66年(3期)

<私の独協大学体育会サッカー部>

1967年、田代力也先生が赴任され、私はキャプテンとしてプレーをすることになりました。長野での夏合宿の時、私は大腿部の肉離れが完治しないまま練習に参加した。先生ご自身の存在感が大きく、チームへの責任を感じつつ私は肉離れの足を引きずり走ったこと。また、黒いサングラスをかけた先生はギャングのボスを思わせた。独大卒業後、私は教員になり、教育大出身で田代先生と一緒にプレーをしたサッカー選手、監督との出会いが多く、埼玉教員チーム内での交流がスムーズでありました。

強烈に悲しいことは、同期の高橋真策の死でした。航空機に向田邦子氏と同乗した便が墜落してしまったのです。独大サッカー部が当時から長年お世話を戴いている高橋部長さんの弟さんでした。真策がある意味でサッカー部の中心でしたから、同期の仲間にとっては大変辛いことでした

年度については定かではないのですが、1966年?田代先生が赴任された頃だったと思う。独大のドイツ語教授(ブッフバルトにやや似ているドイツ人)がひょっこりグラウンドにやってきて、我々サッカー部員にトラッピング&パスの基礎を教えてくれたこと。私は個人的に感銘し、今でもその基本の大切さを大事にしている。だが、仲間の中にはその教授を困った顔で見ていた者もいたようだった。

また、松原団地に引っ越してこられた朝日新聞の記者である綾部氏(現、東京四十雀サッカークラブの重鎮で、79歳、ウイングプレーヤー)が仕事の休みのときによくグラウンドに顔を出してくださり、サッカーを指導してくださったり、共にボールを蹴ったりしたこと。なんと教育大出身で田代先生の3年ほど先輩であることが後で分かり、更に、未だにO-60以上の交流試合で同じピッチで私と一緒にプレーをし、試合後、酒を酌み交わしている。私にとって田代先生同様、かけがえのないサッカーを通した人生の師であり敬愛する人であります。

現在の独協大サッカー部の監督の松原先生との出会いは、SFAの評議員会の席上でした。先生と分かり、現在の独大サッカー部の様子をお聞きすることができました。昔とすっかり変わったのは、クレーから人工芝になった独大のグラウンドだということです。また、後輩たちは埼玉リーグで大変活躍しているということです。今後が楽しみです。

第3期生 主将 遠山 茂