 雪香(マネージャー、フランス語)

2. 主な戦績

• 新人戦優勝(2年)

• 埼玉リーグ4位(4年)

3. 思い出

• 渡邉俊哉

★入部の動機:中学からサッカー気違いであった私は、大学入学が決まった瞬間から「体育会サッカー部」に入部する事に何ら抵抗はなかった。高校仲間からは「体育会」が何であるかは断片的に聞いていたものの、その実態が何たるかは、入部し数日経ってから思い知らされる羽目になるのである。初日の練習は今も強烈な思い出なっている。なぜならば、先輩方は優しく、礼儀正しく、懇切丁寧な指導を実行していたからである(が、それは直ぐに豹変し、インドのカースト制を遙かにしのぐ階級社会の底辺に我々がいる事を痛感するのである)。練習の最後、二グループに別れ、ゴール間をリレー競走することとなったが、終了後、私は急き立てられるように緑のゴール壁の裏に走りこみ、激しくもどしていた。

★忘れる事のできない色々

✦平和ソング「ハトポッポ」:山中湖畔にて大声で歌わされた。

✦上野のとんかつ屋:納会開催場所。とんかつを食べた事はついぞ無かったと記憶(泥酔状態で潰れていることのため)。

✦「じゃー最後走るぞ!」:黄色いユニフォームのコーチが最後に発する恐怖の一声(指には紐付ホイッスルがクルクルと回転)。

✦熱中症:水分を一切取らず、真夏の炎天下、数時間の練習を良く凌いだものと、今から思う。記憶では倒れた選手は一人もいなかったと思う。

✦おばちゃん:グランド横の売店。肝っ玉母さん的な人が一人で切り盛り。一度、二人りでビールをお酌する事となり、おばちゃんの目がトロンとし出したので、逃げるように店を後にした。

✦チック・タックコンビ:練習後、同期の長谷川清と1対1の練習をよくしていたものだが、誰が名付けたのか、そう呼ばれていた。

★忘れる事のできないゲーム

✦リーグ戦城西大戦(一年):結果は負けたが、途中出場の予定がその機会はなく、後半中アップしながら終了の笛を聞いた。

✦リーグ戦城西大戦(三年):勝てば、大宮球技場での優勝決定戦進出の大一番。2対0で後半を迎え、同点に追いつかれ、終了間際に逆転される。

✦リーグ戦城西大戦(四年):大宮球技場での三位決定戦。1対0で迎えた後半ロスタイム。左からのセンターリングに私は頭で合わせ、同点とする。延長では力つき、結果敗戦。

★ 最後に

現在も、サッカー大国ドイツにてボールを蹴り続けているが、それはサッカーの奥の深さ、楽しさ、チーム競技の素晴らしさを植えつけてくれた、獨協大学体育会サッカー部での4年間があったからこそだと思う。その4年間、お世話になった先生方、諸先輩、同期、そして後輩達へ感謝申し上げます。

渡辺正文

<サッカー部の思い出>

私がサッカー部に入部したきっかけはラグビー部から強引に勧誘を受けたことでした。入学当時、私は65kgだった体重が80kg超になってしまいかなり立派な体格だったため、ラグビー部員の方の目に留まり無理やりラグビー部の部室に連れて行かれ入部を強要されました。しかし私は何とか断ろうとし、「自分は高校時代サッカーをやっていたのでサッカー部にはいるつもりです」と言ったら、ラグビー部の人が「わかった、案内してやる」と言って隣の部室に連れていかれました。するとそこにはサッカー部の部室で西村キャプテンがいらっしゃいました。こうして私の大学生活はバラ色の学生生活のはずが、サッカー一辺倒の汗臭い学生生活になってしまいました。

練習で一番印象的なのは16秒です。私は16秒が大の苦手で、なかなか16秒以内にゴールができなく他のメンバーに迷惑をかけていました。するとゴール間際、隣を走っている先輩が私の背中を思い切り押し、私は転がりながらゴールしていました。背中を押したのは多分当時2年の堀内先輩か熊田先輩だったと思います。

大学4年間のサッカー部生活はたくさんの喜怒哀楽がありとても充実した時期だったと思います。この時の経験が今の自分を支えており、たいていの困難には負けない精神力も身に着けました。卒業後もサッカーにかかわり続け多くのサッカー好きの人たちとの交流もできました。今は地元(草加市です)の少年サッカーチームのコーチとして活動しています。ずっとサッカーやってきて良かったなと思います。